第四章 懊悩
第1話 囚人クルト
それからしばらく、クルトはただ、その高級な宿のような
ここはやっぱり、あの火竜の国、ニーダーブレンネンの王宮の中なのだという。
あの文官の美麗な青年ヴァイスは、毎日かならず一度はクルトを訪ねてくれていた。
「ああ、ヴァイス様かい。あのお方はほんとにいい方なんだぜえ? 坊主」
扉の前に常に立っている監視兵や、食事を運んでくる召使いらの言によれば、彼はあんなふうにごく謙虚な佇まいでいながらも、相当に位の高い文官だということだった。
「あのお年で高級文官になられている上、殿下の一番のお気に入りでいらっしゃるのに、ちっともそれを鼻に掛ける風がなくてさ――」
「そうそう。いい
実質、あの若さですでにアレクシスの側近といってもいいような立場らしい。
一見、とてもそうは見えない人なのだったが、あの優しさも、謙虚な言葉や物腰も、ただの仮面というわけでもないらしい。それが証拠に、周囲の人々はたいていが、彼を心から慕う様子なのだった。
「俺らみたいな下級兵にだって、いつも丁寧な言葉遣いでよ。『なにか困っていることはないですか?』なんてお優しく話しかけてくださるしな。いやそりゃもう、立派なお方さ――」
「そうよそうよ。それに、色々、俺らのお願いだって聞いてくださるしな!」
「そうそう、つい、この間だってな――」
あの王太子がああいう苛烈な性格の男であるからこそ、誰かの助命嘆願などがしたいときや罪を減じて欲しいときなど、皆はまず、必ずあのヴァイスに頼み込み、彼を通じて王太子へ嘆願してもらうのだと言う。
逆に言えば、彼が頼んでも通らないことは、他の誰が頼んでも決して通ることはない。それほどに、あの青年はアレクシスからの覚えがめでたいというのだった。
「ふ〜ん。そうなんだ。ほんとにエライ人なんだね〜、ヴァイスさんって」
「おうともよ!」
「お前だって、ヴァイス様のご進言があったからこそ、こうやって下にも置かない扱いされて、ぬくぬくしていられるんだからな。感謝しろよ!」
「本当だったら、あの寒いわ狭いわ汚いわの地下牢に放り込まれて、ろくにメシも喰わせてもらえてなくたって、何もおかしかなかったんだぞ?」
「そうだそうだ。お前はちょっと、ヴァイス様への感謝が足らねえ!」
「こんどヴァイス様にお会いしたら、ちゃあんとお礼を言うんだぞ。いいな? 坊主!」
「へ〜い……」
クルトはここのところずっとこんな調子で、運ばれてくる食事をいつもぺろりと平らげながら、相手が子供だと思ってつい口が軽くなりがちな兵士らや下働きの男らから、こうした「世間話」を色々に聞きだしていた。
火竜国の兵士なんて、みんな鬼か悪魔みたいな奴らだという頭しかなかったクルトにとっては、なんだか肩透かしを食わされたような気分である。実際、ふたを開けてみたら、とくに下級の者たちは大体がこんな調子で、ごく気のいいおじさんやお兄さんがほとんどだったのだ。
いや勿論、あのヴァイスが気を遣って、クルトの周囲にそうした者らを敢えて配置してくれたということもあったのだろうが。
(なんっか……意外だよなあ……)
意外なのは、もちろん兵たちのことばかりではない。あのヴァイスについても同じだった。
普通であれば、そんな稀有な立場になった男は、遅かれ早かれその立場に染まってゆくものではないのだろうか。つまり、王の権力を己がものだとはき違え、それに酔い、次第しだいに尊大さや、強欲さを身に纏うようになってゆくものなのでは。
そうやって多くの者が道を踏み外してゆくものだろうに、かのヴァイスという青年だけは、とんとそれらのことに興味がないらしいのだった。
かく言うクルトだって、ここしばらく、ヴァイスと色々に話をするうち、あの青年のことが決して嫌いではなくなってしまっている。
(それにしても、ニーナさん……)
彼女のことを考えると、さすがのクルトも食事をする元気が失せるのだった。
ニーナは相変わらず、あの監獄の中で頑張っているらしい。
クルトはこうして、今は火竜の王宮の中に連れて来られているのだったが、今のところ、いったいニーナがどこに居るのかも知らされていなかった。
どうやら随分と遠いところではあるらしく、下級兵である監視兵や、身の回りの世話をしてくれている召使いらに至っては、その存在さえちゃんと知らされてはいないようだった。
ヴァイスもそのことについてだけは、「すまない、殿下のお許しが出ないのだよ」と言うばかりで、あまり詳しい話ができないらしく、困った悲しげな顔になるだけなのだった。
空間を飛び越える魔法は、あのミカエラと同じ風竜国が得意とするものなのだったが、素材である「風竜の結晶」と、その韻律を唱えられる術師がいれば、ある程度までは別の国の魔法官らでも再現できるものらしい。もちろん、跳べる距離はずっと短いものになるけれど。
だから多分、それを使っているのは他ならぬヴァイス本人なのだろうと思われた。
彼は文官としての能力に加え、その凄まじい学習能力でもって、かなりの種類の竜魔法を操ることにまで長けているらしいのだ。
アレクシスが彼をおいそれと殺したりしないのは、そのあたりにも理由がありそうだなとクルトは思った。
(大丈夫なのかな……ニーナさん)
このところのクルトの心配は、ただただ、そのことである。
あの時、あんな小さな馬車でさえ、一ヶ月ほどでニーナの鎧をあそこまでぼろぼろにしてしまっていたのだ。それがあの大きな監獄の「箱」になっては、そこまで彼女の防御はもつまい。
クルトがここへ連れてこられてから、もう十日ばかりが過ぎている。
もしかしたらもう、ニーナの雷竜と水竜による守護は尽きかけているかもしれなかった。彼女がいまどんな哀れな姿になっているかと考えると、クルトの胸はもうずっと、掻き毟られるようだった。
(俺、どうしたら――)
だがクルトは、ここで鎖につながれた囚人の身である。
とはいえあれ以来、いっさいつらい目や痛い目にも遭わされずに、安閑とうまい飯を振舞われて過ごしているばかりだ。それどころか、ヴァイスが時おり「治癒」の魔法まで施してくれている。
あの美しい青年文官は、「育ち盛りの子がこんなところに閉じ込められてずっと歩かずにいたりすれば、成長が阻害されてしまうから」と、ひどくそのことを心配してくれるのだった。
寝具も衣服も、いつもごく清潔に保たれて、足に嵌まっているこの太い鉄の輪っかさえなければ、もう快適というほかはなかった。
しかし、当のクルトはもう、ニーナにもレオンにも申し訳なくて、とてもではないがこんな所でゆっくりしようという気分ではなかった。
◆◆◆
「ねえ、ヴァイスさん。アレクシスは、俺をどうしようとしてんの? やっぱり、ニーナさんに言うこと聞かせるために、使うつもりでいるんでしょ?」
今、食事をしているところにやってきたヴァイスに向かって、クルトはこれで何度目かになる質問をまた繰り返している。
ヴァイスはヴァイスでいつも通りに、やっぱり悲しげにそっと俯くだけなのだった。
「そう……だね。わたしとしては、そうならないことを願うばかりなのだけど」
(そうだよな……それ以外、俺を飼っとく理由なんてないだろし)
今はこんな下にも置かない待遇だけれど、そのうちまた、自分がニーナの前に引き出されてこれ見よがしにえらい目に遭わされるのは、子供のクルトにだって簡単に想像がついた。
だから今は、単にあのアレクシスは、ニーナがもっと「火竜の監獄」によって弱るのを待っているだけなのだろう。
あの優しいニーナはきっと、クルトのことを心配して、そのことでもきっと心を弱らせているに違いなかった。
(逃げなきゃ……俺)
このままでは、アレクシスにいいように利用されてしまう。
自分が彼女の目の前でひどい拷問にでも遭うことになったら、ニーナはやっぱり、「どうか許して」と、「どうぞあなたのものにしてください」と、あのアレクシスに懇願してしまうだろうから。
(だったら……)
どうしても逃げられないと言うなら、ニーナを悲しませることにはなるけれど、やっぱり自分は、ここで生きていてはいけないのかも知れない。
こんなことでは、とても「俺の代わりに姫殿下をお守りしてくれ」と言ってくれたレオンとの約束など果たせない。それどころか、今のこの状態では、ニーナのとんでもない足枷もいいところだ。
と、匙を口に運ぶのを止めて考え込んでいたら、それをじっと見ていたヴァイスが、静かな声でこう言った。
「だめだよ、クルト君」
「え?」
怪訝な目で見上げたら、とても綺麗な桃色の目が、ひどく悲しそうに自分を見ていた。
「命はどうか、簡単には諦めないでほしい。まして、君はまだ子供じゃないか。そんな子が、自分の命を諦めるだなんてとんでもないことだ。わたしがこんなことを言うのは筋違いだとは思うのだけれど……どうか、どうか……お願いだよ」
その手がぐっと自分の両肩を握ってきて、クルトは驚いた。
「あ、……あの」
「どうしても、殿下が君を害すると脅して、その上であの姫君を手に入れようとなさるなら……わたしにも考えがある。そのようなこと、決して殿下の
「…………」
青年の、悲しみながらも決意の色を湛えた瞳を見て、クルトはぞくりと背筋が寒くなるのを覚えた。
「な、なに言ってんだよ、あんた……」
この人は、何を言っているのだろう。
そうなったら、いったいどうするつもりなのか。
クルトにはなんだかとても、嫌な予感しかしなかった。
「だってあんた、あいつの臣下なんだろう? あいつに逆らったりしたら、すぐに殺されても文句言えない立場なんだろ? ……そんなの、あんたが危ないんじゃ……」
だって相手は、あのアレクシスだ。
激昂すれば、たとえこのお気に入りの臣下の青年だって、瞬時に灰にされてしまうことだろう。
今までだって、そんな目に遭わされたことがないわけではないだろうに。
するとヴァイスは、ふわりと儚げな笑みを浮かべた。
「わたしの心配をしてくれるのかい? ……優しい子だね。ありがとう……」
そうしてぽすぽすと、クルトの頭を穏やかに叩いてくれた。
「いいんだよ。どうせわたしは、ごくごく下賎の身から、殿下に拾っていただいて、ここまでにして頂いただけの身だ。この命はもとより、すべて殿下のものなんだから。今更、それを惜しもうとは思わないさ――」
「あ、……うん。そうだったよね……」
俯いてそう言ったら、ヴァイスはちょっと不思議そうな顔になった。
「……クルト君。この間から思っていたのだけれどね。君、どうしてだか、殿下やわたし、それにこの火竜の国のことを、もともとよく知っている風に見えるのだけど。それは、一体……?」
「え? あ、ああ……」
それでクルトは、ニーナがアレクシスについて、実はずっと過去のことから始まって、すでに相当多くのことを知っているのだということと、その理由について説明した。
つまり、竜の姿のニーナには、アレクシスの内面の声が、何かの拍子に聞こえてしまっているのだという事実を。
ヴァイスはしばし、ひどく驚いた目をしてその話を聞いていた。
「なんと……。そうなのか、だからあの姫君は――」
そうして腕組みをし、口許に手をあて、考え込む様子である。
「え?」
「あ、いや……。あの姫君は、あんな目に遭わされておられながらも、不思議と殿下に心の底からの憎しみを抱いておられないように見受けられるものだからね。普通なら、あんなことをされ続けてきた相手を、ああいう風には思えないものだろうにと、ずっと不思議に思っていた。なるほど……納得したよ」
「あ、ああ……うん。そうだよね……」
まあそれは、ニーナという人が、恨みだの憎しみだのといった負の感情を抱くまいと努める
が、青年は急に顔を引き締め、瞳に厳しい色をたたえて、じっとクルトを見て言った。
「でもそれは、決して殿下に話してはいけないよ、クルト君」
「え?」
「そのようなことが知れた日には、殿下はまず間違いなく、烈火のごとくにお怒りになるだろう。最悪の場合、その場で即座に、君のことも、あの姫君のことも、この世から消しさっておしまいになるかも……」
「……!」
クルトはそれを聞いて、さあっと血の気が引いた。
それは、確かにそうだろうと思った。
あのアレクシスなら、やりかねない。
「だから決して、そのことを殿下に話してはいけない。誰からのものであれ、あのお方はどんな憐れみも、決して受けることをお望みにはならない。それはただただ、あのお方の怒りを招くだけのことだから。……いいね」
青年の声は、非常に真摯で、心のこもったものに思えた。
クルトは思わず、その有無を言わさぬ様子に頷いてしまっていた。
「う、うん……わかった……」
ヴァイスは再び、クルトの肩を掴んでまっすぐにクルトを見た。
「ともかくも。わたしがこんな事を言うのも妙な話だけれど、殿下のことは、どうかわたしに任せて欲しい。君と、あの姫君のことは、必ず解放して差し上げる。……だから、どうか今は、耐えて待って欲しい。そして
「あ、あの……でも、どうやって――?」
そう聞きかけたクルトの声を、青年はさらりと笑って、敢えて聞き流したようだった。
そして、すでに食べ終えていたクルトの盆をその膝の上から取り上げると、優しい微笑みを崩さないまま、滑るような足取りで部屋の外へ出て行った。
でも、クルトは確かに聞いたのだ。
「そう、もし、わたしの命に使いでがあるとするならば――」
と、彼が背中で、最後にそっと口にしたのを。
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