第3話 下級将校レオン

「さて。それで、これからどうしたものだろうね」


 父ミロスラフが、その穏やかな声でそう言ったのは、少し場が落ち着いてからのことだった。

「『事実は分かり次第ご連絡さしあげる』と義兄上あにうえ殿にはお約束申し上げている。だからこれは、そうせざるを得ないわけだが。レオンハルト殿下とエリク君の意向はどのようなものなのだろう。今後、どうしたいと考えているのかな」

 彼の「義兄上殿」というのは勿論、雷竜王エドヴァルトのことである。


 そう言われても、レオンはどうやら、特にこれといって今までと違うことを始めるつもりは毛頭なかったらしい。

 なぜなら即座に、彼は父にこう返答したからである。

「陛下。申しわけありませんが、できますことなら今までどおり、自分はただ一介の下級仕官として、こちらの宮殿にお仕えさせていただくというわけには参りませんでしょうか」

「ほう……?」

 さすがのミロスラフも、やや目をみはるようにしてレオンを見返した。

 レオンの隣に座るエリクも、その言葉には驚いたようだった。

「いえ、しかし……殿下、それでは――」

 が、レオンは養父の言葉をやんわりと片手で押しとどめるようにした。

「いえ、父さん。これはすでに、かの雷竜王、エドヴァルト陛下にも申し上げてきたことなのです。現国王、ゲルハルトが風竜国を十分に治めているというのなら、今さら自分が、ただの私怨のゆえに蜂起つことなど無用ですと」

「で、殿下……!」


 エリクのその驚きは、当然のものだったろう。

 こちらの水竜国王家の三人も、それは同様だった。しかも、彼はたった今、実の弟に裏切られ、無残な死を遂げたという父と、その妻であり母である人の物語を聞かされたばかりなのだ。いくら記憶にない両親のことだとは言え、恨みのひとつもないなどということがあるのだろうか。

 それに、それは単に恨みだけのことでもなく、王族としての矜持にも関わる大事ではないか。自分こそが風竜王国の正統なる王だとわかってもなお、彼は自分の父から卑怯な手を使って王位を簒奪した、老獪な奸悪に立ち向かおうとはしないのか。


(そんな、ことって――)


 アルベルティーナには、とても理解できない気がした。

 もしも自分が彼の立場で、父母をそんな惨い形で喪っていたとしたら。

 自分だったら何を措いても、親の仇を取り、現王権に反旗を翻して、それを奪い返しに走るのではないだろうか。

 いや、それは勿論、こうして目の前に優しい父と母とを見て、知っているからということも大きいのだろうけれども。


(本当に、それでいいの……? レオン――)


 しかし、ミロスラフが口を出さない以上、アルベルティーナにもこの問題に口を挟む資格はない。これは飽くまでも、風竜国の国内問題だからだ。判断すべきはまず王位継承者たるレオンであり、その国の臣であるエリクであろう。だから彼女も、黙って続くレオンの言葉を聞くしかなかった。


「『恨みがない』、と申し上げているのではないのです。自分も勿論、実の父と母の仇は憎いと思う。……しかし」

 レオンは淡々と、彼の養父を説得するようだった。

「こちらへ戻ってくるまでの数週間、考えておりました。王族同士の争いのために、かの国の内政を混乱させることがまことに正しいことでしょうか。申しわけありませんが、今の自分にはそのようには思えません」

「で、殿下……」

「内政の乱れは、民を疲弊させるばかりのこと。戦は、彼らの平穏な生活を乱し、また壊すばかりのことです。市井に生きる民の皆には、王族同士の騒乱など、ただ迷惑なだけであって、なんの関わりもないことなのですから」


 ミロスラフ王は、目の前で語り続けるレオンの静かな横顔を、深い色をたたえた瞳でじっと見つめているようだった。その口端には、ゆったりと満足げな笑みが浮かんでいる。

 アルベルティーナはそんな父の顔をそっと盗み見て、不思議に嬉しいような気持ちになる自分に気がついた。


 どうしてだろう。

 父はどうやら、レオンの判断を聞いて喜んでいるように思われた。


 レオンは話を続けている。

「王国軍の騎馬が畑を荒らしまわり、補給路途上の村や町は食料の供出を余儀なくされ、或いは奪われ、場合によっては村人も、略奪と暴行の憂き目を見る。それは、これまでどこの国の騒乱でも、過去に起こり続けてきたことでありましょう」

「しか、し……殿下」

 続く言葉を紡げないまま、それでも「しかし」を繰り返す養父のことを、レオンはむしろ優しいといってもいいような瞳でじっと見ながら言葉を続けた。


「ゲルハルト陛下が国王として十分な素地を持たれる人物だというのなら、自分はそれでいいと考えます。それに、こんな自分が父や叔父以上の王になれるという保証も、あるわけではありませんし」

「そ、そんな、ことはっ……!」

 叫びかけたエリクの言葉を、レオンは再び手をあげて押しとどめた。

「むしろ、今のお話を聞く限り、残念ながら父と自分とは相当、内面的に似通った部分があるように思います。でしたら再び、臣下に疎まれ、同じ道を歩む危険も多うございましょう。それでは、意味がないのです。そんな反乱に、もはや意味などありましょうか。なおさら、民に申しわけが立たないというものでしょう――」

「…………」

 エリクはもう、絶句してレオンの言葉を聞いているばかりである。


 ここまでの話を聞く限り、レオンもレオンなりに、あの雷竜国からの帰国の途上で、ずっとこの問題について考え続けてきたということらしかった。


「現宰相、ムスタファなる人物についても、勿論思うところはあります。彼奴きやつを目の前にすれば自分も、思わず剣を抜くやもしれないとは思う。……ですが、それでも――」

 レオンはあとは、ただ静かに首を横に振っただけで自分の意思を表現した。

「申しわけありません、父さん……。父さんのお気持ちも、十分に分かるつもりではいるのです。しかし、こればかりは、ご意向に沿うことはできません――」

 そして、すっとエリクに向かって頭を下げた。

「どうか……、お許しを」

「いえっ……! 殿下、そのような……!」

 エリクはそれを見てひどく慌て、すぐさまソファから飛び降りると、床の上に平伏した。

「申しわけございません……! たかが臣下の端くれに過ぎない自分のような者が、口はばったくも殿下のご意向に意見するなど、身の程もわきまえぬことでございました……。どうか、平にお許しくださいませ――」

 エリクのそんな姿を見下ろしたレオンの瞳に、ちらりと寂しげな色が宿ったようだったが、彼は今回は特に何も言わなかった。

 アルベルティーナはそんなレオンを、また胸の中にちくりと痛みを覚えながら見つめていた。


「……そういうことで、いいのだね? お二人とも」

 やがて、レオンが養父の手を取って起き上がらせ、再びソファに座らせたところで、ミロスラフが口を開いた。

 父はもはやアルベルティーナの気のせいではなく、非常に嬉しげな顔をしていた。その理由がなんであるのか、娘の自分にはなんとなく、分かる気がした。

 父は、確かにその時、王位継承者としてのレオンのその判断を「善し」と見たということのようだった。


「では、レオンハルト殿下のご意向については、こちらからも改めて雷竜国へお伝えしておくようにしよう。……ああ、ただ、あちらのティルデ王妃なのだが」

 と、ミロスラフは思い出したように付け加えた。


(王妃様……?)


 アルベルティーナは、かの国でお会いした、あの少し小柄で美しい貴婦人の、レオンによく似た面差しを思い出した。

「レオンハルト殿下のご身分についてはっきりした時点で、実の叔母上として、できれば彼のお身柄をお手許に置きたいとのご意向もあられるようだったのだが」

「そうなのですか……!?」

 思わず、アルベルティーナはびっくりして父に問い返してしまった。レオンも少し驚いた顔で父を見返していた。


 父がちょっと困った笑顔を作って頷く。

「ああ。どうやらレオンハルト殿下は、そのお姿のほうも先の王、ヴェルンハルト公に非常によく似ていらっしゃるのだそうだ。ティルデ王妃は、かの兄王をそれはお慕い申し上げていた妹君だったのだから、慕わしさも一入ひとしおでいらっしゃるのだろう。これは無理からぬ話だろうね」

「え、で、でも……」

 アルベルティーナは、思わず声を上げていた。


 それでは、レオンとは離れ離れになってしまう。

 彼が隣国の王家に引き取られるようなことになれば、もう今までのようには彼と会うことなど叶わなくなるではないか。

 ティルデの気持ちは十分わかるが、アルベルティーナにとってはそれは、すぐに頷けるような話ではなかった。


「でも、それでは……」

 つい口を出しそうになったアルベルティーナを、父は優しいながらも片手でそっと押しとどめた。それはいかにも「心配せずともよい」と言うかのようだった。

「ただ、これについては、私もあまり賛成はできないかと思っている。なんといっても、雷竜国ドンナーシュラーク風竜国フリュスターンの隣国だ。レオンハルト殿下の存在が万が一にも知られてしまえば、おのが権益を守らんとする勢力から、またどんな横槍が入らぬとも限らないからね――」


(……!)


 アルベルティーナは、穏やかな父の言葉に慄然とする。

 そうなのだ。もしも存命が知られてしまえば、彼は即座に、現風竜国の勢力から命を狙われる立場になろう。


「殿下のご意向にお変わりがないのなら、このまま身分を隠し、こちらの国でお過ごしいただくのが一番平穏に済むというものだろう。私としては、殿下がご身分を隠しておられる限りは、このままお匿い申しあげるにやぶさかではないつもりだよ」

「……恐れ入ります」

 すぐさま、レオンが一礼した。隣のエリクも、それに倣うようにして深々と頭を下げる。

「あ、……有難うございます、陛下……!」


「ああ、……ただし」

 が、父はちょっと意味ありげな笑みを浮かべると、ソファから立ち上がってレオンの側に歩み寄った。

「君の、今後の立場については異論があるかな?」

「……は?」


 父はその時、いつになく少し悪戯っぽい瞳の色になっているように見えた。

 そうして、怪訝な顔になったレオンに向かって、アルベルティーナにとっても驚きの、とある提案を始めたのだった。



◆◆◆



 数日後。

 今回の一連の雷竜国ドンナーシュラークでの騒動に関して、ミロスラフ王から改めて、みなの勲功に関する通達が行なわれた。


「……こりゃ驚いた」

 レオンの上官である上級将校は、彼を執務室に呼びつけて、尖った黒い髭を跳ね上げ、目を丸くしていたものだった。

「三階級の昇進とはまた……死んだわけでもない若造下士官に、このご命令は前代未聞だ。まったく貴様、何をした」

「……いえ。特には」

 と、答えた途端、上官はいきなり吹きだした。

「何を言うか、この小僧! あの恐るべき火竜国ニーダーブレンネンの王子の毒牙から、姫殿下を身を挺してお守り申し上げためが! 今や王宮ばかりでなく、この王都のどこも、その噂で持ちきりではないか。少しは誇れ、可愛げのない」

 上官はもう大笑いで、ほとんど、その通達書を丸めてレオンの顔に投げつけんばかりの勢いだった。

「……は」

 レオンはこれ以上ないほどの仏頂面だ。正直いって、別にそんなご大層な噂の張本人になど、これっぽっちもなりたくはなかったからだ。


 今では兵舎や王宮内を歩くだけで、あちらこちらからこそこそと、こちらを見ては噂話に花を咲かせる士官や女官の声が聞こえてくる。こんな事態は心の底から御免こうむりたかったというのに、なかなか人生というものは、思うようには行かないものだ。

 ともかくも、レオンは不本意そのものといった顔のまま、まだ背後で豪快に笑い続けているその上官の部屋をあとにした。


『下級士官レオンを、以後、下級将校に任ず。なお、以降は王女アルベルティーナ殿下付き、近衛第三小隊への異動を命ず』――


 レオンの手の中にある、先ほど上官にしわくちゃにされたその通達書には、几帳面な文官の文字で、つらつらとそんな文言が並んでいた。

 その文面の「アルベルティーナ殿下付き」という部分をちらりと見て、レオンは軽く溜め息をついた。完全に困った顔で、ちょっと首の後ろを撫でる。


(……参ったな……)


 あの、まさに輝くような王女殿下の美しい笑顔が瞼に浮かんだ。

 事実、あの「水竜の宮」で王から内々にこの話があったとき、そばにおられた王女殿下はぱっと明るい顔をした。

 いやもう、その嬉しそうな顔といったらなかった。

 王女は明らかに、その話を聞いて大喜びをされていた。

 しかし。


(いや、……それは、困る。)


 それは、レオンにとっては嬉しいどころか、はるかに色々と困る未来を予見させるばかりのものだった。

 自意識過剰のそしりを免れないことを承知で言えば、あの王女から感じるのは、自分に対する明らかな好意だと思う。

 しかしそれを、今の自分が臆面もなく「そういうことでしたら」と受け止めるわけに行くはずがない。

 いくら今、実は自分がかの風竜国フリュスターンの王族で、世が世ならその王座にいてもおかしくはなかった立場だったのだとわかったとしてもだ。

 そこまで考えて、ふとレオンの耳の奥に、あの「姪っ子は喜ぶだけなんちゃう?」という、いかにも軽いエドヴァルト王の台詞が甦った。だが、彼はすぐさま頭を振って、大急ぎでそれを振り払った。


(……いやいや。冗談じゃない――)


 今の自分は、飽くまでもクヴェルレーゲンの一士官だ。

 それ以上でも、以下でもない。

 あのミロスラフ王が、わざわざ自分の階級を上げ、王女に近しい部隊へと異動させた意図はよく分からないが、ともかく自分は今後とも、ただ身命を賭して、陛下とそのご一家をお守り申し上げる、ただそれだけのことだと思う。


 レオンは改めて自分にそう言い聞かせ、軍務塔の廊下をまた、大股に歩いていったのだった。



◆◆◆



「バカじゃね!? そんなわけねーじゃん、バッカじゃね――!?」

 夜の静寂しじまに、少年の声がこだまする。


 気のせいか、梢の上で羽根を休めるようにしている小さな白い竜までが、そのいつもは優しい碧瑪瑙あおめのうの瞳をすうっと細めて、こちらを呆れたように見下ろしていた。

 少年はもう、レオンの隣で唾を飛ばさんばかりに言い募っている。


「なに言ってんの、あんた? そんなもん、王様はニーナさんとあんたとの仲、ほとんど認めたのとおんなじじゃんっ! 何が『いちしかん』だ、アホかっつーの! ほんっとあんた、バッカじゃね――!?」


(……こいつ……。)


 さすがのレオンも、こんなちびの少年ごときに怒涛のように、ここまでの言葉でまくし立てられるとは思わなかった。

 少しむっとして、片方だけの目で少年を睨む。

 が、最近の少年には、あまりこの眼光が効かなくなってきているのは如何いかんともしがたい事実でもある。


「『とっとと仲良くなっちまえ』って、そーゆー意味だろ? あーもー、わけわかんねー!」

 こくこくと、頭上の竜まで大袈裟に頭を縦に振っていて、レオンの心はちょっと傷ついた。

「……いや、まさか、そのような――」

 「姫殿下」と言おうとしたら、ぱたぱたと彼女が舞い降りてきて、自分の左肩にそっととまった。

 くるくるる、とまた、あの優しい声が耳もとでする。


『……そうよ、レオン』

『わたくしは本当は、ずっと待っていたのよ、あの時から――』


 心の中に響いてくるのは、優しいあのひとの声である。


 あの呪いに侵されてから、自分と愛しいこの人とは、人として触れ合うことができなくなった。

 しかしその代わり、こうして心で話ができるようになったのだ。

 無口な自分の心の中を少し覗けるようになったことで、この姫は随分と、色んな意味で大胆におなりになった。


「そう……、なのですか。姫殿下――」


 言葉ではどうにもうまく伝えきれないことまで、嫌でも相手に伝わってしまうというのは、便利な反面、なかなかに気恥ずかしい。

 いや勿論、なにもかもが透けて見えるというほどのことでもないので、そこだけは助かっているけれども。

 そう思って顔の下半分を片手で覆うようにしていると、頬のあたりに白い竜が、すりすりとその顔をこすり付けるようにして目を閉じた。


『そうよ、レオン。……でも、いいの』

『だってそれが、あなたですもの。あの時は、ああするほかはなかったのだわ』

『わかっているの。いいのよ、レオン――』


「…………」


 ただ沈黙して、足元の焚き火の炎を見つめる。

 すぐ横でじっとこちらを見ている少年の眼がなかったら、いつものように、その白銀の鱗をまとった滑らかな首筋に唇を触れさせることもできたのだろうが。

 もちろん、今はできるわけもない。


「……恐れ入ります、姫殿下」


 だからレオンは、ただそっと、竜の身体に自分の額を触れさせて、ひとことそう言っただけだった。

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