第3話 側近ヴァイス
その知らせがもたらされた時の、
「ヴァイス様! 上級文官、ヴァイス様はいずこに……!」
ばたばたと王太子殿下付きの侍従見習いの少年が走ってくる足音を聞いて、自分の執務室で膨大な書類に目を通していた美貌の青年は、すぐに手許から目を上げた。
上級文官の着る、赤紫色の長衣に
その風情は、文官というよりはどこぞの王侯貴族か、大商人の息子のようでもある。
手にしていた羽根ペンを卓上に戻し、青年はゆったりと、息を切らして部屋に駆け込んできた少年に薄桃色をした目を向けた。
それら一連の優雅な動きからは、彼が卑しい貧民の生まれだなどと信じられるような材料はどこにもない。
だが、事実はそのとおりなのだった。
今やそれを聞かされて、この王宮に驚かぬものとていないのだったが。
「ヴァイス様、お願いです。殿下が……殿下が、また――」
「…………」
青年は、少年の慌てた様子をひと目みただけで、かすかに柳眉を顰めて立ち上がった。
◇
(駄目だったのか……やはり)
少年に先導され、広い廊下を急ぎ足に歩きながら、ヴァイスは考えている。
主人には、あの八年前のその日から、心に食い込んでどうにも切り離すことのできない、とある美しい
あの頃、まだ右も左も分からないただの子供に過ぎなかった自分でも、主人がその女のことを考えるときだけは、酷くその心を掻き乱されるのだということはよく分かっていたものだった。
こんなとき、主人の発する癇癪の気を恐れて、召使いも侍従長でさえも、なかなか彼の執務室には入りたがらない。
それでもどうしても、用事があってその部屋に入らないわけには行かない場合、そのお鉢は大抵、けっして出自の高貴なわけでもない自分に回ってくるのだった。
「お前なら、殺されることはなかろうから」
侍従長は、いつも決まったようにそう言った。
なぜそんな風に思うのか、さっぱり分からないとまでは思わないけれども、それでもちょっと買いかぶりすぎではないかと思う。
もとは物乞いをやっていた、小汚い貧民の少年に過ぎなかった自分が、たまたま少しばかり見目が良かったからといってこの王宮に上がることになり、教育を施され、あの王太子の側近といってもいい立場にまでさせていただけた。
そのことは本当に感謝しているし、幸甚きわまりない話だったとも思っている。
(……でも)
あの日、侍従長が間違えて自分を主人の閨に放り込んだあの夜、自分の運命はがらりとその姿を変えた。
「俺に頭で仕えるか、体で仕えるか」と訊ねた主人は、ただちょっとした思い付きでそうおっしゃっただけだったのだろう。でもそのたったひと言が、自分の人生を大きく変えたのだ。
以来、こうして与えられた素晴らしい環境、つまり衣食住と、存分に学ぶ機会とを、自分は思い切り享受してきた。
いつか必ず、あの方のお役に立てる立場になろうと。
その傍らにいつもいて、あのお方なさることをお助けできる自分になろうと。
そのことだけが、これまでの自分を突き動かしてきた。
『どうしてか』と、人に訊ねられることもある。
『どうしてそなたは、左様に殿下を恐れずにおられるのか』と。
そして確かに、殿下ご本人からさえ、似たような問いをされたこともある。
しかしこれは、説明してもきっと、誰にもわかってもらえるようなことではない。
殿下が「火竜の子アレクシス」として、この王都に凱旋なさった、あの日。
「国を傾けるほどの美姫」とまで言われた母君によく似ておいでの殿下は、燃えるような赤い髪に、
白い軍装に紅のマントを翻したそのお姿は、まことに神々しいまでに美しかった。
なんて綺麗な方だろうと、本当に人であられるのかしらと、歓呼で迎える大勢の人々の間から、自分はあの方をぼんやりと眺めていたものだった。
まるで、本当に天から舞い降りた人ならざる何かが目の前を通り過ぎたように思った。
そうしていつのまにか、自分は殿下のあとについてゆく人々の群れの一人になっていたのだ。
かの御方が、実は恐ろしい王子であるというのは噂に聞いて知っていた。
彼の側にお仕えする者たちは、命がいくつあっても足りないのだと。
彼の閨に侍ったもので、まともに帰ってこられた者などいないのだと。
だからあの時、自分は覚悟していたのだ。
(……だけど。)
周囲の人々に押されて、歩ませておられた白馬の前に転がり出てしまった自分に、殿下は憐れみをかけてくださった。
「よい。……気をつけろ」
あれほど「恐怖の王子」としての名をほしいままにしておられた殿下が、あの時ばかりは少し微笑むようにして自分を見下ろし、ただそうおっしゃっただけだった。
ぼうぼう髪の奥から恐る恐る見上げた殿下のお顔は、輝くように美しかった。
胸が高鳴り、体じゅうがかあっと熱くなって、しばらく立ちあがることもできなかったのを覚えている。
でも、その目をふと見上げた時、自分はびりっと感じたのだ。
「ああ、この方は――」と。
この方は、自分と同じだ。
畏れ多くも、そのとき本能的に、自分はそう思ってしまった。
もちろん、どこがどう、とはその時の自分にはうまく説明できなかったけれど。
でも、このお城へやってきて、殿下のお側にお仕えする機会に恵まれてから、その感覚はどんどん強まるばかりだった。
(殿下……)
本当は、本当の自分の心の底には、とある思いがあることももう自覚している。
あの日、あの閨での夜、主人は指一本たりとも自分に触れようとはなさらなかった。
そのことがひりひりと、胸の奥底で心の襞を焼く夜もある。
(……けれど。)
青ざめた顔でこちらをちらちらと見ている、
彼らから、今回の殿下の企みについての顛末についても聞かされた。
結果はやはり、自分の思った通りだった。
彼らの恐れも、無理はない。
高位にある武官や文官であっても、これまでたまたまあの御方の虫の居所が悪い時に居合わせてしまったがために、この部屋を生きて出られなかった御仁が山ほどいるのだ。
「ヴァイスです。お邪魔してもよろしゅうございましょうか……? 殿下」
声変わりをしても、幸いに柔らかさを失うことのなかったこの声を、殿下が愛してくださっていることは知っている。
この声でそっとお話をして差し上げているだけで、波立ち、荒れ狂っていたかの御方のお心が次第に落ち着いてくるのはいつものことだ。
(……お気の毒に)
自分の中には、ただただ、そんな思いしかない。
主人が失い、またどんなに欲しても手に入らない
この御方のためになら、どんなことでもしようと思うのに、どうしてもその胸の傷を癒して差し上げることは叶わない。
夜ごと閨に侍る美姫たちにすらできないことが、男の身である自分などにできようはずもないけれど。
このような恐ろしき王宮のありかたに堪りかねて、「いっそお前が閨にあがれ」「その体で殿下をお慰めしてくれ」と自分に勧めた――いや、むしろ懇願した――とある高位の文官は、それを知った殿下の逆鱗に触れ、散り散りの灰にされたものだった。
自分はそれを、ひどい胸の痛みと、そして虚しさと共に聞いた。
どのような美姫も、ましていくら顔かたちが整っているとはいえこんな男が、お慰めできようはずがない。
部屋の中からの返事はなかったけれども、それでもそうっと大きな扉を開いて、その隙間から音もなく体を滑り込ませた。
豪奢なはずの部屋のなかは、灯りもつけられておらず、非常に暗かった。
実を言えば自分だって、機嫌の良くないこの方の側へ放り込まれて、その指から発する炎によって肌を焼かれたことがないわけではない。
あれは確か、卑しい出自でありながらどんどん階級のあがってゆく自分のことを妬んでいた、同僚でもある文官見習いの少年たちのやらかしたことだった。
自分はこの扉の前まで、猿轡を噛まされ縛られた状態で連れてこられ、扉の前で急にそれを解かれて、このお部屋に放り込まれてしまったのだ。
彼らには、それまでも何度も嫌な目に遭わされていた。
それほどに、自分に対する少年たち、青年たちの嫉妬は恐るべきものだった。
本来なら、とうに彼らに輪姦されたりしていてもおかしくはなかった。けれども、幸いにしてこの見目のため、「ひょっとして殿下がいずれ閨に呼ぼうとお考えなのかも」という危惧があったのか、どうにかこうにかそこまでのことはされずに済んでいた、ただそれだけのことである。
もちろん、自分もそれを警戒して、信頼できる仲間を増やし、なるべく早く昇進して個室を与えられるまでになるなど、十分に気をつけていたことは言うまでもない。
それでも、服の下、見えないところには日々、つけられた痣や傷は絶えなかったけれども。
ともかくも。
その時はやっぱり、仕方がなかったのだと思う。
殿下は何かのことでまた、今回のように非常にお心を乱されていた。
それは確か、あの日、この王宮で美姫の誉れも高かった母君が突然の焼死をなさった、あの事件の起こったお命日のことだった。
その時期が近づくと、殿下は毎年、お気持ちをひどく不安定にされるのだ。
同僚の青年たちに突き飛ばされるようにして部屋に転がり込んできた自分を、殿下は顔を見ることもしないで「無礼者!」と叫んだかと思うと、指先をこちらに向かって鋭く突き出された。
次の瞬間、自分の体が燃え上がっていた。
でもそれは、突発的に、感情の暴発のままにやってしまわれただけのことだった。
決して、自分を疎ましく思われてのことではなかった。
なぜなら殿下は、その瞬間、自分が誰かもわかってはおられなかったのだから。
それが証拠に、殿下はそのあとすぐに、全身に火傷を負って息も絶え絶えになり、床に転がっていた自分を抱き上げ、手ずから炎の治癒術を施してくださった。
気のせいかも知れないが、その時、抱きしめられたような気がしなくもない。
そして、確かに聞いたのだ。
殿下が「すまん」と、ぽつりとおっしゃったのを。
そうして、それ以降、自分をそのような目に遭わせた連中はみな、忽然と王宮から姿を消した。その後、彼らを王宮内で、いやこの火竜の国内ですら、目にしたことは一度もない。
誰に尋ねてみても、彼らが一体どうなったのか、それはいっさい謎だった。
以来、せっかく仲良くなっていた同僚の少年たちも、少し困ったような追従の笑顔を浮かべて、はっきりと自分に対して明らかな距離を置くようになっていった。
寂しくないと言えば嘘にはなったけれども、それも仕方のない話だった。
その頃から確かに自分は、紛うかたなき「殿下のお気に入り」として、周囲から一目置かれる存在になっていったのである。
◇
暗い部屋の中を、そっと足音を忍ばせて前へ出る。
「殿下……」
ほんの小さな声でそう訊ねてみるが、返事はなかった。
自分はもう二、三歩、静かに前へ出て、床に膝をついた。
殿下は執務机のところにも、来客用のソファのところにでもなく、部屋の隅、引かれたカーテンの下にうずくまるようにして座り込んでおられた。
(……無理もない。)
あの不思議な設えをほどこした馬車を作るのに、いったい何年かかったことか。
年数ばかりのことでなく、費やした費用も気の遠くなるほどのものである。
大貴族の領地、五つ分ほどのすべてが、買い占められるほどのものだろうか。
あの「火竜の結晶」によって作られた檻のごとき馬車を使って、殿下はかの
しかし、それは虚しくも失敗した。
放った刺客らは切り刻まれ、かの雷竜の地にむごい躯を晒していたという。
(……こんなにも、欲しがっておられるのに。)
聞けば、かの
このお方がどんなに望んでも、その人の心はもう、殿下のものになることはない。
それなのに、それでも狂おしいほどに欲しくて、だから相手の男を殺してでも、無理やりに奪ってでも側に置きたくて、殿下はこんな挙に及ばれてしまう。
こんなことをすればするほど、かの
そうやって、殿下はどんどん、お心を病まれてゆくようだ。
それがただただ、お
「殿下……。灯りを、つけてもよろしゅうございましょうか?」
返事はいっさいなかったけれども、殿下から最も離れた場所にある燭台の蝋燭に、ヴァイスは一本だけ灯をつけた。
そうしてまた、部屋の隅に座り込む、我が
主人は膝を立てて座り込み、片腕をそこにのせ、顔を肘で隠している。
「殿下……。なにか、この臣に、できることはございませんか……?」
「ない。……消えろ」
棘まみれの声でそう返され、すぐに
「……畏まりました」
床に膝をついたまま、いざるようにしてそこから下がり、ヴァイスはそっと立ち上がった。
そのまま静かに扉に向かう。
「待て」
と、背後から声が掛かった。
「……ここに居ろ」
押し殺したような声でそう命令され、ヴァイスは心密かにほっとする。
こんな時、殿下にこんなことを言って頂ける臣下は、王国広しといえども、恐らく自分だけだと思うからだ。
「はい……」
静かにそう答えて、その場にまた膝をつき、ヴァイスは頭を下げて床を見つめた。
主人はまた、膝に顔を埋めるようにして沈黙する。
静かに静かに、時がゆったりと過ぎてゆく。
やがて、優に半刻ばかりの時が過ぎたかと思われた頃。
「ヴァイス。あの女に連絡を取れ」
「……は」
そのひと言だけで、主人の言わんとすることを理解し、
「あの女」とは、すなわち八年前、「風の眷属」となったあの毒婦のことである。
文官としての仕事をしながら、魔法官としての学問も修めた自分は、「竜の結晶」を用いることで、いまや直接かの女との連絡を取ることが出来るまでになっているのだ。
「では、早速に」
すっと一礼し、音もなくお部屋を辞する。
部屋の外では心配げな顔をした侍従長やら召し使い、文官長らがまだ立っていたけれども、彼らに軽く頷いて見せて安心させ、ヴァイスは急ぎ足に自分の執務室へ向かった。
◇
執務室に戻ると、青年は鍵つきの卓の引き出しの中から小さな飾り箱を取り出した。
中には、赤く妖しい光を放つ、竜の結晶が入っている。
それらのひとつを手のひらに乗せ、静かに目を閉じた。
(殿下……)
あとで、殿下のお好きな香木の香りのするお茶を運ばせよう。
甘いものはお好きでないから、茶菓はささやかなものがいい。
(殿下、……どうか。)
殿下には、お幸せになって頂きたい。
この世の誰より大切な、わたしの
わたしのこの身体も心も、すべてはあの方のものなのだ。
部屋にたったひとつ灯った明かりが、壁でゆらゆらと揺らめいて、
美貌の青年のつくる影を濃くし、絨毯の床にしみ込ませていた。
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