第8話 主従
はっと気づけば、ヴァイスは自分の寝所にいた。
いつもの、火竜宮の中にある自分の居室である。
さしたる装飾などほとんどない、ただただ実用一辺倒の
これは勿論、ヴァイス自身の希望によってこうしたものだ。こうなっていれば、寝る直前まで仕事をしていても差し支えないからである。机の上には、王宮を離れていたあいだに溜まってしまった、目を通さねばならない文書がもう山積みになっている。
(わたしは……)
意識を失うまでに起こったことを急いで呼び起こして、愕然とする。
燃え盛る炎と、風と水による魔力の激突。
絶海の孤島で起こったあのできごとが、いまでも現実とは思えないほどだった。
思っていた以上に体力を消耗していた自分は、それでも最後の力を振りしぼり、「風竜の結晶」を用いて下級の短い「跳躍」魔法を何度も使って、殿下と共にこちらに戻った。
とはいえ、記憶は途中で途切れている。どうにかこうにか最後の「跳躍」の韻律を唱えたあと、どうやら自分は意識を失ってしまったようだ。
殿下には、随分とご迷惑をかけたのに違いなかった。
(そうだ。殿下……!)
慌てて寝台から下りようとしたら、ヴァイスの足はほとんど体重を支えられずにぺしゃりと崩れてしまった。そのまま、ずるずると床にずり落ちてしまう。
体に異様に力が入らない。いったい自分は、何日ここに寝ていたのだろう。
薄手の絹地の夜着だけの姿で、ヴァイスはしばらく呆然とそこに座り込んでいた。
と、部屋の扉の向こうでヴァイス付きの召使いの遠慮がちな声がした。
「ヴァイス様、お目覚めでいらっしゃいましょうか。殿下の、おなりでございます――」
「え……」
返事をする間もなく、さっと扉が開かれて、いままさに脳裏に思い描いていたその人が颯爽と部屋に入ってきた。
白い軍装に、紅のマント。一分の隙もない、いつもの姿だ。
男は召使いらをさっさと部屋の外に下がらせて、すぐにこちらにやってきた。そのままヴァイスの目の前で仁王立ちになり、腕組みをしてこちらを見下ろす。
「気がついたのはいいが。床で何をやってるんだ」
「あ、いえ……!」
ヴァイスは慌てて居住まいを正し、その場でアレクシスに平伏した。
自分には今、何よりも、殿下に言わねばならないことがあった。
「申し訳ございませんでした、殿下……!」
「ん?」
と、アレクシスの声が不審になる。
「わたくし如きが、ほかならぬ殿下の
ヴァイスは頭をあげないまま言い募る。
「もちろん、覚悟はできております。どうぞ臣のこの命、いかようにもご処断なさって下さいませ――」
「そうだな。お前は、俺に逆らった」
ヴァイスの声を遮るように、またアレクシスの声が降ってきた。その声は、ごく怜悧なものだった。
ヴァイスは静かに、次なる主人の言葉を待った。
どんな刑を言い渡されようが、甘んじて受けるつもりだった。
この王宮で、この方に逆らって命を永らえ得た者はない。単に死罪であるならまだ優しいほうで、ひどい怒りに満たされれば、この殿下はその臣に、それは苛烈な処罰を下すのが常である。
しかし。
降ってきたのは、まったく思いもよらない言葉だった。
「が、死んで詫びを入れることは許さん」
「は……?」
ヴァイスは驚いて目を上げた。
「聞こえなったのか。『死ぬなどは許さん』と言ったんだ」
「は、……いえ、しかし――」
戸惑っている臣下の青年を、やっぱり立ったまま見下ろして、王太子は吐き捨てるようにして言った。
「愚か者が。それではあの場で、俺がわざわざ『治癒』を施した意味がなかろうが。貴様この俺に、二度手間、三度手間をかけさせる気か」
非常に機嫌の悪そうな声にしか聞こえないにも関わらず、その内容と声とがまったく一致しない。ヴァイスは不思議な気がして、ただぼうっと主である青年を見上げていた。
この方は、何をおっしゃっているのだろう。
あんな風にご自分を裏切って、せっかく捕らえた水竜の姫を逃がそうとまで画策したような臣下を、死罪にしないと仰せなのだろうか……?
「なんだその顔は」
「まことに詫びるつもりなら、生きて、俺の側にいろ。生きられる限り生きて、俺の傍らで役に立て」
明らかに殺気の籠もった、まさしく怒り心頭の時の顔であるにも関わらず、アレクシスの言うことはその真逆もいいところだった。
「殿下……」
ヴァイスが呆然と、ただもうそれしか言えないでいると、アレクシスはびしりとこちらを指さして言い放った。
「それ以外の謝罪は要らん。……分かったな」
そういい捨てるなり、紅のマントを翻して、また大股に部屋から出てゆく。
その姿はあっという間に、扉の向こうに消えてしまった。
部屋にひとり取り残されて、寝台の脇で座り込んだまま、ヴァイスはしばらくぼうっとしていた。
「でん、か……」
どうしたと言うのだろう。
殿下の中で、いったい何が起こったというのか。
もしかしてあの時、あの小さな少年が勇気をふり絞って叫んでくれたあの言葉が、殿下のお心に少しは届いたということなのだろうか。
(そう、なのか……?)
そうであったらいい。
そうであったら――。
と、殿下が出てゆかれたことで、自分付きの召し使いの青年がおずおずと扉の向こうから顔を出した。
「ヴァイス様……。失礼をいたします」
控えめな声でそう言って、青年はすぐにヴァイスに手を貸してくれ、寝台にもとのように寝かせてくれた。
「ありがとう、クーノ。どうやら、かなり手数を掛けてしまったようだね……」
「は? いいえ、そのような!」
気のいい召し使いは首を振って、にこりと笑った。
「お戻りの時には、もちろん、ひどく心配いたしましたが。何しろ、お気を失っておいででしたもので……。でも、ええ、殿下がヴァイス様をお抱きになったまま、すぐにこの部屋へ運び込んでくださいまして」
「……え?」
ヴァイスは一瞬、自分が何を言われたのかが理解できなかった。
黙りこくったヴァイスに構わず、青年は話し続ける。
「その後も毎日、こちらへいらしては、ヴァイス様に治癒の魔法を手ずから掛け続けてくださって……」
(なんだと……?)
信じられない言葉を聞いて、ヴァイスはしばし、呼吸を忘れた。
「い、今……なんと?」
「はい。ですからわたくしどもは別に、さほどのお世話は……。ほとんどすべて、殿下が手ずからなさって下さいまして。医師も魔法官らも追い出してしまわれたり、かえってなんだか、わたくしどもが手を出すのをひどく嫌がっておいでのようでしたもので」
「…………」
「それで、心配はしておりましたけれども、かえって安心いたしました。あのような殿下を見たのは初めてでございます。年配の者たちも、まったく同様に申しております――」
(まさか……そんな)
ヴァイスはもう呆然と、青年の顔を見返すしかできなかった。
青年は青年で、困ったような顔で苦笑を返してくれている。彼もこの事態をどう受け止めればいいものやらと戸惑っているのが明らかだった。
(変わる……のか。)
その言葉は、閃くようにしてヴァイスの脳裏に浮かび上がった。
(変わる、……のだろうか――)
カーテンの隅から差し込んでいるぼんやりとした陽光が、うっすらと輝きを増したような気がして、ヴァイスは息を詰めた。
薄暗かった部屋の中が、ほうと静かに温かみを増したようだった。
あの方の、お心が。
幼い頃より、だれに愛されることもなく。
ただ虐げられ、蔑まれ、傷ついて、孤独のなかを生きてこられたあの王太子のお心が。
あらゆる蔑み、あらゆる暴虐、そしてあらゆる無関心――それらすべてを外界へと叩き返し、気に入らぬものすべてを
(まさか……。しかし)
そうしてできた、底も見えないほどの虚ろな心の穴を、かの美しい竜なる姫で
しかし、もしも今、その底知れぬ闇を飲み込んだ大きな穴が、少しずつ埋まろうとしているのだとすれば――。
(そんな事が、ほんとうに……?)
ヴァイスの体はがくがくと震えだし、自分でも止められなくなってしまった。
思わず我が身を抱きしめる。
「ヴァ、ヴァイスさま……? いかがなされました」
驚いた青年が、起き上がろうとするヴァイスに手を貸してくれた。
ヴァイスは口許を手で覆い、つい先ほど殿下の去られた扉のほうを、こみ上げるものを堪えながらじっと見た。
(殿下……!)
ともすると漏れでてしまいそうな嗚咽をこらえながら、ヴァイスはあらためてそこで座りなおし、王太子の出て行った扉に向かって平伏した。
そうして、驚いて隣でおろおろしている召使いの青年の目も構わず、ヴァイスはそこで、肩を震わせながらいつまでも頭を下げていた。
◆◆◆
火竜国の王、ゴットフリートが身罷ったのは、それからひと月ばかりのち、年が明けてからすぐの、<
そして、火竜宮では厳かに戴冠の儀が執りおこなわれ、実質すでに国王としての政務のほぼすべてを取り仕切っていた王太子アレクシスが、これにて正式に王座にのぼり、新たな火竜王となったのだった。
この若き王の誕生に、
厳しい冬をすごすこの国にあって、いまだ雪深い時候のことでもあったにも関わらず、各地で新王誕生を寿ぐさまざまの祝賀の宴や祭りが催された。
酷薄、残虐、苛烈で知られる先王は、国民に畏怖の念を抱かせこそすれ、決して愛される
とは言え実際は、その苛烈きわまる政道の多くのことが、実際にはアレクシスの
竜国暦1039年、春。
アレクシスは、火竜国の宗主となった。
そして、彼の傍らには、若くも美々しい青年が、端麗かつ謙虚な立ち姿でそっと寄り添うようにして立っていた。
巷の情報通の者らの噂によれば、長年、先王に仕えてきた宰相の老人はこれを機に引退を申し渡され、かわってその美貌の青年が、なんと
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