第13話 絶叫



「許さない! 許さないわ、あの女っ……!」


 そんな女の甲高い叫び声と共に、部屋の中の何かが壊れる音が聞こえてきて、ファルコはその扉の前で軽く吐息をついた。


「馬鹿にして! わたくしをっ……馬鹿にしてえええっ!」


 ファルコはそれでも、しばらくそこで「しょうがねえな」と頬など掻きながら立っていた。けれども、このまま放っておくといい加減また余計な部屋の設えのためにレオンの貴重な軍費が浪費されかねないと思い切り、とうとう荒っぽく扉を叩いて、返事も聞かずに中に入った。

 途端、ぶんと顔面めがけて飛んできた酒瓶を、ぱしっと片手で受け止める。


(ったくよ〜……)


 部屋の中の惨状は、彼が扉の前で思い描いたのとまずまず似たようなものだった。

 壁に投げつけられたらしい酒盃――その実、中身は例によってただの果汁なのだろうが――は、無残に床で割れちっているし、長椅子に置かれていたはずのクッションもずたずたに裂かれて中身の綿などがとびちっている。

 小さめの卓は横倒しに転がされているし、大窓に下がっていた分厚い織り地のカーテンも引き裂かれて、ぶらぶらと所在なげに揺れていた。


「あのよ〜。物に当たんなよ」


 それらのものを半眼になった目の端で素早く観察してから、ファルコはその目線を問題の女に戻した。足許に転がった卓をひょいと起こし、その上に受け止めた酒瓶を無造作に置く。

 先ほどの急な「訪問客」は、自分が物見の塔まで送ってすぐに大きな白い竜に姿を変え、少年と赤毛の青年を乗せて、とうに飛び去ったあとである。


「勝手に入ってこないで! 出て行ってよ……!」


 女は菫色すみれいろの目の真ん中にあの金色の虹彩を開いた状態で、ぎらぎらとファルコを睨みつけた。

 綺麗に結い上げていた黒髪はばらばらとその白い顔に落ち掛かり、魔法で変貌させていたはずのその顔も、もとの素顔に戻ってしまっている。その顔は、あまりの怒りで真っ青になっていた。

 ファルコは黙って、すっ呆けた顔のまま、そんな女を見下ろした。


(……ま、気持ちはわかるんだけどよ)


 あの、夜には白い竜の姿になるという姫殿下に、このミカエラやアレクシスの心の声を聞き取る力があるというのは、どうやら嘘ではなかったらしい。かれらを塔まで送っていったファルコの見たところ、あのカールも、少年クルトも、特になにかを企んでいる様子はなかったからだ。

 だからあれは本当に、クルトが思わず口走った事実なのだ。

 つまりあの姫は、この女のどす黒く塗り篭められた、レオンにだけは決して知られたくない過去を詳しく知っているということだろう。

 そうしてそれを知った上で、同じ女として、それをレオンには告げまいと心に決めて、この数年を生きてきたということだ。

 そのようなある種の「気高い恩情」が、皮肉にもこの女を最も逆上させることだと分かっていて、なお。


(どいつもこいつも、ほんと不器用でやんの。参るわ、まったく――)


 ファルコはまた、ばりばり頭を掻く。

 レオンにしろあのニーナとかいう姫にしろ、生まれが高貴なせいなのか、ものの考え方にというものがなさ過ぎる。少なくとも、地べたをはいずるようにしてここまできたファルコなんぞからしてみれば、「もっとうまいやりようがあるんじゃねえの」と言いたくなるぐらいにはだ。

 あの二人の真面目っぷりにはもう、ちょっと呆れるほかはない。


 かの「竜なる姫」は、あの小さな少年がああして絶叫するまでは、決してそのことをミカエラにも、レオンにも告げるつもりはなかったのに違いなかった。

 そして、この女からさんざんに酷い目に遭わされてきていてもなお、そんな風に考えられる姫だからこそ、あのレオンが惚れぬくのだ。非常に皮肉めいた話だが、ファルコはそれもまた、無理からぬ話だと思うのだった。

 女の好みなんぞ十人十色だろうとは思うが、少なくともあのレオンは、このミカエラのような女より、あの手の姫を選ぶ男だろう。


「……なあ。もう、いいじゃねえかよ」

 いい加減あばれまくって、長椅子に身を投げ出し、肩で荒い息をついているミカエラを見下ろして、ファルコはぼそっとそう言った。

「手、引かねえか? それ以上、あの野郎にちょっかい掛けてみたところで、あんたになんぞは見られねえよ」


 途端、ぎらっとミカエラがこちらを睨んだ。

 が、ファルコはそれにはいっさい動じず、言葉を続けた。


「あの野郎がこの国の王になって、あんたはその妃になって……そんで、終わりよ。子供を産もうが、なにしようが……一生、あの野郎の気持ちはあんたのとこには落ちて来ねえ」

「ふん! ……それで? だからってこのわたくしが、大人しくレオンをあの女に返すと思って?」

「…………」

 それを聞いて、ファルコは僅かに眉間に皺を寄せた。

「冗談じゃないわ。たとえわたくしがレオンを諦めるのだとしても……あの女にだけは渡さない。絶対に、絶対に許すもんですか。あの女……あんな姿になってさえ、レオンにあんなにっ……!」


 あとはきりきりと音を立てんばかりの奥歯の向こうに飲み込まれて聞こえなかったが、ファルコにはもう、言われるまでもなく理解できた。


 あのような、美しいとはいえ人ならざる姿になってさえ、レオンはあの姫をずっと変わらずに愛し続けている。

 この呪いが解けない限り、決して抱くことのできない女を、ずっと思い続けているのだ。

 それがどういう思いかを、ファルコが自分のこととして理解するのは難しい。残念ながら、そこまで思うには自分は十分に俗物だからだ。だが、それでも分からないわけではない。


「だから、はじめっから無理だっつうのよ。あの二人の間に割り込もうなんざ」

「わかってるわよっ……!」


 もはやどうしようもない絶叫が、女の喉からほとばしった。

 それと同時に、クッションの中綿だったものがファルコの面前にぶわっとぶちまけられた。


(ああ。……わかってんのか)


 やっぱりな、という思いでいながら、そんな風情は少しも見せずに、ファルコはまた耳のあたりをぽりぽり掻いた。

「んで? あの野郎のこと、あの姫には渡したくない、でもてめえのもんにもできねえ――ってなりゃあ、行き着くところはひとつになっちまうんだろうけどよ。……それでいいのか? あんたはほんとによ」

「…………」

 それを聞いて、ミカエラは初めて少したじろいだ様子を見せた。

 紅い唇を血が出そうなほどに噛みしめて、膝の上を睨みつけるようにしている。


 この女の迷い込んでいる愛憎の袋小路とでもいうべき場所には、ひとすじの光も差しはしない。歪んで傷ついた子供のような、純度の高い欲望に裏打ちされたその執着が引き寄せるのは、ただただ、真っ黒な絶望だけだ。

 なぜならそれは、この女が、関係のない第三者の命すら巻き込んで選び取ってきた道だから。いくらその大もとに、この女自身が誰かによって手酷く傷つけられたという恨みが存在するのだとしてもだ。


 与えられた痛み、与えられた傷を、ただ他者に同様に投げ返しているだけで、開ける道などひとつもない。


 あとはただ、この女がそこで一人で滅びることを選ぶのか、それともあのレオンを同じ泥濘に引きずり込もうと考えるか、その二択でしかないことだろう。


 そしてもし、この女が後者を選ぶのだとしたら。

 それはもう、単なる悲劇に堕ちるばかりだ。

 そしてこの国は、戴くべき本来の王を失う。


 ファルコはひとつ、溜め息をつくと、ごく低い声で言った。

「……こないだ言ったじゃねえかよ。そこがあんたの殺所せっしょだ、ってよ」

 すると、ひどいしかめっ面のまま、ミカエラがこちらをまた睨みあげた。


「最後のその台詞を言っちまったら、もう、後戻りはできねえぜ。……それに」

 ファルコはわざと、そこでにやりと口角を引き上げた。

「あの野郎は、あれでもこの国の王になる奴だ。いくらあんたが『風竜の眷属』だって言ったって、そうそう簡単にほふれるなんて思ってもらっちゃ困る。一応俺だって、この国の臣民だかんな」

「……どういう意味よ」

 怪訝な顔になったミカエラを、ファルコは笑みを崩さないまま肩をすくめて見下ろした。

「……さてな?」


 怒りと絶望と、怨嗟に塗れて、

 それでもきらきら光る、菫色ファイルヒェンの瞳。


 皆が大抵、恐れおののいて見つめるだけのその瞳を、

 そのときファルコは、奇妙に「綺麗だな」と思った。


(……は。なに考えてんだ、俺。)


 自嘲とともに「へっ」と笑ったら、ますます女の機嫌は悪くなってしまったようだった。


「そいつはまあ、今後の『宿題』ってことにしとくわ。そんじゃ、俺は寝っから。あんたと違って、こちとら夜じゅう起きてて平気ってわけにゃいかねえからよ――」


 そんじゃな、と軽く手を上げて部屋を出てゆく巨躯の男を、黒髪を乱した細身の女はじっと厳しい瞳で見送っていた。




◆◆◆




 数刻後。

 日の出る時刻の直前に、竜のニーナは雷竜国王宮の庭に音もなく舞い降りた。

 例によって、周囲の人々の目には触れぬように、魔法の結界を身の回りに巡らした状態なので、衛兵らに姿を見られるということはない。


 竜としての力を掌握したいまのニーナは、べつに朝日を浴びたからといって必ずしも人の姿に戻るというわけでもなかったけれども、クルトとカールを離宮の中庭にそっとおろすとすぐ、彼女は人の姿に戻った。

 いつもの白銀の鎧に紺地のマントの姿である。

 悲しげな瞳でそこに立ち尽くす美しい人を、クルトはおずおずと見上げた。


「あ……の。ニーナさん。俺――」


 昨夜の自分の失言を謝ろうと思ってそう言いかけたのだったが、それは最後まで言わせては貰えなかった。ニーナはあっという間にその両手を広げて、クルトを抱きしめてきたからだ。


「え、あのっ……」

「……いいの、クルトさん。謝らないで」


 ニーナの声音はきっぱりとしていて、悲しそうだったけれども、不思議に嬉しそうにも聞こえた。

「あなたはやっぱり、わたくしの騎士リッターです。本当に、ありがとう……」

 思ってもみなかったことを言われて、クルトは呆然とした。隣にいるカールを見上げたら、彼はちょっと苦笑して、ぽりぽり鼻の頭を掻いていた。


「け、けど、俺――」

 が、ニーナはすっとクルトから身体を離すと、人差し指をクルトの唇の前に立てるようにして言った。

「さあ。さぞかしお腹がすいたでしょう。離宮の皆さんに、朝食の準備をお願いしてきましょうね。伯父様へのご報告は、そのあとで向かうことといたしましょう」


 晴れやかな顔でそう言うと、ニーナはすぐに踵を返して、離宮の建物のほうへと歩いて行ってしまった。


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