第5話 竜の涙



 はっと気付けば、クルトは煌々と輝く月あかりに照らされた、とある岩棚の上にいた。

 足もとは平たく広がる二十ヤルド(約二十メートル)四方ほどの空間になっているが、その先は断崖絶壁で、遠くに山々の山頂が連なるのが見はるかせた。ここは、それら山脈のなかにいくつもそそり立った岩山のひとつのようだった。

 晴れ渡った夜空には、星が砂粒をいたように散っている。


 岩棚の上には、いま、ミカエラによって「跳躍」してきた一同が会していた。

 すなわち、クルト、レオン、ファルコ、赤毛の青年カールと魔法官アネル、そしてミカエラと、その手の上に浮かぶようにして、まだ取り篭められたままの竜のニーナである。


(ニーナさん……!)


 どくりと胸の中が疼いて、クルトはミカエラを睨みつけたが、女はただ「ふん」と笑うような素振りを見せて、あっさりとその「檻」を手放した。

 竜を取り巻いていた薄紫に光る「風竜の籠」は音もなく空中を滑ってこちらにやってきたかと思うと、クルトの手許で空気にとけるように消えてゆき、竜は体を丸めたまま、すとんと少年の手の中におさまった。

 相変わらず、ぼろぼろの惨めな姿である。


 と、旅装をしたアネルがさっと歩いて来て、懐から小さな革袋を出し、「水竜の結晶」らしき青く光る石のようなものを何粒か、そっと竜の口に含ませるようにした。

「姫殿下……なんと、おいたわしい――」

 見るからに優しそうなその男は、まことに心を痛めている様子でそう言った。


 もう一人、いかにも気さくそうな青年カールも軽い足取りでこちらにやってきて、クルトの隣に並んで立った。アネルが彼に、もう数粒の「水竜の結晶」を渡して、またレオンのところへと戻って行った。

 レオンはその間もずっと、暗い顔つきでミカエラの隣に立ち尽くしているばかりである。


(え? なんで……?)


 先ほどから感じていた嫌な予感が、ここでさらに強まったような気がした。

「レオン。どうしたんだよ……?」

 どうして彼は、ニーナのところに来ようとしないのだろう。

 いつもの彼なら、すぐにもこっちへやって来て、そのマントで彼女を包み、クルトの手から奪い取らんばかりのはずなのに。


「…………」

 レオンはクルトの問いにすぐには答えず、眉間に皺を立てた顔でじっとクルトとニーナを見つめたようだった。

 彼の側に立つミカエラが、満足げな笑みを浮かべてレオンとニーナとを見比べるようにしている。

 レオンはしばらく、黙ってクルトの手の中にいる竜を暗い瞳で見つめていたが、やがてぼそりと言った。


「……お別れです、姫殿下」


(な……?)


 クルトは目を見開いた。手の中の竜の体が、ぴくりと震えたのがわかる。

「な……、何いってんだよ、レオン……?」

 レオンはこちらに対してやや半身になるようにして、顔をわずかにクルトたちに向けている。こちら側に眼帯があるために、向こう側の目がほんの少し見えるだけだ。

 その翠の瞳は、今までクルトが見た中で、間違いなく一番つらそうなものだった。

 と、彼の背後にいたミカエラが、そっとその背中に寄りそうようにして、レオンの背にすうっと手を這わせ、甘えるように頭をもたせ掛けた。


(なっ……!)


 クルトの嫌な感覚が、頂点に達する。

 手の中の竜の体も、小刻みに震えているようだった。


「……自分は、風竜王になります」


(え……)


 だしぬけにそう言われて、クルトは二の句が継げなくなる。

 竜のニーナも、じっと固まったようになってレオンを見つめているばかりだ。


 周囲の皆は、誰も、何も言わない。

 ただしんとして、月明かりだけがその場を照らしている。

 レオンが静かに、皆から目を逸らすようにして横を向いた。


「そして、この者を……妻にします」


 途端、彼の背中にくっついたミカエラが、にいっと、これ以上ないほどの笑みを浮かべた。

 それは明らかに、勝ち誇った者の笑みだった。


(…………!)


 クルトはもう、呆然として声も出ない。


 そんな。

 なに言ってんだ。

 いや、いま聞こえた言葉はきっと、自分の聞きまちがいに違いない。


(そうだ、そうに決まってる――)


 が、その場の誰も、それを「嘘だ」とは言ってくれなかった。

 ファルコも、赤毛の青年カールも、魔法官のアネルも、ただ黙って、レオンの言葉を聞いている。ただ、アネルとカールについては、レオンに負けず劣らずの辛そうな風情で項垂れたようだったが。


 隻眼の男の声だけが、ただ淡々と冷たい空気の中を流れてくる。

「これまで、有難うございました。こんな不実の男に長年お付き合いくださったこと……まことに、お礼の申しようもございません。……ですが」


 最後に彼は、ニーナに向き直ってすっと綺麗な一礼をした。


「どうかもう……自分のことは、お忘れください」

「そん……レオン、そんなっ……!」


 クルトが思わず駆け寄ろうとしたら、途端にその場に一陣の風が巻き起こって、レオンたちとこちらとの間に見えない空気の壁が出来上がったようだった。

「うわっぷ……!」

 クルトはそれ以上さきへは進めず、ニーナを抱いたまま必死にそこでもがいた。

 もがきながらも、叫ぶのはやめない。

「何、めちゃくちゃなこと言ってんだよっ……! ニーナさん、どうすんだよっ!」

 どうしても前へは進めないのだったが、それでもぐいぐいと空気の壁のようなものに肩をぶつけるようにして進もうとする。

「ダメだよ! あんたとニーナさんは、離れちゃダメだ!」


 そうだ。

 今回だって、それであんなひどいことになったのだ。

 この人たちは、絶対に離れていてはいけない。


(だって、約束したんだろ……!?)


 昔、まだ二人がほんの若い少年少女だった、あの頃。

 ニーナは彼にそう願い、彼はそれをうけがった。

 この先なにがあっても、どんなことになっても、決して側を離れないと。

 それなのに。


「そんなのやだ! そんなの俺、絶対、ぜったい……やだからな!」


 が、レオンは微動だにしない。

 暗く沈んだ双眸に、諦めと決意の色を乗せたまま、ただ黙っているばかりだ。

 クルトの鼻の奥がツンとして、目の奥がじんじんと熱くなり始める。

 胸の鼓動が、もう痛いぐらいに体全体を震わせた。


「レオン――」


 本当は、分かっていた。

 まだ付き合いの浅い、自分みたいなガキにだって。

 この男が一度そうと決めたら、誰が何を言ったって、どうしたってその決意を翻すことなんてできないことは。

 しかもそれが、他ならぬニーナのためなら、なおさらだ。


(けどっ……!)


「バカレオン! そいつに何、言われたんだよ! そんなのかんけーねえよ!」


 叫べば叫ぶほど、目の前が真っ赤に染まってゆく。

 ひどく殴られた時のように、頭の中心ががんがん痛んだ。

 染まってゆく視界の中で、黒いマント姿の長身の男の姿がぐらぐら揺れて、どんどんかすみ、遠のいてゆくような感覚があった。


「ニーナさんが可哀想だ。そんな奴の言うことなんか、聞くんじゃねえよっ……!」


 途端、ミカエラがじろりとクルトを睨んだ。

 レオンはやっぱり、何も言わない。

 いや、言えないのかも知れなかった。

 クルトの声は、とうとう喉のところでひっかかって、無様に歪んだ。


「バカじゃねえの……!? 嘘だって言えよ、なあ、レオンっ……!」

 言った途端、とうとう、ぶわっと目から熱いものが溢れた。


「そんな……、そんなの――」

 最後はもう、むせび泣くような声しか出なくなってしまう。

 レオンは無言で、ただじっとクルトを見返しているだけである。


 クルトはその場に膝をつき、もう大声で喚いていた。

 「バカ野郎」とか「ダメだ」とか、もう何を言っているのか自分でもよくわからないまま、クルトはひたすら泣き続け、訴え続けた。

 それでも、誰も、なにも言ってはくれなかった。

 レオンとミカエラ以外の者は、ただ気の毒そうに、泣いている少年をじっと見下ろしているばかりである。

 あのファルコですら、困ったような顔でちょっと頭など掻いていた。


 やがて、ぐちゃぐちゃになっているクルトの頬に、そっと下から触れてきたものがあった。

 はっとして目を下ろすと、ニーナが静かに、そこにその鼻先を触れさせていたのだった。

「……!」

 その瞳を見て、クルトはびっくりした。


 竜は、涙を流さない。

 旅の合間にそう教えてくれたのは、他ならぬだった。

 それなのに。

 今、小さな竜の蒼瑪瑙あおめのうのような瞳はひどく潤んで、その雫が次第に集まり、ひとつの大きな雫になってゆくようなのだった。


(あ……)


 ころり、とそれが手許に落ちてきて、さらにクルトは驚いた。

 それは、きれいなきれいな、薄青い色をした宝石だった。

 この暗いなか、ぼうっと穏やかに光っている。

 ちょっと見ただけだと「水竜の結晶」のようでもあるが、少し色目が違うようにも見える。なにより、それは普通の結晶よりも、とても大きなものだった。クルトの手だと、握りしめても少しはみ出るほどの大きさだ。

 中心部に虹色の光のようなものが集まってきらめいていて、本当にきれいだった。

 けれど、クルトにはそれが、とてもじっとは見つめられなかった。


 きれいで、きれいで、悲しい色。

 それはまるで、胸のおもてをけずり取られるような輝きだった。

 そこには多分、ニーナの心がいっぱいに詰まっている。


「な……これ――」


 しゃくりあげながら竜を見つめると、竜のほうでもじっとクルトを見つめてきた。

 それは明らかに、何かを訴えるかのようだった。


「ニーナさん……」


 言葉こそわからなかったけれど、クルトはもう本能的に、彼女が何を求めているのかが分かった。

 そして、彼女をその場にそうっと下ろすと、彼女の「涙の結晶」を持って、もう一度レオンに近づいた。

 相変わらず、そこには分厚い空気の壁が存在する。

 ミカエラが憎々しげな目でこちらを睨み、相変わらず腕を突き出していた。彼女はいかにも、こちらをせせら笑うような表情をしている。


 が、レオンが彼女の前にすっと片手を出して、それを遮るようにした。

「……頼む」

 その声は、彼の心情を押し殺したように低くて、少し掠れているようだった。

 ミカエラはきゅっと忌々しげに眉根を寄せたが、少し逡巡したのちに、無造作に手を振って、その「風竜の障壁」を取り除いたようだった。


 クルトは恐る恐るそちらに足を踏み出す。

 今度は呆気ないほどあっさりと、レオンに近づくことができた。

 クルトは涙でびたびたの膨れっ面のまま、ぎゅっと隻眼の男を睨み上げた。男は、クルトが今まで見たこともないような済まなそうな顔をしていたが、それでも黙ってクルトを見下ろした。


 クルトはニーナの涙の石を彼に向かってぐいと突き出したが、レオンは少年の拳の中をじっと見つめたまま、しばらく動こうとしなかった。

 クルトは無理にも彼に近づき、わざと邪険に男の片手を掴んで、無理やりにそれを男の手に握らせた。


 クルトがそのまま後ずさりをしてニーナのもとに戻ると、両者の間に再び風の障壁が作られた。

 レオンは黙って、それでもしばらく、ニーナとクルトをじっと見ていた。

 彼のひとつしかない翠の瞳には、クルトにも何と言っていいのかわからないような、奇妙な色が浮かんでいるようだった。

 が、やがて厳しい顔のまま、一度だけぐっと目を閉じると、レオンはミカエラに向かって頷いた。


 その合図を待っていたかのように、女がさっと手を振ると、あの黒いもやのようなものが、レオンとファルコ、そしてアネルの体を取り巻くようにして現れた。

 レオンがこちらに背を向ける。

 黒いマントが風に煽られてはためいた。


「では……お元気で」

 それが、ニーナに向かって発せられた最後の言葉だった。


「レオン……!」

 クルトは一歩、前に出てそう叫んだ。

 が、レオンはもう、振り向くことはしなかった。

 そうして、背中だけでカールに言った。

「カール。二人をよろしく頼む」

「おお。……任せとけ」

 ちょっと悲しそうに、赤毛の青年はそう言って、レオンの背中に頷いた。


 次の瞬間、もやはあっという間に皆を包んで、呆気ないほどにあっさりと、その場から消し去った。

 魔法の風が消え去ると、岩棚の上にはもう、クルトとカール、そして竜のニーナがいるだけだった。


 寒空に浮かぶ月と星たちだけが、じっとそれを見下ろしている。

 ひゅうひゅうと、突き立った岩山をすり抜けてゆく、虚しい風の音だけがしていた。


 クルトは地面にまた膝をつき、その上で両手を握り締め、血のにじむほどに唇をかみしめた。

「ふ……、ひぐっ」

 どうしても、嗚咽が止まらない。

 我慢しようと思うのに、声も、涙も止められなかった。

「ごめ、ニーナさ……」

 ごしごしと、何度も手首で目元を拭う。


 泣きたいのは、きっとニーナの方なのに。

 自分が泣いてしまったら、彼女が泣けなくなるだけなのに。


 竜はクルトの足許で、少年を気遣うようにうずくまっていた。

 カールは少しの間ためらっていたが、やがて側にやってきて片膝をつき、彼女の口許に「水竜の結晶」を差し出した。

「どうぞ……姫殿下」

 竜はじっとカールを見上げてから、それをついばむようにして、少しずつ飲み込んだようだった。


 そうして目を閉じた竜の体が、次第しだいにもとの白銀色をした美しい姿を取り戻してゆくのを、クルトはぼろぼろ涙をこぼしながら、ただぼうっと眺めていた。

 ニーナの体が、夜色よるいろのなかで光りはじめる。

 その鱗はもとどおり、きれいに並んで月光を跳ね返し、翼の皮膜もぴんと張りきって、たおやかに穢れなき竜の姿が甦った。


「ニーナ、さん……」


 が、それで終わりではなかった。

 ニーナの身体は、今度は少しずつ大きくなり始め、やがて翼を広げれば岩棚いっぱいになるほどになったのだ。


「え……?」


 大きくなるにつれて、体の形がやや精悍さを帯びたものになってゆく。

 それでも、その優しい蒼瑪瑙の瞳は変わらなかった。

 なんだか夢でも見ているようで、クルトはぽかんと口を開けて、大きくなった竜の姿に見とれていた。


 やがて、竜はゆっくりと月に向かって伸びをするように首をのばすと、今度は体を低くして、前足をカールとクルトの前に差し出すようにし、ちょっと首を傾げるようにした。

「……え? なに……?」

 クルトはきょとんとして、竜を見上げる。

 が、すぐに背後にいたカールに背中を押された。

「ほれ。乗れってさ」

 青年はそう言って、クルトの体を後ろからひょいと持ち上げた。

「わ! わわっ……」

「では、失礼いたします、姫殿下」

 カールは一応そう断って、そうっと竜の体に足をかけ、ちょうど馬に乗るようにして、クルトの後ろに跨った。

 小さな竜のときにはあまり目立たない背中のひれの間にうまく腰を落ち着けて、背びれにしっかりとつかまらされる。

 どうやら、このままカールとクルトを乗せて、竜は飛ぶつもりのようだった。


「う、わ……!」

 もう次の瞬間には、竜が大きな翼を開いてはばたき、もう岩だなから飛び上がっていた。

 あっというまに、それが眼下へ遠ざかってゆく。

 クルトはそれを、声も出せずに見下ろした。必死に、彼女の背びれにしがみつく。


「わ、わわ……た、高っ……!」


 背後の青年が、恐怖の滲んだ悲鳴をあげた。

 どうやらこの青年、高い所は苦手のようだ。

 いや、それはクルトだって似たようなものだったけれど。


 しかし、さほどの心配は要らなかった。ものすごい風圧と、身を切るような上空の冷気を感じたのは、ほんの初めのうちだけだった。

 竜が雲よりも高い場所まで舞い上がったところで、体の周りを不思議に温かな空気が包み込むような感覚があって、俄然、竜の乗り心地は快適なものになったのだ。


 そこからは、びゅんびゅんと視界を飛び去ってゆく、うっすらとした雲の速さからすると考えられないぐらい、彼女の背中には落ち着いて乗っていられた。

 夜の静寂しじまに沈み込み、月明かりだけに照らされて雄大な姿を見せる山容が、どんどん眼下を飛び去ってゆく。

 山間やまあいを流れる川らしいものが、きらきらと月光を跳ね返して細長く曲がりくねり、銀色に輝くのが見えた。


「ひ、姫殿下。あのう、なるべくゆっくり、お願いしますよ……」

 ちょっと情けない声で、背後のカールがそんなことを懇願している。


 ニーナは聞こえているのかいないのか、ぐん、と一度巨大な翼を羽ばたかせると、そのまま月と「竜の星ドラッヘ・シュテルン」の見下ろす世界、星空の中を、ひたすらに彼方へと飛び去っていったのだった。


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