第2話 国境
レオンとクルトが、ニーナを攫った一味を追いかけて十日ばかりが過ぎた。
二人は――いや正確に言えば「一人と一頭」は――遂に土竜の国ザイスミッシュと、雷竜の国ドンナーシュラークとの国境に至った。
ここは、その通行検問所である。
一応、同盟関係にある国同士の国境とはいえ、周囲は堅牢な石壁と太い丸太で巨大な柵を引き回し、門の前や物見櫓の上には、国境警備隊の兵士らが物々しい様子で哨戒に立っている。
櫓の上には、この国の意匠である黄金色の地に黒い竜頭を染め抜いた旗が靡いていた。
なにやら必要以上にいかめしい顔をしているように思える検査官が、クルトの差し出した通行証を一瞥して小さな髭を捻り上げた。軍服に黒い
「なに? 通行するのはお前だけか。他に家族はいないのか」
「あ、はい。俺と、この馬だけなんすけど……」
「ふむ。まあともかく、通行証を見せてみろ」
対するこちらの通行証は、火竜の国以外でなら基本的にどこでも通用する水竜の国、クヴェルレーゲン発行のものだ。
レオンによると、
水竜の国は、かの国にとってもうひとつの隣国であるこの
「よし、通れ。次の者!」
二人はそうして国境を越え、晴れて隣国の土を踏んだ。
国境を抜けて雷竜の国に入ってからも、レオンの意図した通り、クルトが共にいることで行程はほぼ支障なく進めることができた。
雷竜の国に入ってのちも、街道のところどころに設けられている検問所や宿場町のような集落では、当然ながらこんな調子で、何度も通行証を見せる必要が生じる。
「子供ひとりで親戚を訪ねるだって? そりゃいくらなんでも危ないぞ、坊主」
「山賊に親を殺されたって? そうなのか、大変だったな……」
「気をつけるんだぞ。ここのところ、こっちも治安が悪くなってるからな」
そんなことを言いながら、あちこちで検問に立っているドンナーシュラーク王国軍の下級兵らが、黒馬に乗った少年の差し出した通行証を見てちょっと怪訝な顔になったり驚いたり、さも気の毒そうな顔になったりするのにも、クルトはすぐに慣れてしまった。
「うん、そうなんだ……。ありがと、兵隊さん」
そんな時は決まって、クルトはちょっとしょんぼりして肩を落として見せる。
別に嘘なわけではないので、全部が全部演技だとも言えないのだが、そんな様子で親と死に別れた顛末を話すと、人のいい兵士なら大抵は「そうか、気をつけて行け」と、すぐにそこを通してくれるのだった。
これは偏見かもしれなかったが、なんとなく、見るからに田舎出身らしい朴訥とした兵士ほど、そんな風に優しかった。中には「俺にも、田舎くににお前ぐらいの息子がいてな」と、懐かしげな目をして身の上話をする中年の兵士らもいた。
もちろん、そんな心根のいい者ばかりではなく、中には意地の悪い、下衆な性根の兵士も当然いる。
そういう奴は、相手を子供だと思って
そういう躾の悪い兵士が相手のときは、下手に口答えなどしようものなら、クルトも
大人の男、しかも曲がりなりにも王国軍の兵士である者が手加減もせず、こんな子供に殴る蹴るなどの暴行をはたらく。こんなことが、この比較的平和であるはずの雷竜の国でも、今ではまかり通っているのだ。これも、昔では考えられないことだった。
しかし、たとえそんな不埒な真似をする兵士がいても、そいつは夜になって突然押し入ってきた真っ黒い竜巻のような男に、えらい目に遭わされることになるだけだった。
そうして朝になると、そいつの上官のいる宿所などに、縛り上げられ、放り込まれていたりする。ご丁寧にも、それはしばしば、これまでの罪状を列記した訴状とともになのだった。
今までそういう兵士に悩まされていた街の人々などは、「そうら見ろ! 遂に神竜さまの
まあともかくもそんなこんなで、結果的にクルトは思った以上に滞りなく、長い行程を踏破することができたのである。
◆◆◆
「認識を改めねばならんようだな」
レオンが僅かに苦笑するようにしてそう言ったのは、そんなことが続いて、さらに十日ばかりたった夜のことだった。
「子供はなかなか、使いでがある。これは、思った以上に有用な作戦だった」
それを聞いて、食後に川べりで鍋などを洗っていたクルトの顔が、一瞬でぱっと明るくなった。
「そうだろ! 俺、連れてきてよかったろ?」
要するに、検問の兵士らの目を欺く上で、クルトの存在はレオンが当初思っていた以上に役に立ったということらしい。
実際、もしも同じ検問所をレオンが通ろうと思ったら、なんだかんだと足止めを食らうのは目に見えていた。勿論、馬一頭で通るなどは論外だし、たとえ人間の姿であっても様々に問題があるはずだった。なにしろこの片目、蓬髪、黒マントの上、大きな両手剣もちである。胡散臭いこと、この上もない。
自分たち二人は、一見して明らかに親子だといえるほどの年の差ではない。それどころか、雰囲気や顔立ちなども、てんで似ても似つかない。だから男がクルトを連れていることも、「いったいどんな関係なんだ」とばかり、兵士らから根掘り葉掘り訊かれるのに決まっていた。
向こうの兵士らからすれば、それは無用の人身売買などを防ぐために当然の尋問なのだろう。しかし、今はこちらも、そんな瑣末なことで時間を無駄にはできないのだ。
そんな男の説明を聞いて、クルトはどんどん、自分の顔が緩んでくるのを自覚した。
「いや〜、そっかあ! よかったよかった!」
先日の
「なんだったら、もっとも〜っと、俺に感謝してもいいんだぜ〜? レオン」
にやにや笑って、思い切り小さな胸を張る。
「調子に乗るな」
川の畔で水筒の水など入れ替えながら、男は半眼になりつつ平板な声でそう言ったが、決して不機嫌そうではなかった。
ここのところ、クルトにもなんとなく、このわりと表情の変わらない男の機嫌が分かるようになってきている。
(いや、でも、ほんと良かった……)
クルトは正直、内心ではほっとしている。
というのも、実はもうひとつ、ここまでクルトが彼についてきたことの利点があったからだ。
それは、街道筋や宿場町のそこここで、自分たちよりも前に不審な馬車の一行が走っていかなかったかなど、すれ違う人々から様々の情報がもらえたことだった。
この場合も、見るからに無骨で無表情な片目の男が訊ねるよりも、年端のいかない少年が、さも何の気なしにけろっとした顔できいたほうが、断然効率が良かった。
クルトが世間話をする
その結果、レオンたちが追い求める一行は、どうやらやはり馬車で移動をしているらしいことがわかった。そして幸いにも、夜になるごとに、彼らはどこかで馬を休めたり、村や町で疲れた馬を新しい馬と交換したりしているようなのだった。
彼らは普通の庶民を装う風体はしているけれども、その目つきや物腰から武人であることを隠しきれていない上、その馬車の扉を決して開こうとしないらしい。どうやら、間違いはなさそうだった。
そうしてその場所は、日一日と、自分たちとの距離を縮めている。つまり、こちらは少しずつでも確実に、奴等を追い詰めていることは間違いなかった。
「用意はいいか。乗れ」
「あ、うん」
地面に片膝をつき、背中を向けた男に声を掛けられて、クルトは自分の荷物を胸の方へ掛けると、そちらへ近づいた。そうして、男の担いだ
その上で、たとえ眠ってしまっても落っこちないように、クルトはさらに自分で自分の身体をそこに縄で縛り付けた。
「立つぞ。いいか」
「うん、大丈夫」
レオンは夜ごとそれを背負い、両手剣は肩に提げて、火竜の国へとつながる長い街道を、夜じゅう、ひたすらに歩きとおすのだ。
それも、走りこそしないが相当の早足で、もしクルトが自分の足でついていくなら、きっと小走りでなければ追いつかないほどの速さだった。
月明かりの中、黙々と歩き続ける男の背に揺られて、クルトもはじめのうちこそ慣れなかったが、今ではぐっすり眠れるようになってしまった。
順応性のある子供だとはいえ、慣れというのは恐ろしい。
ちなみに乗馬に関して言えば、やはり慣れないうちは相当に尻が痛くて、クルトもかなり難儀した。
とりわけ男子は無茶をすると、鞍に当たる部分の皮が剥けてひどければ出血の憂き目を見る。それは意外にも、新兵などによくある話なのだそうだ。しかし、そんなレオンの助言を受けて、クルトは事前に下穿きを何枚か重ね履きして凌ぎ、どうにか今に至っている。
ざくざくと土を踏みしめて男が歩く音のほかには、夜風がときおり吹きすぎる、そんな音がするばかりだ。たまに狼の遠吠えらしいものも聞こえるが、不思議とそれを恐ろしいとは思わなかった。
ちらほらと月明かりに光る深い群青色に染まった雲を見上げて、クルトはぼうっと考える。
目の奥に甦るのは、美しいかの人の優しい笑顔だ。
(もうすぐだよ。もうちょっとだ――)
彼女を攫った奴等を追いかけ始めて、もう二十日も経ってしまった。
奴等の影はまだ見えず、かの国への行程もまだ半ばも進んではいなかったが、それでもクルトの胸は不思議に穏やかなのだった。
(待っててね、ニーナさん――)
広い草原の彼方には、山々が幾重にもその影を沈めて、見渡す限りに広がっている。
野盗や野獣の出るような夜の時間に、こんな道を歩く旅人はいない。
しかし、傍にこの男がいれば、どんな夜道も怖くはなかった。
月と星々だけが見下ろす、たった二人きりの世界。
夜空に輝くあの「
まるで、この世界にたった二人しかいないかのように。
レオンとニーナはこんな風に、ずっと二人で旅を続けてきたのだろう。
そんな思いが胸を掠めると、またクルトのそこはぴりりと鋭い痛みを覚えた。
そのことを考えると、二人を引き裂く契機になってしまった自分のことを、どうしても思い出さずにいられなくなる。
(ニーナさん、どうしてる……?)
気丈で気高く、美しいあの
しかし、だからといって、心細くないわけがない。
今頃はきっと、この男のことを思って、彼女もつらい気持ちを抱え、同じ夜空を見上げているのではないだろうか。
いや、噂では、賊どもは決して馬車の扉を開かないということだったから、彼女には空さえ見られないのかも知れなかったが。
男が一歩一歩を踏みしめるごと、夜の冷気に、男の呼気が白く溶けては消えてゆく。いま自分を担いで早足に歩き続けている背後のこの男も、思うことは同じのはずだ。
寡黙であまり表情も変わらない、ちょっと偏屈といってもいいような男だが、いまのクルトにはこんな彼の心の内が、何故だかよく分かるような気がしている。
互いに決して、人としては会えない二人。
けれど、こんなに心から想いあっている人たちをクルトは知らない。
もちろん、自分のまだ短い人生の中、亡き両親のことを抜きにすればの話だけれど。
(……だから。)
絶対に、見つけ出す。
ぜったいに、追いつくのだ。
そしてどんなことをしても、彼女を彼の手に取り戻させる。
北の「
そうして少年はいつのまにか、うつらうつらと眠ってしまうのだった。
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