第2話 火竜宮




「ヴァイス様。こちら、昨年の各地の穀物のとれ高と、税収をまとめたものにございます」

「ありがとう。そちらへ置いておいてくれ。後で目を通す」

「ヴァイス様。春になり、そろそろ氷も解ける時候でござりまするが、今年の治水や干拓、開墾事業についてはいかがいたしましょう」

「うん。昨年度は南東部、オルタ河流域の治水を中心に行なっていたのだったね」

「はい。大雨もございましたが、おかげ様で昨年度は、毎年のようにありました河の氾濫が防げたようにございます」

「ああ、何よりだった。あちらの石高が上がったのも、あの工事に邁進してくれた皆の努力の賜物だ。最も作業のはかどった地域の者らには、かねてからの約束どおりに、十分な褒章を与えておくようにね」

「は。承りましてございます」

「さて、となると、今年は少し北西部の開墾を――」

 と考える間にも、どんどん執務室には文官らが飛び込んでくる。


「ヴァイス様。新しく王宮付きになった文官らとの顔合わせの日程でございますが――」

「ヴァイス様、春の閲兵式の日程ですが、陛下のご予定はいかがで」

「ヴァイス様」

「ヴァイス様――」



「ふう……」


 ひっきりなしにやってきては裁定をあおいでくる部下の文官らの足がほんの少し落ち着いたところで、ヴァイスはやっと一息ついた。

 召使いのクーノが淹れてくれた茶もすっかり冷めてしまっていたが、ずっと握っていた羽ペンを置いてようやくそれに口をつけ、椅子の背にもたれかかる。

 それでも目の前には、自分が目を通し裁断を下すべき案件が、書類という形になって山のように積みあがっている。


 年明け早々、先の王ゴットフリート陛下がご逝去されて、王太子アレクシス殿下が即位されて以降、ヴァイスはこの若さでなんと、文官の最高位たる宰相に任命されてしまったのだ。

 勿論ヴァイスは「そのような。こんな若造に、とんでもないことでございます」と、必死でアレクシスに対してその儀を固辞した。

 しかし終いには、あのアレクシスから恐ろしい目で睨みつけられ、「貴様、またしても俺の命令に逆らうつもりか」と言われてしまい、とうとう「承りました」と言わされてしまったのである。

 それからずっと、ヴァイスの日常は、こうした目の回るような忙しさ続きなのだった。


 この立場になってから、ヴァイスの仕事は俄然、増えた。

 いや、すでに以前から、病床にある父王の代わりに実質の政務を相当量こなしていたアレクシスを補佐してきていたわけなので、仕事内容そのものについては経験も積んできてはいたのだったが。

 問題は、ヴァイス自身があまり得意ともいえない、人と会う仕事が大幅に増えたということかもしれなかった。

 一応、御前会議なるものは開くとはいえ、政治の世界の取り決めというのはそういう表向きの場で決まる前に、机の下やら宵の宴やら、果てはどこぞの貴族の閨の寝台の上などでほとんど決まっているようなものなのだ。

 互いの腹を探りあい、そして利害をすり合わせ、それなりの意見の一致を見て、自分の陣営に属してくれる者らを増やしてゆく。大切なのは、各方面の力の均衡を、あまり急激に、大幅には崩さないこと。そしてじわじわと、我が勢力の及ぶ範囲を広げてゆくことなのだ。

 もちろんそこには、分厚く丈夫なつらの皮だの、山ねずみの針のごとき剛毛を備えた心の臓だのが必須である。そして、そのあたりの手練手管は、実際、前任の老獪な御仁のほうが、こんな若造のヴァイスなぞより一枚も二枚も上手うわてのはずだった。

 そのあたりについては、ずっと先王ゴットフリート付きで宰相を務めていたかの老人が、これまでは一手に引き受けてくれていたのだ。



 新王アレクシスの誕生を機に、宮廷では政務を担う文官の組織と共に、軍務を担う武官の組織の一新にも取り掛かった。これは、他ならぬ青年王、アレクシス本人の希望だった。

 すなわち、官吏をその出自の貴賎や家柄によってではなく、正確にその能力のみによって登用し、それぞれの才を発揮させよというのだ。

 そもそもヴァイス自身が貧民の出身で、その能力を買われてこの地位にまで人間だ。


「だからこの仕事は、貴様がやるのが最もふさわしい」

 と、あの御方はそうおっしゃった。


 当然ながら、これまでそんなヴァイスのことを恨みに思う貴族の子弟は多かったし、たとえ宰相という身分を与えられたとしても、いまだに風当たりは相当にきつかった。

 けれどもその一方で、決して身分は高くなくとも、能力のある若い青年文官らにとって、ヴァイスはまさに羨望と尊敬の対象になったのだ。


 これまで、この火竜国では、文官、武官ともに、世襲といっても過言でない状態が長らく続いてきた。すなわち、高官の息子がその能力の多寡に関わらずにその地位を引き継ぐというのが、暗黙の了解のようになっていたのだ。

 そういう場にはどうしても、どろりとした澱がたまりやすくなるもの。

 そこには風が通りにくく、当然、腐敗の温床ともなりやすい。

 まあ、逆に言えばだからこそ、火竜の国は苛烈な性格の国王を擁する厳しい専制君主制でありながら、ここまで国体を保ってこられたのだともいえるかもしれなかった。つまり、そうした貴族らの地位と利権を保証してやる代わり、さほど大きな反乱なども起こらずに来たということだ。


 しかしそれを、あのアレクシス殿下――いや、もう世に隠れもなき「陛下」であられる――は、これを機に一掃なさろうとしておられる。

 父王に似て、確かに苛烈、酷薄、嗜虐の質をお持ちではあるものの、かの御方は決して、政治上の腐敗や悪徳をでる性質たちではあられないのだ。

 そこがヴァイスには、ある種の救いに思えてならない。

 そしてこれは紛れもなく、この国が変わるための良い機会にほかならなかった。


 ヴァイス自身、能力がありながらも生まれた家の貴賎によって身分を決められてしまうこれまでの組織の体質に疑問を持ってきたくちである。だから、主人あるじのその決定は、まさに英断だとも思っていた。

 確かに苦労の多い仕事にはなるはずだったが、それでもヴァイスはそこにやりがいを見出している。


 今後、あのお方のお心がさらに救われてゆくならば、国政も今よりもっとずっと、国民くにたみを幸せにする方向に変わって行けるかもしれないではないか。

 そのためならば、自分はあのお方の御許おんもとで、身を粉にして働くばかり。

 今のヴァイスの望みは、ただただ、それに尽きるのだった。




◆◆◆




「あ……の。ヴァイス様。陛下のおなりにございます――」


 と、少し慌てたようなクーノの声がして、ヴァイスははっと目を上げた。

 次の瞬間、もう荒々しいような音を立てて、かの御方が執務室に大股に飛び込んできていた。


「忙しそうだな? 

 皮肉げな物言いだが、そのお顔はひどく満足げで楽しそうに見えた。

 相変わらず、凛としたお姿である。

 燃え立つような紅い髪が、そのマントの色によく似合っておいでだった。


「恐れ入ります、陛下。なにぶん、慣れぬ仕事でございまして、いささか手間取ることが多く――」

 慌てて席を立ち、ヴァイスは臣下の礼を取った。

 アレクシスがずかずかとこちらに歩み寄り、執務机の上の書類をちょっと手にとって、鼻を鳴らした。

「そのようだな。さっさと適当な補佐役を見つくろえ。優秀な人材の登用も、貴様の仕事のうちだぞ」

「は。今も人選を急いでいるところでございまして――」


 その人選が、また誰にするのか、どこの家の者にするのかでひと悶着もふた悶着もある最中さなかであるわけなので、これがなかなか決まらない。

 当然その分、ヴァイスの負担がいや増すわけだ。

 なかなか頭の切れるこの若き国王陛下には、適当なまとめ方をした報告書など、とてもお出しすることができない。ちょっと意外にも思えるのだが、この御方は、相当量の書類でも正確、迅速に目を通し、電光石火の早業で的確な指示を下してこられるのだ。

 その上、その若さもあってしごく身軽だ。必要とあらば少し遠方の地方であっても、すぐにその愛馬に跨って視察などにも出かけてくださる。こんな風でいて実は、実務上の能力はかなり高い王だと言える御方なのだった。

 そんなわけでヴァイスとしても、一日も早く優秀な秘書官や補佐官を手元に置きたいのは山々だった。


 ただまあ幸いなことに、そうやって貧民から身をおこして来たヴァイスには、王宮務めをする人々の裏の顔を知りつくしているという利点がある。

 実を言えば、これまでは王太子のお気に入りであるヴァイスに嫉妬し、さまざまな嫌がらせや攻撃を加えてきていた貴族の子弟らが、ここへきて急に手のひらを返したようにして彼に媚びへつらうようになっているのだ。

 それはもう、見ていて哀れになるぐらいの豹変ぶりである。が、いまさらそんな態度になられたところで、こちらはそれに騙されるわけもなければ、ほだされるわけもなかった。

 今ごろになって慌てたように、その家の美しい娘などを「よろしかったらどうかお側に」と紹介されてみたところで、かすかの食指も動くものではない。実際、このところそんな場面も異様に増えてしまったのだが。

 ともかくも、今後、この国の政務を担うことになる、大切な自分の補佐役らを選ぶに当たって、これらの経験は大きな助けになるに違いなかった。



 そんなことを思ううちにも、アレクシスは犬でも負うような手つきでクーノや他の文官らを下がらせて、部屋は彼とヴァイスの二人きりになっていた。

「聞いたか、ヴァイス。水竜の姫と、あのの男のこと」

 なんでもないことを聞くような声音で、そうお尋ねになる。

「あ、……はい。なんでも、レオンハルトは風竜の王となるべく、遂に反乱分子らを集めて王位奪還に動き始めたとか」

 くはは、とさも楽しげにアレクシスが笑った。

「なかなか耳が早い。水竜の姫については神出鬼没のようで、間諜どもも目を白黒させているようだが。まあ正体が正体だけに、当然よな――」

 その笑い声には、以前のようなどす黒いものがあまりまぶされてはいないようだ。

 そのことに、ヴァイスはここのところ、何よりほっとしているのだった。

「……はい。まさか、かの御方が『竜なる姫』だなどとは、なかなか想像がつきますまいし――」

「だな」

 アレクシスはそう言って、ヴァイスの執務机の上にちょっと腰を掛けて足を組んだ。


「風竜国のこと、どう思う」

「は……」


 なにしろレオンハルトには、今、あの「風竜の魔女」の後押しがある。まして彼は、あの土竜国の王の直系の孫でもある上に、臣民らから非常な人気のあった先王、ヴェルンハルトに生き写しの姿なのだとか。

 今後、どうなるかはわからぬが、彼が王位を奪還するのもさほど遠くない日のことであるかもしれない。

 しかし。


「以前の風竜国とわが国とは、この数百年というもの、味方でこそありませんでしたが、決して敵でもありませんでした。しかし、今後、あの方が晴れて王になられるとなれば、話は違って参ります」

「そうだな」

 アレクシスも、すぐに頷いた。


 レオンハルトは、あの竜なる姫、アルベルティーナにまつわる顛末の中、アレクシスに対してかなりの否定的な感情を抱いたはずだ。それも、恐らく強烈な嫌悪感をもったのは間違いがない。彼が王位に就くとなれば、自然、かの国はわが国を敵対視する立場になろう。

 なかにあの雷竜国を挟んでいるわけなので、直接の関わりがあるということではないが、それでも雷竜とことを構えたりする場合、風竜と手を結んで雷竜の後背を衝かせるなどの作戦が取れなくなるには違いない。

 手数が減るということは、それだけ己に負けを引き寄せるのと同じこと。

 決して、喜ばしい事態とはいえないだろう。


「そこはまあ、雷竜国とこれ以上、下手に事を荒立てねば済むことだろうが――」


 すでに火竜国は、このアレクシスの「火竜の眷属」の力をもって雷竜国に攻め入り、領土を削り取った立場にある。

 今後、これ以上攻め込むことはまあないであろうが、逆に雷竜のほうから、それを取り戻しに進軍してきた場合はどうするか。

 このままでは、水竜、雷竜、風竜、そしてさらに土竜までが、すべて火竜の敵に回る仕儀になる。

 まさに孤立無援。

 結果的に、自ら招き寄せてしまったこととは言いながら、それはいかにもまずいことだと思われた。

 できれば、避けるにくはない。


「『風竜の魔女』がいる以上、風竜国のレオンハルト王即位を妨げるのはまずかろうが。それにしても、このまま黙ってわが国の孤立を招くは、いかにも下策であろうな――」

「は。左様に存じます」


 と、青年王はなにを思いついたのか、急に悪戯っぽい顔になってにやりと笑った。


「……いっそ、尻を押してやるか?」

「は……?」

「あのクソ真面目顔の黒馬の尻を、金子でもって叩いてやろうかと言うのよ。どうだ?」


(なんだって……?)


 ヴァイスは我が耳を疑った。

 このお方は、いきなり何を言い出されたのだろう。


「どうせ奴らにつく者どもは、かつて凋落した貴族どもの集まり、烏合の衆もいいところであろう。軍費もなければ、装備もなにもかもが不足しているに決まっている」

 アレクシスはくつくつと、喉奥で楽しげに笑っている。

「ここで秘密裏に援助を申し出たとすれば、あの男はどんな顔をするんだろうな。それが見てみたいとは思わんか……?」

「で……あ、いえ、陛下……」

 ヴァイスは呆気にとられて、愉快げなわがあるじの顔をじっと見つめてしまった。


(まさか……この方は)


 まさかとは思うが、あのレオンハルトの王位奪還劇の裏で、こちら火竜が金銭的にそれを援助しようというのだろうか。

 そうして恩を売りつけておき、いずれ雷竜国との争いにでもなった暁には、あちらの陣営に同調しないようにと牽制を掛けようと……?


(いや、しかし……)


 そのようなこと、見るからに堅物で真面目そうに見えたあの男が、すぐに「うん」と言うだろうか。

 そして、それよりも――


「あ……の。陛下……?」

「なんだ」

 そこでヴァイスは、さすがに訊ねるのを躊躇した。

「そ、その……。あの女性にょしょうのことは、もうよろしいのですか……?」

「女? ……ああ、水竜の姫のことか?」

「は、はい……」


 恐る恐るそう答えてちらりと見ると、意外にもアレクシスは、そっと白手袋をした手で顎を撫でるようにしながら、ごく凪いだ風情だった。


「そうだな。まあ容易く手に入るとなれば、獲りに行くのも一興だが。近頃なぜか、さほど興味もなくなってな。むざむざあの黒馬の男にくれてやるのは癪だったが、それも阻止できた今となっては――」

「は、……そ、そうなのですか……?」

 ヴァイスは驚いて、ほとんど素になってそう言ってしまった。

 王がぴくりと眉を上げる。

「おかしいか」

「え、……いえ」

 慌てて彼から目をそらし、床を見つめる。

 そんなヴァイスを見下ろしながら、主はさも小馬鹿にしたような声音で言った。


「ふん。あの程度の容姿の女、この火竜国にもいくらでも居るではないか。抱いている最中、いきなり竜になられても迷惑だしな。ましていい加減、あの女もいい歳だろう。にはあまり、食指が動かん」

「は……」


 ヴァイスはもう呆気にとられ、不敬であることも忘れて、ついぽかんと主を見返した。


(な……なんという――)


 相当、ひどい言いようだった。

 身も蓋もないとはこのことだ。

 こんな台詞、もしも本人が、あるいはあのレオンという男が聞いたら、きっと激怒するのではないのだろうか。


(しかし……)


「さ、左様で、ございますか……」

 なんとなく気が抜けたような気分になって、ヴァイスはただもう呆然と、にこにこしている我が主人の不思議に明るい相貌を眺めていた。

 一度はあの水竜の姫を手に入れてわが子を生ませ、その子にこの五竜大陸の宗主、つまりは覇王にならせるのも面白い、などとまでおっしゃっていたというのに。

 この変わりようが、ヴァイスをひたすらに驚かせていた。


 なんだろう。

 この、憑き物の落ちたような晴れ晴れとしたお顔は。

 このような顔をされるこの御方を、初めて見たような気がする。


 じっとそんな主人の顔を見ているうちに、ふつふつと温かく浮き立つような気分がせりあがってきて、ヴァイスは思わず、陛下に向かって微笑んでしまっていたようだった。

 その顔を黙って見つめて、陛下がまた、ちょっと片頬をゆがめたようだった。

 それは何となく、何か子供が照れ隠しでもするような、そんな表情のようにも見えた。


「……ま、そういうことだ。風竜国の件、考えておけ」


 ではな、と言ったかと思うと、ヴァイスの主は来た時同様、また風を巻くようにしてそのマントを翻し、あっという間に執務室から出て行った。


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