第一章 胎動
第1話 悪夢の夜 ※
少年は、泣きながら山道を走っている。
真っ暗な森の中を、うねった木の根や石くれに足をとられながら、こけつまろびつ、必死に坂道を駆けのぼり、小川を渡っている。
(アニカ、アニカ、アニカ……!)
どこへ行った。
あいつらは、どこへ行ったんだ。
まだ八つにしかならない小さな妹を、山賊まがいの一団へと変貌した傭兵崩れの男どもの群れが、小さな村を襲ったついでに連れ去ってから、もう一刻近くが過ぎ去った。
胸は早鐘のようにうち鳴り、足の感覚はとうの昔になくなっている。
急坂をのぼる拍子に手の爪が剥がれたようだったが、そんなことに構ってはいられなかった。
早くしなければ。
一刻も早く助けなければ、妹がどうなってしまうのか、想像する必要すらないことだった。
いや、想像したくはなかった。
貧しい村に突然なだれ込んできた男たちの群れは、そうでなくとも乏しい村の蓄えである食糧庫をまっさきに狙った。
異変に気付いた父と母が、妹と少年を羊小屋の片隅につくった小さな隠れ穴に押し込んで、「決して声をだしてはいけないよ」と言ったのが、かれらの声を聞いた最後になった。
小屋の外で狂乱の宴が始まって、少年と妹は、ただぶるぶると隠れ穴を覆った麦わらの下で抱き合ったまま震えていた。妹が何度も、ひきつれたような悲鳴と泣き声をほとばしらせそうになるのを、少年は必死でその口を手で覆って我慢させた。
「ほんの数年前までは、ここはまこと、平和な国じゃったんじゃがのう……」
村の年寄りが語るそんな昔話は、今の少年にとっては単なる夢物語にすぎない。
年寄りたちに言わせれば、五頭の竜に護られたこの大地の、その均衡が崩れたのは、今から八年も前のことなのだという。八年前に起こったとある大きな事件の後、世界はすっかり、その調和を失った。
北西の国、火竜に守護されたニーダーブレンネン王国が、戦の最初の火蓋を切った。血気盛んで極めて好戦的だと噂される王太子アレクシスが、南西部、水竜の国クヴェルレーゲンに大軍をもって攻め入ったのだ。
そこからは、中つ国、雷竜の守護するドンナーシュラークをも巻き込んで、三つ巴の小競り合いが、その後ずっと、神代から続くこの聖なる大地を揺るがし続けているのだという。
ここ、南東の国、土竜に守護されたザイスミッシュですら、その影響は免れなかった。五頭の竜たちの魔力の調和によって均衡を保っていた大陸は、すっかりそれまでの平和な時代を忘れたかのように、全体に治安の乱れと人心の荒廃を招いたからだ。
今回のこのことが、いい例だった。
こんな山奥の小さな寒村にまで、あのような低劣な
戦争が、人々の心を蝕んでいる。
竜たちの守護を失ったこの大地が、引き裂かれ、悲鳴をあげているのだと、年寄りのだれかがそう言っていた。
(そんなこと、どうでもいい……!)
そうだ。今は、そんなことはどうでもいい。
妹を、アニカを一刻も早く、あの野獣どもから救い出さねば。
小屋の外の阿鼻叫喚が一段落したらしいのを見計らい、少年が妹を連れてそっと外へ出たときには、村はもう、そこには存在しなかった。
粗末な木製の家はあちこち壊され、火をつけられて燃え上がっていた。
あっちにもこっちにも、もう物言わぬ、もとは村人だった
奴等に抵抗しようとして、熊手や棍棒などの武器を手にしていた男たちも同様だった。
そして、女たちは。
まだ幼さの残る少女たちから、何人も子供のいるような年嵩の女たちまで、生きている者でまともに服を着ている者は誰もいなかった。
転がった彼ら、彼女らのその恨めしげに虚空を睨んだ
少年は吐き気をこらえつつ、必死でそれらのものを妹の目に見せまいとした。
そして、足音を忍ばせつつ、父と母の姿を探した。
しかし、かれらの父母だけが、その地獄を免れられたはずもなかった。
少年と少女が目にしたのは、さまざまな農具でずたずたに串刺しにされた父親と、残酷な仕打ちを加えられた目を覆うばかりの母の、こと切れた姿だった。
「父さん、母さん……! いや、いやああああ――――!!」
布を引き裂くような妹のその悲鳴を、少年は抑えることができなかった。自分自身、呆然自失の状態で、とてもそんな余裕はなかった。
ぼろぼろと、涙が頬を伝って落ちた。
しかし。
それが、いけなかった。
妹の声を聞きつけた野盗の一部が、村へ引き返してきてしまったのだ。
「おお、なんだ。まだ、金になりそうなのが残っていたんじゃねえか」
下衆な笑いを唇に乗せた男たちは、無造作に妹の体にその汚い手を伸ばした。
少年は、もちろん抵抗した。しかし、やっと
少年はあっという間に頭をしたたかに殴られて昏倒し、その後も殴る蹴るの暴行を受けて、地面にのびていたらしい。
気がついたときには、既に太陽は山の
痛む体を引きずるようにして、今、少年は走っている。
もうたった一人になってしまった、自分の家族、妹のアニカを救うためにだ。
走り続けながらも、涙はだくだくとその頬を伝い、胸は押しつぶされそうに悲鳴をあげた。
(ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……!)
喘ぎながら、今にも目の前が真っ暗になってしまいそうになりながら、それでも少年は足もとの土くれを掻き分け、走るというよりはもはや這うようにして、勝手知ったる山中の、獣道を進んでいった。
しかし、いくら普段はよく知った道であっても、この暗さの上、この極限と、痛みと疲労と、精神状態だ。
少年の足はもつれ、思っているよりも遥かに進みは遅かった。
焦る気持ちばかりが少年の心を責めたてたけれども、だからといって彼の両足は、持ち主のいう事をなかなか聞いてはくれなかった。
そうこうするうち、ずるりと足もとが滑る感覚があった。
「しまった」と思う間もなかった。
少年は急坂に生えた木々の間を石ころのように転がり落ちていった。
そのままずぼっと冷たい水に落ちたことに気がついて、夢中でもがいた。坂の下には、川が流れていたのだろう。落ちた拍子に一気に水を吸い込んで、目の前が暗くなる。
少年はその苦しさにめちゃくちゃに暴れて、何かを掴もうと必死にもがいた。これでは、妹を助けるどころではない。今すぐにも、自分の命のほうが危うかった。
と、その時。
逞しい腕が自分の着ているぼろを掴んで、強引に水から身体を引き上げてくれるのを感じて、少年は急に身体が軽くなった。
もうその次の瞬間には、自分はもとの懐かしい空気の中へと帰還を果たし、砂利の上らしい場所に放り出されていた。
少年は激しく咳き込んで、しばらくその上で転げまわった。
ようやくひと息ついて見上げると、月明かりのなか、ぬっと真っ黒な大きな影が、自分の目の前に立ち尽くしていた。
それは、重厚な革鎧と黒マントに身を包んだ、陰気な様子の男だった。
ぼうぼうの黒髪と、顔の片方を覆った黒い眼帯で、相手の顔はほとんどよく分からなかった。
と、その男の肩に、白銀色に輝く姿をしたなにかの生き物がふわりと空中から下りてくるのを、少年は薄れてゆく意識の最後に、やっと認識したのだった。
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