第八章 遡行

第1話 王の書簡



 風竜国の王宮にその書簡が届いたのは、それから間もなくのことだった。

 その差出人の署名を見て、宰相ムスタファは体中がおこりに罹ったかのようにぶるぶると震えてくるのを覚えた。


 それは、本来であればわが国の正統な王であるはずの男、レオンハルトからの手紙だった。


(なんと、尊大な……!)


 今ムスタファは、王の執務室で、その書簡に目を通している国王ゲルハルトの面前に立ち尽くし、うち震える身体を必死におさえつけている。

 書簡の内容は、ごく簡潔なものだった。


 すなわち、かの男はみずからを「先王ヴェルンハルトの子、レオンハルト」と僭称し、その身の証を立てる用意があるとぬけぬけとほざいた上で、「身の証の立った暁には、これまでいただいておりました王権をお返し願いたく」と、ごく当然のことを言うかのようにしてしたためて来たのである。

 かの事件からの年数からして、さほどの年齢でもないはずなのだったが、書簡の文面はいかにもさらさらと澱みなく、かつ静謐な堂々たるもので、忌々しいほどに落ち着きはらっていた。


「陛下。斯様かような不躾なもの、無論、たたき返してお見せになるのでござりましょうな……?」

 頬肉をぴくぴく震わせながらそう言って王を睨み据えた老人に、王はちらりと不思議そうな視線をくれた。

「は? なぜだ」


(『何故だ』だと……?)


 ムスタファは、体じゅうの血が逆流しそうな思いに捉われた。


 この男、何を言っているのか。

 もしやこの王、またぞろ例の病気が出て、「王権はレオンハルトに返上」などという世迷言よまいごとかすつもりか。

 しかし、老人の脳裏にちらりと閃いた疑念は、次の王の言葉で霧散した。


「こちらでも、必死に彼奴きやつの所在を探っておったところではないか。丁度いい。あちらから出向いてくれるというなら、願ってもないことだろう」

「あ……いや、そうではござりまするが――」

「丁重にこちらに迎えて、謁見なりなんなりしてやろうではないか。それで偽者と分かれば御の字であろう。すぐさまそっ首、ねてやればよいだけだ。もしや万が一、本物であるとしても、こちらが飽くまでもつっぱねて、認めねば済む話。そうであろうが?  ん? ムスタファ」


 そんなことを淡々と言う王は、むしろ楽しげで頼もしいようにすら見える。

 先日までの青ざめて土気色だった顔からは雲泥の差だ。まったくの別人ではないかと思うほどに、いま、目の前の男は落ち着いていた。


(いったい、なんなのだ……?)


 老人にはそれが、先日からどうにもこうにも気味が悪くてしかたがない。

 ある時点を境にこの王は、どうも何か憑き物でも落ちたような、晴れ晴れとした様子なのだ。のみならず、何かの大切な目的を得て生きる人のような目になって、粛々と政務をこなすようにさえなっている。

 御前会議にも積極的に参加して、堂々たる主戦論を唱え、列席する貴族連中を煽るような風でもあるし、今までのあの弱気な青瓢箪はいったいどこへ行ったのやら。

 この小心者の小僧は、愛する一方でどうしようもなく憎んでもいたあの兄王を弑逆して後、どんどんとその後悔の念に飲み込まれて自我をおかしくしかかっていたはずだというのに。


「とはいえ、そうよな……。こちらの王宮に乗りこまれるのも、妃や王太子らには不安この上なきことであろうし。謁見するに適当な場所というと――」

 と、考える風にこめかみに指先を当てたりするのも、なにやら芝居がかっているように思われるのは気のせいなのか。

「おお、そうよ!」

 ぽん、と手を打つ仕草も、さも楽しげだ。

「この際である。あの風竜神様の御息所みやすどころ、『風の峡谷ヴィント・シュルフト』の近辺はどうだ?」

「は、……はあ?」

「あの領域には、まこと王家の血筋を引くものでなくば入れぬとの言い伝えがあると聞く。偽りの『王』が足を踏み入れたが最後、その者の命は風竜神さまによって亡きものにされるのだとか」

 そんなことをまたこの王は、ひどくうきうきと語り続けてくれている。

「まあその伝説の真偽はともかくも、そのレオンハルトを騙る小僧に、そこに入る勇気があるか否か、試してみるのも一興であろう――」

「な、なんと――」


 ムスタファはもう、空いた口が塞がらない。


(こやつ、まことにゲルハルトか……?)


 確かにそれは、悪くない案ではある。

 「風の峡谷」は王都からも相当に離れており、まあ軍隊を随伴させるとなれば相応の費用はかかることになってしまうが、あちらが集めているものからすればずっと多くの兵を連れてゆけるはず。こちらでこれまでにあれこれと調査してみた結果、あちらは持っていても五千から一万の兵を集めるのがせいぜいのはずだったからだ。

 よほどのことでもない限り、もし戦闘になった場合でも、こちらが負けることはありえない。


 王都にいる王太子にも十分に兵を残してゆけば、もし万が一、ゲルハルトの身に何かがあったとしても、こちらで王権を継続することは可能のはず。いや逆に、むしろゲルハルトがうまくその場で死んでくれでもしたほうが、ムスタファとしても都合がいいぐらいである。

 ムスタファは目立たぬように唇をじわりと舐めながら、以上のようなことを素早く脳裡で計算した。


「使者は待たせておるのであろう? どのような者なのだ? すぐに返書をしたためよう」

「は……。武官らしき巨躯の男と、小柄な女だと聞いておりまするが。今は使者の部屋に待たせておりまする。このまま取り篭めて偽レオンハルトの根城を吐かせるもよろしいかとも愚考いたしまするが――」

「ああ、それはやめよ。余もその『レオンハルト』には会ってみたいしな」

「は……」


 眉も動かさずに言下に拒否されて、さらにムスタファは訝しい目になった。

 どうにも、妙だ。

 考えてみればこの男、「レオンハルト」からの使者が来たことにさして動揺する様子もなかった。その上、すぐにあれこれと判断し、もう返書をしたためるなどとかしている。

 一から十まで、どうにも今までのゲルハルトという男の為人ひととなりからは程遠いように思えてならない。これまでずっと、斯様かような豪胆さからは最も遠い人物だと思っていたのだが――。


 しかし、ぎょろぎょろと己を見つめている老人の不敬な瞳になどまったく頓着しない様子で、ゲルハルトは補佐の文官を呼び、すぐに文書をしたためさせ始めた。

 そして出来上がった書簡に署名をし、風竜王の封蝋を施すと、しばしそれを風に当てるようにして冷まし、即座に使いの者に託した。



 ムスタファはもちろん、その文書を使者の二人に渡させたあと、念のために己が子飼いの手練てだれに命じて、その者らの後をつけさせた。

 しかし、その二人は王宮の門を出て王都の中へ入り込み、毎週のいちの立つ大きな広場へ歩き入ったのを最後に、追手らの目の前から忽然と姿を消したということだった。


 それはどうやら、「風の魔法」による仕業らしいとの報告だった。

 老人は真っ赤になって地団太を踏んだが、こればかりはもはや、あとの祭りというものだった。




◆◆◆




 その夜、戻ってきたミカエラとファルコから国王ゲルハルトによる返書を受け取ったレオンは、「風の城砦」でみずからの「臣下」らを集めて、軍議に臨んでいた。


「なるほど。さすればほぼ、こちらの思惑通りということにございまするな。では早速さそくに、こちらは兵馬の準備にかかりましょうぞ」

 きびきびとした声で、元帥コンラディンがそう言えば、ベリエスも大きくそれに頷いた。

「こちらの地域はすでに我らが掌握しておりますも同然。伏兵も思うがままにございましょう。その上『風竜の眷属』さまのご援助さえもありますれば、あちらがたとえ数万の軍勢でありましても、もはや『飛んで火に入る』なんとやらにございます」

 希望の光を宿した皆の瞳を見返して、レオンは静かに頷き返した。


「そういうことだな。とはいえ、気の緩みは思わぬ災禍を招く。各自、重々、慎重に準備を進めてくれ。よろしく頼む」

「はっ、陛下」

「お任せくださりませ」


 いつものように、ごく簡便な形で会議は終了し、みなはそれぞれの持ち場に足早に散っていった。

 レオンも会議の間を出ると、黒いマントを翻し、狭い石造りの廊下を抜けて自室へと戻りかける。

 それにしても。


(『陛下』……か)


 先ほどの皆の返事を思い起こして、レオンは奇妙な思いに捉われている。

 最近ではもう、自分の下知に対して皆はもう無意識のうちにも臣下としての礼で臨み、こちらを「陛下」と呼びならわし始めている。

 はじめのうちこそ、「まだ俺は王ではないのだから」といちいち断っていたレオンだったが、何かもう、いい加減それを言うのも面倒になってしまって、遂に今に至るのだった。


(この俺が……王とはな。)


 考えてみれば、なんとも奇妙なめぐりあわせだった。

 かつて、あの水竜国で暮らしていたころ、基本的には一武官としての人生をしか考えなかったはずの自分が、今はこんな立場になっている。

 養父であるアネルなどは、「人は立場が作るものでございますゆえ。お願いですからどうかもう少しに、堂々となさっておいでください」と、困ったように笑って言うのだった。

 「その方が兵の士気も上がりますゆえ」というのはもう、勿論おっしゃるとおりなのだが。この、面映おもはゆい思いばかりはどうにもならない。


 何よりも、父王を傍に見て育ったのではなく、幼時より王太子としての教育を受けてきたわけでもないため、兵らに対してどういう態度でいるのが相応しいのか、いまひとつよく分からないのだ。

 一応は武官だったわけなので、その組織内での上官としての態度であれば問題はない。国王というのは結局のところ王国軍の大元帥に当たるわけなのだから、その延長上だと思えば簡単な話なのかもしれないが。

 いや、恐らく、それだけでは不十分に違いなかった。


 自分のよく知る王というと、あの水竜王ミロスラフがまず浮かぶ。

 この五竜大陸にあって、他国にまで音に聞こえた賢王であり、あの清廉、美貌の姫の父君でもある方は、たしかに静かな水面みなものような堂々たる威厳の王だった。

 そして、あの雷竜王エドヴァルト。


(いや……論外だ。)


 あれはまったく、レオンの模範にできるような御仁ではない。あの度量と見識の広さ、枠に捉われないものの見かたなど、見習いたい部分は多いし、レオンなりに尊敬もしている。だが、そもそもあの御仁は、選択肢に入れるべき男ではないだろう。なによりレオンとあの男とでは、あまりにもとの性格が違いすぎる。

 そしてさらにもう一人いちにん、レオンの実の祖父でもある土竜王バルトローメウス。彼も勿論、敬愛する御仁には違いないのだが、あのどっしりと落ち着いた風情はさすがに、今の自分の年齢では到底出せるものではない。


 と、通路脇の小さな小窓から見える物見の塔が目に入って、レオンはふと足を止めた。

 先日、大きな白き竜の姿になったあの人が、あの少年とカールを乗せて悲しげに飛び立っていった、あの場所である。

 そうして、彼女の代わりに、大きな目にいっぱいに光るものを溢れさせて絶叫してくれた、あの少年の声が耳に蘇った。


『バカレオン。ニーナさん、どんだけ泣いたか分かってんのか――!』


(そう、……だな)


 自分はやはり、あれこれ思い惑うような資格はないのだ。

 あの方にそんな思いをさせてまで、お側を離れてこの道を選んだ以上は。

 そして、誰に言われたからでもなく、それを己の目標にした以上は。

 皆の命と安寧のため、この身を賭して働くばかりだ。


 軍服の下、常に首から掛けているかの御方の「涙」を布地の上からそっと撫で、レオンはまた踵を返すと、黒いマントを翻し、大股に廊下を歩いて行った。


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