第4話 竜の痣(あざ)
風竜国、王都の郊外にあるその隠れ家は、いま夜の闇の中にひっそりと佇んでいる。
老女デリアは、しばらくじっとレオンの姿を見つめて、かつての王の姿を思い出すような目をしていたが、やがて静かに語りだした。
「貴方様のお生まれになった日、風竜の民はみな、未来の王の誕生をことのほか喜んだものでございました。陛下も、王妃さまも、それはそれはお幸せそうでした。あの時のお二人のお顔、わたくしは今でも決して、忘れるものではございません……」
ヴェルンハルトはまだ二十代の若い王ではありながら、それでもその覇気と美々しい出で立ち、そしてなにより清廉、高潔の人柄で、臣民の敬愛の念は深かった。
王弟ゲルハルトについても当時は、一般には王とごく仲のよい弟君として知られており、今後も兄王の補佐を務めながら風竜国の王権を磐石にしてくださることだろうと、未来を心配する者などほとんどなかった。
デリアは当時、すでに手の離れた息子を夫に任せ、幸いにも親戚の
生まれて間もないレオンハルト殿下をはじめて抱かせていただいたときにはさすがに腕が震えてしまったものだったけれども、そのうちにこの仕事にも慣れ、穏やかな気質の王妃殿下にも可愛がっていただいて、なんの不満もなく日々を過ごしていたのである。
「当時から、あのアイブリンガー家のご嫡男、クレメンス様もよく奥の宮へ顔をお出しくださっておりました。もちろん、陛下とご一緒にでございますけれど――」
デリアがそう言った途端、さきほどからずっと窓際のところで話を聞いていた小柄な黒髪の女が、ぴくりと体を震わせたようだった。自分をここへ連れてきた女であることは確かなのだったが、ずっと話に興味のなさそうな態度でいながら、その耳がしっかりとこちらの話を聞いていることを、デリアは肌で感じていた。
そちらをちらりと見やったエリク――今はアネルと名乗っているらしい――が、何か意味ありげな表情を浮かべたようだったが、やはり彼も何も言わなかった。
デリアは訝しくは思ったが、そのまま話を続けた。
「今でも覚えておりますわ。クレメンス卿が初めて、お生まれになったご息女さまをお連れになって王宮にお見えになった日のこと……」
◆◆◆
アイブリンガー家は、風竜国の王家ともつながりの深い貴族の家柄である。ずっともとを辿れば王家の傍系の血筋につらなる家であって、いわば親戚筋だといってもいい。
当時、その当主だった男の息子が、そのクレメンスという青年だった。
ごく聡明で、剣の腕もなかなかのものであり、文武に優れ、彼自身すでにその年で王国軍の将軍職を拝命する身でもあった。やや癖のある黒髪に菫色の瞳をしたその青年は、生まれたときから年の頃も近いとあって、ヴェルンハルト陛下の側近としてともに育ってきた、いわば竹馬の友でもあった。
「ですから、そのお申し出はまことに、ごく自然に出てきたお話だったのでございましょう……」
お二人はずっと昔から、いつかヴェルンハルトに王子ができ、クレメンスに女児が生まれた暁には、年の頃さえ合うのなら、互いの子を
そして。彼らの望みは天に届いた。
王妃フランツィスカが懐妊したのを待っていたかのように、クレメンスの妻も身篭ったのである。それはまるで、申し合わせたかのようだった。
近いうちに父になることになった二人の青年は、心から嬉しげに杯を傾けあい、未来の王家について語り合っていたのである。
「どちらが男であろう、女であろう」
「どちらも男なら、是非とも俺と同じように、殿下の臣下として、幼きころから教育してやりたいものよ」
「俺の子がもし姫ならば、そちらの息子は親衛隊にでも入らせるか」
「いやいや。きっと陛下のお子は男子に違いない。そんな気がするんだ、俺は。で、俺の子はきっと女の子。間違いなく、凄い美人だぞ。絶対にそうに決まってる。なにしろ俺の娘なんだからな」
「今から親馬鹿か? 大概にしろ――」
ヴェルンハルト陛下が呆れたように、しかし心底楽しげに笑われた。
明るい笑声と共に交わされているそんな夫とその臣下の青年の言い合いを、フランツィスカ王妃も膨らんできたおなかを抱えながらにこにこと眺めておいでだったものだった。
デリアもそのお子たちのご誕生をただもう楽しみに、忙しい中にも日々を幸せに過ごしていたのである。
しかし、そんな幸せな日々は、そんなに長くは続かなかった。
「左様にございます」
無言になった部屋の一同を一度見回してから、デリアはゆっくりとそう言った。
「レオンハルト殿下ご誕生から丸一年ほどもたったあの日、この国をあの悲劇が襲ったからにございます……」
と、がたんと音がして、場にいる一同は一斉にそちらを見た。
壁際の大窓に掛かった分厚い織り地のカーテンの側で、その女が今にも倒れそうな様子でそれにしがみ付いていた。
女は黒い髪を乱れさせて、口許を覆い、肩を震わせている。
部屋の中は燭台の灯りのみだし、その黒髪に隠れてよくは見えないのだったが、デリアはふと、ある違和感を覚えて女をじっと見つめてしまった。
その顔立ちが、先ほどまでとは違って見えた。
「…………」
先ほどまで、女はどこにでもいるような、ごく普通の造作をした顔だと思っていたのに。
今はその女の顔が、陶器のように白い肌と、菫色をした印象的な美しい瞳をもったものへと変貌している。その全身から匂い立つような色香さえ、先ほどまでの女とはまるで雲泥の差になってしまっていた。
しかし、デリアがもっとも驚いたのは、女の美貌のことではなかった。
その面差しが、いままさに話をしていた、その人物に非常によく似たものだったからである。
「あ……、あなた様は――」
その髪、目の色。
そして、面差し――。
クレメンスは、美丈夫だったヴェルンハルト王に負けず劣らずの、颯爽たる美貌の青年でもあったのだ。王宮務めをする女官たちの間では、それこそ陛下と人気を二分していたほどの。
「ま、……まさか」
「……!」
途端、黒髪の女はぱっと顔を背けると、急に駆け出して部屋の外へ飛び出ていった。
隣に座っていたレオンハルトが反射的に立ち上がろうとしたが、それを大きな体をした武官らしい男が片手でとどめるようにした。確か、ファルコとかいう名前だったか。
「いい。……俺が行くわ」
そう言って、ファルコは返事も聞く様子もなく、ぐいと大股に部屋の外へと出て行った。
「あ、……あの」
おろおろしてレオンハルト殿下とアネルを見ると、二人ともやや困ったような目をしてデリアを見ていた。
「いや。……気にしないでくれ」
レオンハルトが申し訳なさそうにそう言ったが、デリアは確かめずにはいられなかった。
「あの、エリク様。いまの女性は、もしや――」
今はアネルと呼ばれている男は、デリアを見返してゆっくりと頷いた。
「……そうだよ。今の彼女が、あのクレメンス様のご息女にして、レオンハルト殿下の
「な、……なんと……!」
デリアは両手で口許を覆い、しばらく絶句した。
生きておいでだった。
レオンハルト殿下のみならず、ミカエラ様も。
「いえ、けれど……」
どうしたということか。
あの、知的で爽やかだった青年将軍、クレメンス様のご息女であられるとは、到底思えないほどのあの雰囲気は。
確かにあの美貌のほどは、父上様から譲り受けたものだとは思えるけれども。
あの暴漢らに襲われたとき、あの女は男らを容赦なく、一瞬にして屠る寸前だった。実際、さきほどの巨躯の男に止められなければ、あっさりと男らを死に至らしめていたことだろう。
あのとき彼女はその目にも態度にも、一抹の憐れみも見せなかった。その目にあったのはただ嗜虐と、虫けらを殺すかのように命に対して無関心な、殺伐とした
あのクレメンス様の娘御があんな女になっているということが、デリアには
「いったい、何があったのでございますか。なぜ、あのクレメンス様のご息女が、あのような――」
震える声でそう訊ねたが、それについてはレオンハルトもアネルも、すぐに彼女に答えてくれる様子はなかった。
彼ら自身、この事態には少なからず戸惑っているということのようだった。
やがてアネルが、少し申し訳なさそうにこう聞いた。
「それよりもだね、デリア。申し訳ないがここまでのところで、何か思い出したことはないのだろうか?」
「あ、……ああ、はい……」
そうだった。
この昔話の主眼は飽くまでも、赤子だったころのレオンハルトについて思い出すことだったのだから。
「クレメンス卿の奥方さまは、赤子のミカエラさまをお抱きになって、フランツィスカ様と楽しそうによくお話をなさっていたものでしたわ。お二人とも、はじめての子育てだということもあられて、わたくしにも色々とお訊ねになり……」
ぽつりぽつりと思い出しながらそう言いかけて、デリアはふと、嬉しそうながらもちょっと心配げなフランツィスカの声を思い出した。
『そういえば、こういうものって赤ん坊にはよくあることなのかしら……?』
『ほら、見て。レオンハルトの、ここのところ――』
『不思議な形の、痣のようなものがあるでしょう?』
『なんだか、竜の頭の形のように見えるわね……?』
デリアははっとして、自分の隣にいるレオンハルトの顔を見上げた。
「で、……殿下! 思い出しました――」
「ん……?」
レオンハルト殿下は虚を衝かれたようにして、片方しかないお目でこちらをじっと見返してこられた。
「殿下はごくごくお小さいころより、右足のくるぶしの辺りに、不思議な痣をお持ちでいらっしゃいましたわ。お母君のフランツィスカ様と、『なんだか神竜さまみたいな痣ですね』と、お話ししたことが――」
「…………!」
レオンとアネルは、ぱっと互いの顔を見交わした。
レオンはすぐさま、その場で革の
「ああ……! これです! これにございますわ……!」
それは確かに、レオンの左のくるぶしの外側にあった。
それはちょうど、竜が咆哮するときのように、かっと口を開いたような横顔の姿にそっくりだった。
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