第9話 贖罪



 「わたくしの名は、ミカエラ。かのアイブリンガー侯爵家の子にして、故ヴェルンハルト公の側近だった、クレメンスの一人娘よ……!」


 ミカエラの声がその場に響き渡ったのと、武官姿のファルコが動いたのとは、ほぼ同時だった。

 ファルコは素早く、そこで目を剥いて倒れているムスタファの侍従の身体を慎重な手つきでさぐり、問題の品を見つけ出して皆に見せた。


「おーおー。こりゃ明らかに、普通の侍従のおっさんが持ってるようなもんじゃねえわなあ――」


 ファルコの手にあったのは、細い木製の筒に仕込まれた小さな針のようなものだった。その先に猛毒などを塗っておき、目立たないように相手に近づいて身体のどこかを僅かでも傷つければ、相手を即座に、あるいは時間を置いて死に至らしめることができる。いわゆる暗殺具だ。

 それが何であるかを悟って、ゲルハルトは驚きと共に少し悲しげな目で、地面に膝をついたままの老人を見下ろした。


「ムスタファ、そなた――」


 言いかけて、しかし少し拳を握るようにしただけでその先は言わず、ゲルハルトは老人から目をそらした。

 場にいる一同は、暗澹たる目をして、その王と宰相を見つめていた。

 ムスタファの傍にいた武官二人は、自分の進退を決めかねたようにそこに立ち尽くしている。彼らにとって、建前上の主人はゲルハルトに違いないが、実際はこの老人ムスタファこそが飼い主であるのだろう。

 しかし、ここで老人が王への弑逆を試みたことが明るみに出てしまった以上、おいそれと老人の味方になるのは憚られるということらしかった。


 ファルコは問題の証拠の品を丁寧にまた木筒に戻し、自分の懐にしまってから、細い縄を取り出して侍従の男を後ろ手に縛り、そのままムスタファにも近づいた。

 彼が自分のことも縛り上げようとしていることに気づいて、ムスタファは途端に目を剥いた。


「な、なにをするのじゃ、貴様! 無礼であろう――」

「ってアンタ。主人あるじを殺そうとすんのは、まさかじゃねえとでも?」

 皮肉満載のファルコの言に、老人はむぐぐ、と言葉を失った。

「この場で『お手打ち』になっても文句言う筋合いねえぞ。縛っちまって構いませんよね? ゲルハルト陛下も」

 そう言ってファルコがそちらを向くと、ゲルハルトも静かに頷いた。

「ああ。……頼む」

 そうして、残ったムスタファの兵らに向き直った。

「このような仕儀になった以上、ムスタファはこれより反逆者としての扱いとなる。そなたらが飽くまで刃向かうというのなら、この場で同罪といたすが、よいか」

「…………」


 静かではありながら、鋭く詰問されるに等しいゲルハルトの声の響きに、フリュスターンの士官二名は少し目を見交わしてから、「いえ、陛下」「仰せの通りに」とゲルハルトに向かって敬礼し、直立不動の姿勢になった。


「む、ぐぐう……」 


 獣のようなうめき声を上げている老人の太った身体に、ファルコは無造作に縄を掛けると、先ほどの男同様、さっさと後ろ手に縛り上げてしまった。そうして彼らをレオンハルト側の士官二人に任せ、自分は素早くミカエラのそばに戻った。

 ミカエラはこれらの顛末の間もずっと、片手を上げていまにも老人の息を止めそうにしていたものの、どうにか踏みとどまっていたようだった。


 ゲルハルトが、縛り上げられた宰相の老人をじっと見下ろし、ごく静かな声で言った。

「申し訳ないことだが、ムスタファ。そなたに今、余の命をやるわけにはゆかぬ。余には、まことのレオンハルトが存命であったのならば、どうしてもやっておかねばならぬことがあったからだ」

「…………」

「そしてこれこそが、レオンハルトに対して余のできる、唯一の贖罪だとも思っておる。……そなたはそなたの贖罪を果たせ。余にはもはや、それ以上そなたに言うてやれることはない」


 ムスタファは無言で、ぎろりと王を睨みあげた。

 そこにはもう、見せ掛けばかりの敬意を取り繕う様子さえ残ってはいなかった。


「何を仰っておいでか……!」

 老人はもう、宰相としての仮面を脱ぎ捨てていた。

「くだらぬ! そもそも兄王を弑逆しようとなさったは、陛下のほうではござりませぬか! 臣はかつて、ただそのお手伝いをし申し上げたまでのこと。何ゆえ臣ばかりが、斯様かような縄目を受けねばならぬのじゃ! これでは納得がゆきませぬ……!」

 そこには大いなる事実との齟齬そごが含まれていた。いまや老人は完全に、己が保身のための言葉を吐き散らしている。けれども、その場にいるだれも、そのことを信じた様子はなかった。


「そうではないよ、ムスタファ」

 王はそのことを特に咎める様子もなく、言葉を継いだ。

「確かに、余の心が弱かったことがすべての始まり。余は、あまりにも弱かった。己が心の内に巣食う、悪心を払いのけられぬまま、結局あの素晴らしき兄上をこの手に掛けるような愚行に走った。兄上ばかりではない。王妃フランツィスカ様も、そしてここにいるレオンハルトもだ……」


 それは、ゲルハルトのこれまでの心の重荷をゆっくりと解きほぐすようにして、淡々と紡がれる言葉だった。

 それを聞いて、レオンが暗い瞳でそっと足許に視線を落としたようだった。


「だから余も、もはやおのが罪をただ許してもらおうなどとは思っておらぬ。……だからこれから、その贖罪に向かおうというのだよ」

「しょ、贖罪……?」

 ぽかんと思わず口をあけて、ムスタファが王を見上げた。

「そうだとも、贖罪だ。聞けば風竜神さまは、王族の者の命を懸けた祈りには応えてくださるのだと言う。……余はそこで、この穢れた身ではあるが、どうにかして我が祈りを聞き届けていただけるよう、身命を賭してお願い申し上げてみるつもりなのだ」

「いやしかし、それは――」

 ムスタファは訳がわからないという様子で周りを見回した。


 願いというのは、いったい何か。

 しかし、周りにいるレオンハルト側の一同と、ヤーコブ、テオフィルスはそれが何であるのかを既に分かっている様子だった。

 ゲルハルトはヤーコブとテオフィルスに向かってこうべを垂れた。


「それではどうか、後のこと、よろしくお願い申し上げます。ヤーコブ殿、テオフィルス殿」


 そう言うと、後の者らをその場に残して、ゲルハルトとレオンハルトは、二人だけでまたその風竜の寝床である「風竜の山」の道をさらに奥へと入っていった。


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