第11話 風竜の山
道を進むごとに、それはどんどん険しくなった。
しまいには、もうその崖といっていいような山道を、レオンはゲルハルトを上から引き上げ、下から押し上げしながらでなければ登れなくなっていった。
はじめのうちこそ、レオンの差し出す手を「いや、そのような」と遠慮する風だったゲルハルトだったけれども、やはり若者の体力にはかなわずに、今ではもう、素直にレオンの手を借りるようになっている。
そんな風にしながら、数刻もその山の中を進み続けて、遂に二人は、終点であるらしいその場所へと辿りついた。
そこは、巨大な岩同士が寄りかかるようにしてできた細い隙間を、ずっと通り抜けた先にあった。
実のところ、途中、何度も道に迷いそうになったのだったが、なぜかレオンはそのたびに、「こちらだよ」と誰かに誘われているような、そんな思いに捉われていた。
(……待っているのか。)
そんな気がしてならなかった。
風竜は、恐らくは他の竜らと同じように、まだ地の底に眠っているはずだった。
しかしそれでも、あのミカエラとの顛末があって、ごく最近目を覚ましたのは事実だろう。その後に起こったことについて竜がどれほど理解しているのかは分からないが、少なくとも今このとき、竜はこちらの王族二人をじっと見ているような気がしていたのだ。
長い岩の通路を抜けると、急に目の前がぽかりと開けた。
そこは、草木の一本も生えない、石と土くればかりでできた、巨大な
鋭いその稜線が、黒々と満点の星空に突き刺さるようにして立ちはだかっていた。
手元の松明だけではなかなか明るくすることは難しいはずだったが、頭上の月の光によって、おおまかに周囲の状況を見ることができる。
この山はまわりを常に濃い
「こ、……ここか……」
ゲルハルトはようやくたどり着いたその場所へ、ゆっくりと歩を進ませていく様子である。レオンも黙って、そのあとについていった。
臼状のその場所は、直径が大体、三百ヤルド(約三百メートル)ほどはあるだろうか。その中央、もっとも低くなった場所に向かって、二人は慎重な足取りで歩いて行った。
やがてその中央部にたどりつき、ゲルハルトはほっとしたように、そこでレオンのほうを振り向いた。
「……では、始めるとしよう」
レオンはただ、無言で頷いた。
「始める」といっても、何をどうするつもりなのだろう。
かつて、ニーナの母だった水竜王国のブリュンヒルデ王妃がこの祈願の儀式をなさったときには、その場に数名の経験豊かな魔法官がついていた。そして、正式な手順に
今、このゲルハルトにそうした知識があるのかどうか、そのあたりが少し疑問だった。ともあれ、ここまで来た以上、もはやなるようにしかならない話だ。
レオンはゲルハルトから五歩ばかり下がったところで、黙って叔父の背中を見つめていた。
ゲルハルトは一度両手を天へ上げて、古代の韻律らしいものを唱え始めた。
そしてそのままその場に膝をつき、ひたすらにその韻律を低い声で唱え続けた。
微妙な諧調で紡がれるその韻律は、たしかに水竜国で聞いたものに酷似していた。
どうやらこの王は、こうした日が来た時のためにこの韻律を身につけていたということらしい。
やがて、無風だったはずの周囲の空気が少しずつ動き出したのをレオンは感じた。
そしてそれは、あっという間に暴風と言ってもいいほどの風圧のものに変わった。
足許から砂埃が舞い上がり、周囲を覆いつくす。
ゲルハルトとレオンの周りは、黄土色をしたその風が包み込むようになったが、不思議と呼吸は苦しくもなく、砂粒が身体を叩くということもなかった。いや、それどころか、それらのひとつたりとも目や口に入ってくる様子がなかった。
おおおん、と風鳴りが耳を打つ。
しかし。
単なる風の轟きとしか聞こえなかった低音が、やがてひとつの声、ひとつらなりの言葉となってレオンの頭の中にとどろきわたった。
《ようやく会えたか。我が子らよ》
静かな笑みを含んだ老翁のようなその声は、まさしく竜のものだった。
《先般、我にも眷族の娘が生まれたようだったが。
風竜神の声は、ほかの竜らとはまた違って、叡智とともにどこかがやはり、
温かく優しいものだが、かといって甘さを感じさせるようなものでもない。
温厚篤実でありながらも、堂々たる風格を思わせる声音であった。
「風竜神さま。我らが主なる
ゲルハルトがそこに膝をついて
レオンもそれに倣い、叔父の斜め後ろで同様に膝をつく。
「まこと、小さき人の身なれば、
《遠慮は無用。申してみよ、わが子よ。そなたが願いとは何か》
爽やかな物言いでありながら、風竜は長々とものを言うことはなかった。どうやらその辺り、比較的、
ゲルハルトが畏れ多くも、と言いながらその願いを口にする。
「実は、ここにおりまする我が甥、レオンハルトは、聞けばかの火竜神の眷属なる男によって、その身に酷い呪いを受けておりまする。呪いと言うは、水竜国の姫と、昼と夜とに時を分け、人としての命を半分奪われて、昼間は黒馬の姿になるというものにございました」
《……存じておる。その折、我も、わが娘から願い事をされたゆえな。奪われたその者の命の片割れを使い、その水竜の姫への呪いを完遂させたい、と――》
穏やかな声ではあったが、レオンの聞いているところ、風竜神は少し、申し訳なさげな風情だった。
「我が娘」と風竜が言うのは、当然、あのミカエラのことなのだろう。
そしてその願い事というのは、九年前、ニーナとレオンが呪いを受けた、あの「蛇の尾」での場面のことを指しているのだ。
《その節は、まことどうしたものかと思案はしたのであるが。しかし、
しかもその時、火竜の王太子の呪いによって、レオンの命半分が失われることは必至だった。
そのことはレオンも理解している。
《それを我が手に預かっておくためにも、あの場にあっては娘の望み、叶えてやるのが最善と考えての仕儀でもあった。……許せよ、わが子よ》
最後の言葉が明らかに自分に向けられたものであることは確かだった。レオンはすぐに頭を下げた。
「いえ。……左様なことは」
ゲルハルトはそんなレオンを少し見てから、すぐまた風竜神に向き直った。とはいえ、勿論相手の姿は見えないのだったが。
「
ゲルハルトは膝頭をわが手で固く握りしめるようにして言い募った。
「なれど、昼間、馬の姿でいる王などがありましょうや。今のところはどうにかこうにか、下々に正体を晒すこともなくやっておるようではございますが。斯様なこと、いつまでも隠し
こめかみに玉の汗を浮かべてそういい募る叔父の顔を、レオンは暗澹たる気持ちのまま、ただじっと見つめていた。
《そなたが願いは理解した。……しかし》
風竜は少しまた、なにかを考える様子だった。
《その呪いはそもそも、火の朋輩とこの風竜、二竜によって紡がれしもの。跳ね
(二竜の加護、だと……?)
レオンは目を見開いた。
はっと見れば、ゲルハルトも戸惑った様子でこちらを見ている。
確かにあの時、火と風、二竜による呪いが発動し、その後すぐ、水竜の上に雷竜の加護が加わったことで、あれらの呪いの多くを相殺することができた。
あの時、火竜の王太子はこう言った。
呪いの全体を火竜が仕切り、レオンとニーナの時間の分断を行なうと。二人が昼と夜、人とは異なる姿になることも、その中には含まれている。
そしてミカエラはニーナの姿をより醜いものにすることに加担した。その呪いが火竜に比べ、どうしても小さなものになったのは、もともとの眷属としての力の差に加え、差し出した人の命、すなわちレオンの命が、本来の半分の量しかなかったからだ。
《かの水の朋輩が娘は、同時に雷の朋輩の娘でもあった。ゆえに、かの水竜の姫は、その身に大いなる加護を得た》
つまりその「大いなる加護」というのが、彼女があの、白き竜になるということなのだろう。
対するレオンは、そのどちらの王家の子でもなかったために、さほどの加護が生まれなかった。その結果、本来であればより醜い生き物になるはずのところ、呪いの効果が減じられ、単なる馬になることになったのだ。
言うまでもないことだが、あの素晴らしい能力に恵まれた白き竜になることのできたニーナとは、雲泥の差である。
《ゆえに、此度の加護を完遂させるため、
「いえ、しかし――」
レオンは思わず、口を挟んだ。
「ご無礼の段、どうかお許しくださいませ。しかし、神竜様がたに加護をお願い申し上げるには、その引き換えに人の命をお求めになるはず。それも、自分自身、あるいはもっとも乞い慕う者の命を――」
そのようなこと、できるはずがない。
確かに、自分の愛する者らは幾人もいる。
いるけれども、それをこの場で捧げようなどと。
そのようなことをするぐらいなら、自分の命を差し出すほうがよっぽどマシというものだろう。
しかしそれでは、自分が王権を受け継いで、この王国を支えてゆくという当初の目的が果たせないことになる。
眉間に厳しい皺をたてて沈黙してしまったレオンを、ゲルハルトも隣から困った顔で見つめていた。
さもありなん。彼の命だけでは、この事態が収拾しないというのだから。
だが。
《……案ずるな、わが子よ》
そう言った風竜神の声は、ごく静穏なものだった。
それはいかにも、わが子を宥める父のような
《そなたはすでに、それを手にしておるぞ》
「は……?」
愕然として、思わず目を上げる。
と、突然、胸のあたりがかっと熱くなったような気がして、レオンは驚いた。
どくん、どくんと胸のあたりで脈動するものがある。
それはもちろん、自分の心の臓ではなかった。
(これは――)
軍装の胸元を開き、首から提げていた革紐をつかんで取り出せば。
小さな革袋に入ったままのそれが、いま、どくりどくりと脈打ちながら、凄まじい熱気を纏っているのがわかった。
袋に包まれているにもかかわらず、それがその中にあって、虹色に光り輝いているのがわかる。
(竜の……涙。)
思わず前にいるゲルハルトと顔を見合わせると、風竜の声がまた頭のなかに鳴り響いた。それは、至極満足げな声だった。
《これぞまさしく、『掌中の珠』。かの『竜なる姫』がそなたを想い、案じる心、そのものである――》
《竜は本来、涙を流さぬ
厳かな竜の声を聞きながら、レオンは身内が震えてくるのを禁じえなかった。
(姫殿下……!)
燃えるように熱いその珠を革袋ごと握り締め、胸元に押し付ける。
《いざ、土の朋輩を
遂にその<竜たちの夜>が、幕を開けたのであった。
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