第6話 哀歌
小舟のたもとに生まれた渦は、どんどん大きくなってゆく。
しかしその上に乗った小舟は、波に揺られながらも沈むような様子はなかった。
と、みなの耳の中に王妃の声が届いた。
『
「お母様っ……!」
皮肉なことに、こちらの岸近くにいるアルベルティーナが喉を枯らして叫んでいる声は、少しもあちらに届く様子ではなかった。
『わたくしは、もと、隣国、雷竜神さまの庇護のもとにあった娘ではございますが、夫はあなたさまの
対する王妃の声は、そういう年齢の女性としての落ち着きはありながら、愛する者らへの気持ちにあふれた、切々とした哀調を帯びていた。
穏やかな声音でありながら、こちら側で必死に叫ぶアルベルティーナ王女の声よりも、はるかに王妃の声のほうが説得力をもって耳に届くのはなぜなのか。これもやはり、あの魔法官たちの唱える韻律の影響なのかもしれなかった。
小舟をとりまく渦はますます波を高めて、湖全体の水をぐるぐると回し始めた。小舟はその中心に吸い込まれることもなく、周囲をゆっくりと回り続けている。
レオンはなおも前に出ようとする姫の肩をつかんでお
と、きんきんと、耳の奥が非常に高音の唸りのようなもので痛み始めた。
そして、うおん、と一瞬、周囲の空気が重みを増して、自分の体重が一気に何倍にもなったような錯覚が襲った。
(……来た。)
レオンは、本能的にそう思った。
そこに、まさにその場に、今の今までそこにはなかった、なに者かの意識が目覚めたことを悟った。
いま、レオンは、自分が森の生き物たちと同化しているのを感じた。
かの者を畏れ敬い、その怒りに触れることを恐れ、かの存在の眠りを妨げることを忌避しようとする、ごく原初の意識のようななにかが、四肢のすべてを支配している感覚があった。
森はまさに、死んだように静かだった。
そこではすべての生きとし生けるものが、固唾を飲んでことの成り行きを見守っているかのようだった。
やがて、一同の耳に、荘厳な声が響き渡った。
それは明らかに、先日、あのミカエラが水竜王国の城において暴発した際に耳にしたのと同じものだった。
《……我を呼び覚ましたるは、そなたか》
その声は穏やかで温かく、慈愛に満ちた老人の声を彷彿とさせた。
それは紛れもなく、
湖の水は、ゆるゆると渦を巻きながら動いているが、その中央部がぼうっと半球状に青白い光を発しているのを、岸辺の一同は呆然と見つめていた。
竜らしい姿はどこにもなかった。
しかし、確かにそこにその者がいることを、その場の皆は確信していた。
さすがのブリュンヒルデも、その声に臆したかのように、しばらく沈黙していた。しかし、やがて自分を奮い立たせるようにして顔を上げ、ゆっくりと言葉を発した。
『はい、左様にございます、水の守護竜神さま。このたびは、水竜神さまの安らかなるお眠りを妨げましたる非を、どうかお許しくださいませ』
そう言って、王妃はそこでしとやかに貴婦人の礼をした。
『わたくしの名は、ブリュンヒルデ。もと、雷竜神さまの娘であった女でございます』
そこからふつりと、聞こえる音声は途絶えた。
王妃が水竜神となにごとかを話し合っていることは、こちらにいるレオンたちにも知れたのだったが、その詳しい内容までは聞き取ることができなかった。
やがて、再びあの深く慈愛に満ちた声が湖面の渦に漣をたてるようにして響き渡った。
《水の分限を侵さんとする火竜の子の出現は、すでに我の知るところ。さらに風の朋輩にも、昨今、娘が生まれたはずである。これら二竜の子が手を携えるは、地の子らの騒乱を招くもと。そなたが憂慮も当然至極――》
《五竜の均衡を乱さんとするは、いかにも若き覇者らしき企みなれども、無論、許さるる仕儀ではない》
《眷属の力を悪しき呪いの道に堕さしむるは愚の愚なり。
そして遂に、水竜はつぎの言葉を与えた。
《雷の朋輩が娘、ブリュンヒルデよ。その望み、確かに聞き届けよう――》
『ああ! 有難う存じます、水竜神さま。至高なる我が父君さま……!』
『どうぞ、お約束どおりにこの命、ご存分にお使いくださいませ――』
途端、レオンの掴んでいたアルベルティーナの肩がびくりと震えた。
「だめっ! やめて、お母様っ……!」
だが、その叫びも虚しかった。
ブリュンヒルデは湖の中央に現れているぼうっとした青白い光のほうへゆっくりと手を伸ばしてゆく。
アルベルティーナは、ついにレオンの手を振り切ってさらに水に踏み込んだ。
すでに水深は、彼女の太腿のあたりにまで達している。
「いやああ! お命を粗末になさらないで、お母様あああっ!」
血の出るような叫びが姫の喉から迸り、そこではじめて、小舟上の王妃がこちらを見たようだった。
『……ティーナ。覚悟を決めるのです』
その声はもう、揺るぎのない決意に満たされていた。
きっと、もう誰も、この方をお止めすることなどできない。レオンも、そのほかの皆も、その声を聞いただけでそのことを悟った。
『よいですか、ティーナ。ただいま、水竜神さまとお話をさせていただいて、わたくしにははっきりと分かりました。これから恐らく、かの火竜の子と、風竜の娘によって、この地には恐るべきことが始まることでしょう』
「お、かあ、さ――」
『しかし、それをただ許してはならないのです。……悪しき呪いを跳ね返すには、わたくしたちも、それ相応の力を手にいれなければなりません』
姫の母は淡々と、娘を宥めるように優しい声で語りだした。
『守護竜様がたにご祈願申し上げるには、祈りびと自身の命、またはそれに匹敵するほどの、大切な者の命を必要とするのです。いま、国王たるお父様のお命を差し出すわけにはゆきません。ディートリヒはまだ若年ですし、下の弟たちも同様です』
アルベルティーナはもう、絶句して母の姿を見つめている。
『けれど今、幸い、雷竜神さまの娘であるわたくしでもよいと、水竜神さまからのお許しをいただけました。いえ、むしろ、わたくしであらねばならないのです。わたくしがこうすることで、きっと雷竜神さまも、この後、わたくしたちに力を与えてくださることになるでしょうから』
「お母様……、おかあさ――」
姫の声は、もう掠れきっていて、レオンの耳にも届かないほどだった。しかし、触れている彼女の身体は、もう
『分かってちょうだい。どうか……堪えてちょうだいね、ティーナ』
「いや……、だめよ……!」
言って、姫がまたざぶりと湖水に足を進める。
後ろのレオンは、彼女の肩をお掴みしたまま、必死にそれを引き止めた。
「姫殿下、お願いです。どうか、おとどまりを――!」
しかし、アルベルティーナは首を激しく横に振り、こちらを一切見ようともしなかった。
『きちんと、幸せになるのですよ。ティーナ。……なんのかのと申しても、世の母の望みというのは結局のところ、それに尽きるのですから――』
そっと微笑むようにして、ブリュンヒルデ王妃は優しい声でそう言った。
レオンが後ろから両肩を支えている姫殿下の身体は、もうかたかたとずっと震えっぱなしだった。
『どのような困難も、いつかは必ず終わるのです。苦しい嵐が、ただいつまでも吹き続けた
「お……かあさま、……お――」
アルベルティーナは両手で口許を覆って、ゆっくりとかぶりを振り続けている。
『どうか、約束してください、アルベルティーナ。それがこの母の、最後の願いなのですよ』
「…………」
しかし、姫はもう、大粒の涙をこぼすばかりで、何も言えなくなっている様子だった。
と、レオンはふと、王妃がこちらを見ているような気がして目を上げた。
遠く隔たった王妃殿下が、どこを見ているかなどわかるはずもなかったのに、不思議とそんな気がしたのである。
レオンはそして、彼女が今、自分になにを求めているのかを何となく理解した。
そして、眉間を厳しく引き寄せた。
「…………」
もう、無理なのだ。
こと、ここに至っては、どうあっても、何をどう説得しても、あの王妃殿下のお心は変わるまい。
姫殿下のお気持ちは、心の臓を裂かれるように分かるけれども、それでももう、ここから何をどうやっても、王妃殿下をこちらの世界へお戻しすることは叶うまい。
つまり、まだこれからも生き続ける、生者の
(……それならば。)
だからレオンは、一度だけぎゅっと目を瞑り、それからぐっと顔を上げ、アルベルティーナの背後から、静かにこう語りかけた。
「……姫殿下。どうか、お母上様にお返事を」
「…………」
が、姫はだまって涙を零しながら、そこに立ち尽くしているばかりだった。
レオンはもう一度、少し語気を強めて言った。
「姫殿下。……これが、最後なのですよ。どうぞ、お母上様にお返事を――」
自分の言葉のひとつひとつが、姫の心を切り裂いているのを自覚していた。
そしてそれは、そのままレオンの胸にも突き刺さった。
「もう、時がありません。……どうか、お早く――」
押し殺したような声で、レオンがそう言った時だった。
ぶおん、と周囲の空気がさらに一段と圧力を強めたような感覚があって、ブリュンヒルデの目前にあった青白い光源がひとまわり大きくなり、より一層、その輝きを増したようだった。
(だめか……!)
レオンは遂に、腹を括った。
そして、「申しわけありません、姫殿下!」とひと言叫ぶと、彼女の肩を引いてこちらを向かせ、平手で一度、その頬を張った。
ぱちん、と乾いた音がした。
「……!」
姫は一瞬、何が起こったのか分からないように、ぼうっとした目でレオンの顔を見返した。
レオンは彼女の両肩を握り、それを揺さぶって言い募った。
「姫殿下! はやく、王妃様にお返事を! 時間がありません、どうかお早く……!」
この人に、何かを後悔させたくなかった。
そうこうするうちにも、視界の隅ではあの光体が、しゅるしゅると空中に舞い上がり、ブリュンヒルデたちを照らすようにして光度を増している。
姫がやっと、その瞳に理性を取り戻したように見えた。
そして、ぎゅっと唇を噛み締めると、王妃らの方へ向き直った。
「お母様っ……! お母様――」
ぶおん、ぶおんと光球が発する圧力のようなもので、姫の声はかき消されるばかりに思われたが、王妃殿下はまたこちらを見ると、ふわりと表情を和らげたようだった。
アルベルティーナ姫は、レオンに肩を抱かれるようにしながら叫んだ。
「お約束、いたしますっ……! 必ず、かならず……! お母様っ……!」
彼女がそう叫んだ瞬間、ずしりと周囲の空気が重くなったようだった。
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