第6話 籠の竜
ニーナは今、箱馬車の中にいる。
生き残った三名の黒服の男らに連れてこられ、山の麓に停められていたこの馬車に乗せられて、すでに数刻が過ぎていた。
馬車に入れられてすぐ、身体の縄は解かれている。
夕刻の時間は過ぎ去り、外は恐らく夜闇の支配する時間帯だった。
馬車はニーナを乗せるとすぐに、街道をひた走りに走りだした。外側には一応、窓があるように見せかけられてはいるものの、実際にはそれは開かない。
さすがに鉄格子などはついていないが、実質、獲物を閉じ込めて運ぶためだけに作られた代物だった。その目的は明らかである。
不思議なことに、夜だというのにニーナの身体は、金属鎧に紺のマントを羽織った昼の姿のままだった。
八年前のあの日以来、こんなことは初めてだった。
しかし、ニーナにもその理由はわかっている。
この馬車は、確かに外観だけは普通の箱馬車とさほどの違いはないように作られている。けれども実際は、全体が、とあるとてつもなく稀少な素材で出来ているのだ。
すなわち、火竜の結晶である。
竜の身体の遺物から抽出されるその結晶は、魔法を用いる際や魔法具を作るための素材となるものである。
火竜に限ったことではないが、竜の魔力を抽出する素材である竜の鱗や牙、爪などは、たとえ手の平にほんのひと
いくらあの男の立場でも、これほどの量の火竜の結晶を集めるとなれば、恐らく数年は要したに違いなかった。
その執念が、ニーナの背筋を寒くさせる。
火竜の国、ニーダーブレンネンの王太子、アレクシス。
八年前、自分とレオンをこのような運命に叩き込んだ男の名だ。
この大地にいる五頭の竜は、それぞれの属性を奉じているが、互いの魔力は互角ではあるものの、それゆえに干渉することは難しいらしい。だからこその、この五大竜王国の数百年もの安定なのだ。
こんな風に自分と異なる属性の魔力結晶に囲まれてしまえば、その者は自身の魔力の発動を最小限にまで抑え込まれてしまう。つまり、相手を傷つけることが目的でないならば、こうして取り篭めることは可能なわけだ。
ニーナは、火、風、水、雷、土のどの属性にも属さない、白銀の竜に
自分の属性が何であるのか、それはニーナも知るところではない。が、ともかくも、その他五つの属性のどれでもないことだけは確かだった。
他者を治癒する能力に何か関係があるのかもしれなかったけれども、単に治癒だけを言うのなら、それは他の竜たちにも程度の差こそあれ存在するものだ。だから、それだけを「属性」だと言うことは難しい。
ともかくも、自分は今、間違いなくかの男のもとへと連れて行かれているのだろう。黒服の男らは何も語らないけれども、この馬車の作りそのものが、それを雄弁に物語っていた。
火竜の結晶を練りこまれたこの馬車の壁も床も天井も、まるで
(アレクシス……)
ニーナはふと、八年前に見たかの強い光を放つ赤褐色の双眸を思い出して身震いをした。同じように強い光を放つとはいっても、あの王太子のそれは、レオンのそれとはまったく違う。
いや、一応「王太子」とは呼ばれるけれども、すでにその父王は長年病床にあって、あの苛烈な性格の息子に
彼らを戦わせてはいけない。
だからこそ、あの時、自分はあそこから逃げたのだ。
かの王太子の執着と力は絶大だ。レオンがたとえどんな稀有の
事実、八年前、彼はその右目を失った。
その傷は、白き竜たるニーナの力をもってしても、いまだに癒すことが出来ない。
ニーナは暗澹たる気持ちになりながら、紅玉に彩られた皮肉なほどに美麗なその馬車の内装を見つめた。
王族を座らせることを念頭に置いているためだからか、座席も非常に柔らかで豪華な絹地の設えになっている。もちろん、今のニーナにとってはそれは、単なる棘だらけの
と、思わず握り締めた自分のマントがぼろりと崩れるような感覚があって、ニーナははっと手の中を見つめた。
(これは……)
深い紺色のニーナのマントは、軽いながらも丈夫な織り地の品である。それが今、まるで長い経年を過ごしたかのように、脆く崩れてちぎれ始めているのだった。
少し指で触れるだけで、布地はぼろりぼろりと崩れてゆき、手の中からこぼれ落ちてゆく。見ればもう、マントはあちこち、虫食いのできたように穴だらけだった。
恐らくこれも、周囲を取り巻いた火竜の結晶の魔力の影響なのだろう。
ニーナはぞっとして、知らず我が身を抱きしめた。
マントと鎧は、竜の身体の一部でもある。
それはつまり、鱗や翼を意味するものだ。
それが崩れるということは――。
恐ろしい予感に苛まれながら、ニーナは唇をかみしめた。
(……無事なのですか、レオン)
届くはずのない声を、ただ心の中だけで繰り返す。
あの時、あの少年に託してきた「水竜の命の実」が今この場にあれば、この状況も、ここまで切迫しなかっただろうけれど。
それはもう、言っても仕方のないことである。
あの時はただ、彼の命を守ることが、何より優先されたのだから。
(無事でいて。……そして、わたくしを助けには来ないで)
二人が次に会ったが最後、彼の命はないだろうから。
己のものを奪った男を、あの王太子は決して許さない。
ごとごとと陰鬱な音をたてて走る「監獄」の中で、ニーナはただ、ひたすらにその事のみを祈り続けた。
◆◆◆
クルトが目を覚ましたとき、周囲はすっかり夜だった。
宿の一室らしい小さな部屋で、粗末だが清潔な寝台に寝かされていることに気付き、クルトは驚いて身体を起こそうとした。途端、身体じゅうがぎしぎし痛んだ。
「いっ……つ」
「まだ起きるな。熱は引いたが、かなり体力を消耗している」
即座にそばからあの低い男の声がして、クルトは驚いた。
見れば、向かいの寝台に座り込む大きな黒い影がある。窓からの月明かりだけが、室内を照らしている。
「レオン……。え、俺……?」
驚いてきょろきょろした拍子に、額に乗せられていたらしい濡れた布が、枕の上にぽとりと落ちた。それは明らかに、男が自分を看病してくれていたということだった。
クルトは愕然として、しばらくは男の顔と、落ちたその布とをかわるがわる眺めていた。
「な……に、やってんの、あんた……」
そのまま、クルトの寝台の脇にある丸椅子に座り、男はちょっと窓の外など眺める様子だった。
まるで何事もなかったかのように落ち着き払ったその横顔を見ているうちに、クルトはぐらぐらと腹の底が煮え始めるのを覚えた。
(ば、っきゃろ――)
こんなところで、何をやっているのか。
今すぐにでも、彼女を救いに走らねばならないはずの男が。
「追いかけろよ……ニーナさん。俺のことなんか、ほっとけよ……!」
両の拳を握り締め、少し投げやりな声でそう言ったが、男はやっぱり無言だった。
彼がそのまま、また布を絞って自分の額に乗せようとするのを、クルトは思わず手で払いのけた。べしっと、それが床に落ちた音がした。
「なに考えてんだよっ! こんなとこで、俺の世話なんかしてる場合かよ!? ニーナさん追っかけろよ、助けに行けよ……!」
『今回はそこの坊やの功績かしら』
『追っ手の男たちも、随分と手間が省けて』――
無情なあの女のそんな言葉が、嫌でもぐるぐると脳裏を駆けめぐる。悔しくて悔しくて、頭の中が焼き切れそうになる。
俺のせいだ、
俺のせいだ、
俺のせいだ。
どんなに振り払っても、そんな思いが頭の中にいっぱいになってしまう。
彼らの役に立つどころか、とんでもない足手纏いになってしまった。しかも、これは恐らく考えられる限り、「最悪の足手纏い」だ。
ニーナは奪われ、レオンはもう少しで死ぬところだった。
あの女が現れなければ、レオンの命は危うかったに違いない。
クルトは寝台の上にうずくまり、掛け布を頭から引っかぶって握り締めた。
「ばっかじゃねーの、あんた……! 俺の……俺の、せいなのに――」
「…………」
恨んでくれたら、詰ってくれたら、どんなに楽か知れないのに。
ひどい言葉で、「だからお前のような役立たずの餓鬼など連れて来たくはなかったんだ」と、はっきり罵ってくれればいいのだ。
そしていつもみたいに激怒して、殴るでもなんでもすればいいのに。
しかし、男は何も答えない。
部屋の中はただ静かで、窓の外から月がそっと覗いているばかりなのだった。
やがて、かなりの時間がすぎてから、ようやく男はぽつりと言った。
「……行き先は知れている。慌てた話ではないんでな」
「……え」
クルトがちらっと上掛けの下から目を出すと、レオンはやっぱり静かな瞳で、じっとこちらを見ているようだった。が、やがて盥の脇に置かれていた小さな革袋を取り上げて、クルトの立てた膝の上にそっと乗せてきた。
それはニーナが自分に託してくれた、あの木の実のような物の入った革袋だった。
「え?」
怪訝に思って見上げると、ごく近くに彼の翠の隻眼があって、クルトは思わず言葉を失った。知らず、こくりと喉を鳴らしてしまう。
今まで、ただ恐ろしいと思うばかりで、彼の目をこんなに間近に見たことも、綺麗だと思ったこともなかった。男のその表情も、ごく落ち着いた、冴え冴えとしたものである。
やがてレオンは、ゆっくりと口を開いた。
「無様なところを見られたな。すべて、俺の力不足によるものだ。……お前には礼を言う」
「え――」
あまりにも突拍子もない台詞がきて、クルトは愕然とした。
(れ……、礼……?)
この男、自分に礼を言うといったのか。
とても信じられなくて、クルトはしばらく口をぽかんと開け、馬鹿みたいに男の顔を穴の空くほど見つめてしまった。
「な、なんで……」
「この薬だ」
言って、レオンがちょいと革袋を指先でつつくようにした。
「これは、姫殿下のお国の……水竜の結晶だ。彼女の母君が、そのお命を懸けて彼女のためにとご用意された大切な品でもある。本来なら、俺ごときに使っていいような品ではないが――」
そこでちょっと、レオンは思案するように言葉を切った。
「あの時は本当に助かった」
「…………」
クルトは呆然と、膝の上のその袋を見つめた。
(そっか……)
それでは、ニーナに言われた通り、レオンに薬を使ったことは、まったくの無駄ではなかったのだろう。あのぞっとするような美貌の女、ミカエラがレオンにしたことも、もちろん大きかったのだろうけれども。
「あの時、お前がこの薬を使ってくれていなければ、いかな俺でもあそこで終わっていたはずだ。あの場で即座に薬を使ってくれたこと、幾重にも礼を言う」
言って、レオンは居住まいを正し、きりりとクルトに頭を下げた。
そういう礼の仕方というのは、あまりクルトも見たことがないけれども、彼の故郷ではそれが当たり前なのかも知れなかった。
「ああ、ただし」
と、男は少し言い足した。
「念のために断っておくが。この薬、お前自身には決して使うな。普通の人間には、魔力があまりに強すぎる。使えば
「…………」
クルトは何も言えないで、指し示された革袋をただ見つめるしかできなかった。
男はちょっと言葉を切って、何事かを考える様子だったが、やがて再びじっとクルトを見つめて、静かな声でこう言った。
「お前を子供と思って見下していた。連れてきたところで、ただの足手纏いにしかならんとな。大変失礼なことをした。……心より、詫びを言わせて貰いたい」
言ってふたたび、頭を下げる。
まっすぐなその言葉には、どこにも嘘の響きはなかった。
クルトは何を言われたのかもよく分からずに、ただぼうっと、精悍な隻眼の男の顔を見つめていた。
そうやっていつまでもクルトが黙っているので、レオンは少し変な顔をしたが、やがて軽く口角をあげて、こう言った。
「『恩人』であるお前を見限って、看病もせずに放置などして姫殿下を追いかけてみろ。俺は彼女から、即刻、死を賜るわ。それはいかにも剣呑なのでな」
くくく、と冗談ごかしに、男の口から小さな笑声が漏れる。
クルトはもう、呆気にとられて男の顔を見返すばかりだ。
(なに、言ってんだよ……?)
そもそも、敵を引き寄せてしまった
そんな自分に、こんな大人の男が大真面目に礼を言ったり、謝ったりして。
激怒され、顔の形が変わるぐらいに殴られたって、仕方がないと思っていたのに。
第一、そもそも、あのニーナがレオンに「死を賜る」わけがないだろうに。
「ば、……っかじゃね……?」
クルトはもう、自分の声と肩が震えてくるのを、どうにも止められなくなっていた。
歯を食いしばってみればみるほど、鼻の奥がツンとしてくる。
男は黙って、そんなクルトを見返している。
「バカだろ、あんた……。そんな、こと――」
何を言ってるんだ。
本当に、バカじゃないのか。
いや、違う。
(ちがう、そうじゃなくって……!)
いま、彼に言いたいこと、言わねばならないことは、そんなことではなかった。
「ごめ、……おれっ……」
その言葉をやっと言ったら、もう我慢ができなくなった。
クルトはばっと両方の拳で顔を覆うようにして、大声で言い放った。
「ごめん……。ごめん! ごめんなさいいっ……!」
自分なんかが、ついて来たから。
自分のために、二人を人のいる場所に近づけたから。
その上に、熱まで出して、手間を掛けさせて――
さらには、敵の人質にまでされてしまった。
言いたいことは山ほどあるのに、それらはぜんぶ、掠れた悲鳴みたいな泣き声になるばかりだった。クルトは必死で口を押さえて、それを抑え込もうとした。顔を膝小僧の上に押し付けて、小さくうずくまるようにして声を抑える。
結局、言いたいことの半分も言えないまま、全部が嗚咽になってしまう。
もう、情けないといったらなかった。
……なんて、ガキなんだ。
そんな自分が嫌になる。なるが、だからといって、みっともない声もぼろぼろ溢れるものも、ちっとも止まってくれなかった。
しばらくそんなクルトをじっと見ていたらしいレオンが、やがてぐいと片手を伸ばし、クルトの頭の上に手を置いた。
そうしてごく静かな声が、クルトの耳にそっと届いた。
「……もういい。泣くな」
ぽすぽすと、軽くそこを叩かれる。
そうしたらもう本当に、クルトの喉は引きつって、涙も、声も、止まらなくなった。
薄ぼんやりとした下弦の月が、安宿の小さな窓の隅から、黙って二人を見下ろしていた。
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