第4話 予兆

 さて、それからしばらくは、特に大きな事件もなく、レオンとアルベルティーナもごく静穏に時を過ごした。

 いやもちろん、それは表面上の話である。


 あの後、水竜王ミロスラフと雷竜王エドヴァルトは、当然ながらそれぞれにこのたびの火竜の王子のしでかした暴挙について、かの国へ抗議の書簡を送りつけた。

 しかし、それに対する火竜国ニーダーブレンネンの宗主ゴットフリートの返答は、実に素っ気無いものだった。


 火竜国の立場としては、飽くまでも第三王子アレクシスは水竜の姫アルベルティーナと平和裏の会談を望んで訪問しただけだと言うのであった。

「なにしろ二国は、隣国同士。結果として短慮のそしりを免れないものではあったとは言え、このせっかくのよい機会、互いにより強く親睦を深めておこうとの、王子の配慮だったにすぎぬこと」

 火竜の王は、得々とそんなことを返書にしたためてきたのである。


 王子がそのつもりで訪ねたところ、水竜国の兵らによる思わぬがあり、王子は我が身の安全のため、やむなく兵を動かさざるを得なくなった。

「それが証拠に、そちらの兵に、少なくとも命の損耗はなかったではないか」

 それが、あちらの王の言い分だった。

「翻ってこちらには、数名とはいえ実際に死者がでているという、この事実。そのあたりを、どうか鑑みてもらいたい」

 それを不問にするからには、そちらも適当なところで矛を収めよと、つまりあちらの王は厚顔無恥にも、そう言ってきているわけだった。

 あちらに死者が出たのは確かに事実ではあったけれども、あの場に実際に居たアルベルティーナをはじめ、ほかの兵らも女官たちも、一体誰がそんな言いざまをやすやすと承服できたことだろう。


(なんて、恥知らずな……!)


 父からその顛末を聞いた時、アルベルティーナは自分の瞳が再び燃え上がったのを自覚した。

 兵士としては再起不能に追い込まれた男たち。そして、女性としての尊厳を奪いつくされた女官たち。アルベルティーナは火竜の王に、彼らの面前でその白々しい台詞をもう一度、繰り返せるものなら繰り返してみよと言いたかった。

 しかしそれでも、火竜の王も一応は、これが「愚息のしでかした遺憾の事態」であることは認め、それなりの謝罪の言葉を挟み、以下のように通達してきた。


 曰く、『此度こたびの不埒に及んだ第三王子、愚息アレクシスに対しては、すでに相応の処断を下した』と。


(『処断』……。いったい、何が行なわれたというの……?)


 そのことについては、書面に具体的な記述はなにもなかった。従って、こちらではただ、想像するほかはない。

 父、ミロスラフに言わせると、「かの国の刑罰の苛烈さは、とてもわが国と比べられるものではないからね。恐らく王子は、今頃大変なことになっているに違いないよ」ということだったけれども。

 その事を考えるとき、アルベルティーナの背筋はまた、ぞうっとうそ寒いものを覚えるのだった。


 もしも死刑に処したのであれば、王はそう言ってくるはずだ。

 つまり、王子アレクシスは生きている。

 となればあの王子は、もしかすると死よりも恐ろしい刑罰に処せられたということなのだろうか。


(それは、どんな……?)


 ふと、あの憎々しげな冷笑を貼り付けたかおを思い出して、アルベルティーナは唇を噛んだ。

 可哀想だとまでは思わない。かの王子は間違いなく、父王から厳しい処罰を受けるに値することをしでかしたのだから。しかし。


(あの王子は……危険だわ)


 本能的に、アルベルティーナはそう思う。

 かの王家がどのような状況にあるのかまでは知らないが、ああいう性質たちの少年を育んでしまう環境は、決して健全だとは言えないだろう。

 そのような中で育った少年が、このたびのことで厳しい処断を受けたとして、なおかつ生きているのだとすれば。

 その反動が今後、どう影響してくるものか。

 それとも王子は、もはや人として機能できないほどの「罰」を受けているのだろうか……?


(ああ。……やめましょう)


 ぞくりと肌が粟立つのを覚えて、アルベルティーナはそんな思考を断ち切った。

 ここで今、そんなことを考えていても始まらない。

 早朝、自分付きの侍女をつれ、家族との食卓を囲むために王宮の廊下を行きながらも、アルベルティーナはついそんなことばかりを考えて、難しい顔をしていた自分を叱咤した。

 あの事件のあと、自分はついついあれこれと考え込んでしまっては、近くに仕える者たちを不安にさせてしまっている。そういう自覚はあるのだが、なるべく笑顔でいようと思うのに、なかなかそうできない自分がいた。


(でも、……今日は。)


 もうすぐ、夜番から昼番の兵士への交代の時間である。

 つまりもうすぐ、彼に会える日なのだから。


(レオン……)


 そうなのだ。

 実はそんなこんなでも、日によっては気分の塞がない時もある。

 我ながらそうとう現金なものだとは思いながら、アルベルティーナもそれは否定できないのがつらいところだった。


 今日は、彼が自分の警護に立ってくれる日だから。


 アルベルティーナの警護は、つねに彼女付きの近衛隊から二名ずつが交代で担当することになっている。一個小隊五十名の中から順ぐりで交代になり、毎日、昼番と夜番があるわけなので、都合、少なくとも月に三回ばかりは必ず彼に会えることになるのだった。

 もちろん、その「彼」というのは、このたび晴れてアルベルティーナ付きの近衛士官となったレオンのことだ。アルベルティーナは、心密かに、それが嬉しくて仕方がなかった。


「おはよう、カール。おはよう、レオン。……いい朝ですね」


 夜番だった士官と交代し、新しく警護に立った二人の士官に、にこやかに挨拶の言葉を掛けると、二人の青年がきりりとこちらへ兵士の礼を返してきた。

「はっ。おはようございます、姫殿下。本日一日、昼の警護を担当させていただきます。どうぞよろしくお願い致します!」

 元気よく答えるのは、レオンより年嵩の将校、カールである。ちりちりの赤毛をした、血色も体格もいい青年で、見るからに明るい気質が窺える。

「おはようございます、姫殿下。どうぞよろしくお願い申し上げます」

 その横で、年下、かつ新参者のレオンが控えめな低い声で応えを返す。

 いつものことだが、例によってまったく目線は合わない。

「……参りましょうか」

「はっ!」

 カールがそばかすの浮いた頬を紅潮させながら元気よく敬礼を返してくれる。アルベルティーナはそんな彼らに少し微笑み返すと、朝餉のへ向かって再び歩き出した。



 今のレオンは、以前の下級士官の着る薄青のものから、クヴェルレーゲン将校の着る濃紺の軍服姿に変わっている。階級が上がった上、近衛隊の印でもある金の飾り紐が胸に下がった軍服は、精悍な彼によく映えて、それはもう凛々しいものだった。

 そして、それはどうやら、別にアルベルティーナの勝手な欲目ということではないらしい。なぜなら廊下ですれ違う、王宮仕えをしている女官や下働きの少女たちが、しょっちゅうそんな彼の姿をちらちらと横目で追っては、嬉しげにひそひそ話などをしているからだ。


(そうよね。仕方ないわよね――)


 アルベルティーナは困ったような、嬉しいような、ちょっと変な気持ちでそんな女官たちをさりげなく眺めながら歩いてゆく。

 雷竜国での一件の後、彼はまた一段と、見目のいい青年へと成長したように思われた。それは単に、軍服が変わったからというだけのことでなく、恐らくは彼の、まことの出自が知れたことが関係していたのだろう。


 今まで父だと思っていた人は彼の本当の父ではなく、まことの両親はすでに他界していたばかりか、とある王家の高貴な方々だったというのだから、ことは重大そのものだった。彼も顔には出さないながら、思うところは多々あったのに違いない。

 彼の翡翠の色をした瞳は、もともと清々しく美しかったけれども、あの一件があってからは、そこにふと、何かの翳りを帯びる瞬間が増えたようにも思われた。

 それがまた、女たちの心を余計に捉えてしまうようで、アルベルティーナとしては正直、ちょっと気が気でない。


 まさか彼に限ってとは思うけれども、もしもそんな女たちの中の誰かが、彼の心を射止めてしまったりしたら――。

 ここのところ、そんなことをぐるぐると考え出すと、なんだか眠れなくなるような夜も多かった。


 が、彼自身はそんなアルベルティーナの気持ちになどとんと気付かぬ様子であって、近衛隊に配属されても、彼女の側でこうして護衛についていても、特にこれといって今までと態度が変わったわけでもなんでもなかった。

 要するに、ただ淡々といつも通り、与えられた職務をこなすだけだ。

 何か特別の職務上の理由でもない限りは、彼の方から話しかけてくることなどまずなかったし、アルベルティーナの方でわざわざ何か用事を作って話しかけても、ごく最小限のやりとりで会話はあっさりと終わってしまうだけだった。

 時にそれは、単に「素っ気無い」というような程度を随分と通り越しているように思われるほどだった。


(……もう。レオンったら――)


 彼の為人ひととなりについては理解しているつもりのアルベルティーナでも、たまにちょっと膨れっ面をしてみたくなるような局面もしばしばある。

 せっかくこうして側にいるのだし、あの雷竜国での顛末があったのだから、もう少し親しく話ぐらいはしてくれても良さそうなものなのに。


 しかし、彼がもし、女性に対してそんなふうに簡単に声を掛けたりおおっぴらに交わりたがるような男だったら、アルベルティーナの方でとうの昔に「願い下げ」にしていただろうとも思うと、なかなかに悩ましいところなのだった。

 事実、彼は女性たちから結構な人気がありながら、それら女たちからの明らかな愁波にもまったくの無頓着なのだった。

 たとえば女官たちから、士官らとちょっとした食事やお茶の会を催すからなどと誘われても、彼は即座に「いえ、自分にはほかにも職務が」だとか、「夜には鍛錬もありますので」などと、ごく素っ気なく断るらしい。

 そういう所がまた余計に女たちの気を引くのだが、彼自身がそれを理解しているとは到底思えなかった。


 それは一体、喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか。

 まあともかくもそんなこんなで、アルベルティーナはこの半年近くの間、ろくに彼と話もできずに来ているのだった。


(こういうのを、『蛇の生殺し』とか言うのではなかったかしら……)


 つい、溜め息混じりにそんなことを思わなくもない。

 いやもちろん、王家の姫が使うにしては、多少問題のある言い回しなのだけれども。


(でも……半年よ?)


 考えてみれば、あの雷竜国での「親睦の宴」から、そんなにも日々を過ごしてきているのだ。

 季節は移り、温暖なこの水竜の国にもまた、冬の女神が訪れている。

 宮殿の庭の池にはもう、渡り鳥である白鳥がやってきているし、先日はちらちらと、灰色の空から雪も舞った。朝晩は、息の白くなる日も多くなってきている。


 今頃は、あの火竜の国の沿岸も、また氷に閉ざされ始めているはずだった。

 冬の間、あの国はなかなか動きが取れない。この時期に軍隊を動かすのは、雪国であるかの国にとっては致命的なことだ。だから、国境警備隊もこの時期だけは少し緊張を解いているはずだった。


 と、そんなことを思いながら、アルベルティーナがなんとなしに、火竜国のあるはずの、北方のどんよりとした灰色の空を見やったときだった。



 ゴゴゴゴゴ――



 ずずずず、と足もとから不穏な地響きが聞こえてきて、アルベルティーナははっとした。がたがたと、宮殿全体が揺れ始める。


(これは……!?)


 と、ぱっとレオンがこちらへ駆け寄ってきて、アルベルティーナの頭に両腕を回して言った。

「姫殿下! お身体を低く――!」

 そのまま抱きこまれるようにしてしゃがみこむ。きゃあっと周囲の女官らが悲鳴を上げた。

「失礼いたします!」

 しゃがんだアルベルティーナに覆いかぶさるようにして、レオンと、その上にカールも折り重なるようにしているようだ。

 そうこうするうちにも床下からがつがつと突き上げるような激しい震動が湧き起こって、周囲の兵士も女官らも立っていられなくなり、膝をついたのが見えた。

 絹を引き裂くような、女官の悲鳴が響き渡る。誰かが取り落とした陶器の器が、どこかで割れる音がした。


 レオンはうずくまったアルベルティーナをしっかりと上から抱きこむようにしてくれている。何かが倒れ掛かってきても、彼らはこうやって身を挺して自分を守ることが仕事なのだ。

 アルベルティーナは思わず、目の前にあるレオンの紺色の軍服の胸にしがみついていた。

 すると、気のせいかもしれなかったが、彼の手がさらにいっそう、しっかりと自分を抱きしめてくれたようだった。


 その轟音と震動は、しばらくのあいだ鳴りとどろいた。

 それは、いつ果てるとも知れず鳴り続けた。

 それがおさまるまでずっと、レオンはしっかりと、アルベルティーナの身体を抱きしめてくれていた。士官のつける手袋越しではあったけれども、彼の手は温かかった。

 やがてようやく、その轟音がやみはじめてから、自分の胸の鼓動がひどくうるさいことに気付いて、アルベルティーナははっとした。

 かあっと、首から上が一気に熱くなったのを自覚した。


 それはただ、地鳴りの恐怖だけによるものだったのだろうか。

 ……それとも。


(……あ)


 そして、気付いた。

 いま、自分が耳を押し付けている彼の胸の中からも、同様の激しい音が聞こえているという、その事に。


 轟音は完全におさまったというわけではなかったけれども、それでも随分と落ち着いた頃合いを見計らって、レオンはアルベルティーナから身体を離し、彼女の手を取ってゆっくりと立ち上がらせてくれた。

 カールも立ち上がり、周囲を油断なく観察している。


「……大事ありませんか、姫殿下」

 レオンの声は、相変わらず静かである。

 その表情も声音も、先ほど聞こえた胸の鼓動とはまるきり裏腹なものだった。

 アルベルティーナは不思議な気がした。

「ええ……大丈夫」


 彼のその、胸の音の理由は、なんだったのか。

 まだアルベルティーナの手をとったまま、今はその翠の瞳がまっすぐにこちらを見ている。彼の瞳をこうしてじっと見るのは久しぶりだった。

 しかし、どんなに彼のその瞳の奥を見つめてみても、そこに答えは見えなかった。

 ただ、白い手袋をした彼の手に握られている指先が、じんじんと熱かった。


 やがて、レオンははっとしたようにアルベルティーナの手を離し、いつものように足許に目線を落としてこう言った。

「朝餉のに参りましょう。ともかく、陛下と妃殿下の御許おんもとへ」

「……ええ、そうね。弟たちのことも心配ですし」

 少しがっかりしたような気持ちを笑顔の下に押し隠して、アルベルティーナもそう答えると、まだざわついている王宮の廊下を、二人の士官と共に急ぎ足に歩いて行った。



 しかし。

 このときの二人は、まだ知らなかった。

 この地鳴りこそ、ここから始まる多くの騒乱の始まりの序曲であったということを。

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