第6話 王妃ブリュンヒルデ
レオンが生まれて初めて書いた奏上書は、あっさりと受理された。そしてもう翌日の午後には、レオンは妃殿下の部屋に呼びつけられていた。
驚いたことに、人払いされたその部屋には、なぜか王宮付きの医師であり魔法研究指南役でもある父、アネルの姿があった。
父は何故か、非常に顔色が悪かった。健康的に日焼けしているレオンとは違い、日ごろから室内での業務がほとんどである父は、そもそも色白のほうではある。しかし今日はどうしてか、相当に緊張した様子であって、その顔は蒼白に見えるのだった。
(……?)
怪訝に思いながらも入室すると、背後ですぐに王妃付きの侍女が扉を閉める音が聞こえた。レオンは姿勢を正して一礼し、自分の階級と名前を述べる。
今まではごく遠目でお見かけするだけだった妃殿下は、午後のお茶を楽しまれている最中のご様子だったが、レオンがやってくるとにっこりとこちらを見て微笑まれた。
「ようやく会えましたね、レオン。今日はお話ができて嬉しいわ」
妃殿下ブリュンヒルデは薄紫色のドレスを身に纏い、娘とよく似た蜂蜜色の髪を結い上げ、今日も慎み深くも品のよい色香を漂わせている。そのまま鷹揚な動きで差し招かれ、レオンは数歩そちらへ近づいて目線を下げた。
「妃殿下。このたびは自分ごときにお時間をお割きいただき、ありがとうございます」
「いいえ。こちらが呼びつけたようなものですからね」
ブリュンヒルデはにっこりと微笑んで、じっとこちらを観察するようである。
「それにしても、困ったわ。せっかく娘のためにひと肌脱いだつもりでいたら、本人だけでなくそのお父様からまで『待った』のお声が掛かるのですもの。いったいどういうことなのか、今ここでわたくしにも分かるように説明してもらえるかしら?」
「…………」
レオンはちょっと、絶句した。
だから、その「ひと肌脱ぐ」意味がよく分からないというのに。
それに今、彼女は父までがこの件を反対していると言ったようだったが。
「も、申しわけございません、妃殿下……」
と、父が隣から先に話を始めた。
「
「ですから、アネル。そのことは先ほどから何度も申しているではありませんか」
ブリュンヒルデが少し呆れたように苦笑した。
「若輩、若輩と言う者は確かにいないわけではないようですが。一方であなたのご子息は、多くの士官のみなさんから非常に高く評価されておいでです。人柄も、剣の腕も申し分ないと聞いておりますよ。素晴らしいことではありませんか」
「あ……いえ、恐れ入ります。なれど……」
「このたびの警護役に任ずるのに、不足があるとは思えません。もっと、あなたの息子の力を信じてあげてはいかがですか」
「し、しかし――」
食い下がろうとする父の言葉を、王妃はやんわりと遮った。
「それに。このことはわたくしから娘への、ちょっとした贈り物のようなものなのです。あの子の立場では、思うように貴方のご子息とお話しすることも叶わないのですから」
「…………」
父は、驚いて目を瞠ったようだった。それはレオンも同様である。
「わたくしは、幼い弟のためにみずから随伴を申し出てくれたあの子のために、ほんの少しの気晴らしをさせてやりたいだけなのよ。それ以上の深い意味などないことだわ。どうか安心してください」
そこで王妃の視線がこちらへちらりと流れてきたが、レオンにはやっぱり、言われていることの理由について納得するには程遠かった。
「いえ、あの……ご無礼を承知でお訊ねしますが、なぜそれを、わが息子に……?」
困惑しているアネルの顔色は、やっぱり非常によくなかった。いつになく父は落ち着きなく見え、両手を体の前でもみ合わせるようにして、額に冷や汗を浮かべている。こんな父を見ること自体、非常に珍しいことだった。
(父さん……?)
それもまた、レオンにとっては不可解だった。
どうもレオンには、父がいま心配しているのは、単に若いレオンにはこの荷が勝ちすぎているのではないかとか、姫殿下に対してご無礼があっては一大事とか、そんな単純な理由ではないような気がした。
ブリュンヒルデが少し考えるような仕草をしてから、再びこちらを向いた。
「ご存知とは思いますが、わたくしは隣国からこちらへ輿入れしてきた女です。こちらは気候も温暖で素晴らしい土地ですし、長年、陛下にも、臣下のみなさんにもとてもよくしていただいてきました。そのことは、心から感謝するばかりなのです。……でもね」
困ったように微笑むその瞳の奥に、ごくちらりと、寂しい色が垣間見えたような気がした。
「どんなに素敵なところでも、やはり故国とは違うのです。わたくしも、陛下のお子を授かるまでは特に、ときに無性に、ドンナーシュラーク宮に帰りたくなることもありました。わたくしは、できれば自分の娘にはそのような思いをさせたくないと考えているのです」
王妃はやや、遠い目をするように語り続けている。
臣下の親子二人は、困惑しながらも沈黙してその言葉を聞いていた。
「もちろん、あの子は王族の娘です。今後どのような仕儀となるかは分かりません。そうはいってもやっぱりわたくしのように、国と国とをつなぐため、お会いしたこともない他国の王子と結ばれる未来しかないのかも知れませんが――」
王妃は一度言葉を切ってから、今度はまっすぐにレオンの目を見つめてきた。
たおやかでありながらも、その視線はごく真摯で、なにかを心から願うようにも見えた。
「あの子が初めて心を動かされたその人と、親元を離れてほんのひととき、言葉を交わすぐらいの機会は与えてやって欲しいと思うのです。そのぐらいのことに、なんの罪がありましょうか」
「…………」
「もちろん、母として、二人の間にどんな間違いも望むわけではありませんけれどね?」
かの人の母は、優しいがとても意味ありげな目になってふわりと笑い、レオンに向かってそんな釘を刺した。
「それは……勿論です」
レオンは戸惑いつつも、固い声でそう答えた。ブリュンヒルデがそれを見て、嫣然と微笑んだ。
「それに、あなたでしたら、かの国であの子が万が一、どんなことに巻き込まれようとも、きっとその命を賭してあの子を守ってくださることでしょう。違いますか?」
ごく柔らかい声であるのに、その言葉はまっすぐにレオンの胸に斬りこんでくるような鋭さを秘めていた。
(……言われるまでもないこと。)
レオンはそこで、ぎゅっと眦を決し、再び彼女に向かって礼をした。
「無論のことです。若輩、非才の身ではありますが、この命に替えましても」
「いえっ、妃殿下! しかし、どうか――」
が、父は隣から、必死の声で言葉を挟んだ。
「どうか、ご容赦くださいませ! む、息子には、まだ
「妙ですね、アネル?」
「……は」
すっと目を細めて、ブリュンヒルデがアネルを見つめ、父は言葉を失った。
「なぜそこまで、彼をかの国に送ることを心配するのですか。彼が力不足だというのが本当の理由ではないのではありませんか? ……いったい、何があるのです」
物柔らかな仕草と声ではあったけれども、彼女はまっすぐ、父にそのことを斬りこんだ。
「まさかとは思いますが、何か、とても大切なことを隠しておいでなのですか? もしそうなのでしたら、この場で話しておしまいなさい。そのお話次第ではわたくしも、考えを翻すことに
「あ、……う……」
ぐっと言葉に詰まって、父の顔からはさらに血の気が引いたように見えた。
レオン自身も怪訝に思い、父に向かって訊ねた。
「父さん。一体、なにがあるのですか。なにをそこまで、ご心配に……?」
が、父は蒼白のまま、そこに立ち尽くして唇を引き結んでいた。
そうして、長い長い沈黙のあと、遂に父は言ったのだった。
「……いえ。申しわけございません。可愛い一人息子を大事に思うあまりに、愚かなことを申しました……」
その声には、大いに諦めの色が濃かった。
王妃も、レオンも、その言葉にはまったく納得のいかない顔のまま、しばしその父の顔をじっと見つめていたのだった。
◆◆◆
父と二人で王妃の部屋を辞してから、レオンは父と共にしばらく黙って廊下を歩いた。
父はやっぱり顔色が優れないまま、鬱々と何かを思い悩むような様子だったが、やがて息子を促して、王宮の高い天井を支える巨大な円柱の陰へと連れて行き、こう言った。
「どうか、約束しておくれ、レオン」
「……は?」
父のいつもは穏やかな灰色の瞳が、今、見たこともないほどに必死の色を湛えていて、レオンは胸を衝かれた。
「……父さん。本当に、なにか重大なことでもあるなら――」
しかし、言いかけた息子の言葉を、父は力なく首を横に振って遮った。
「すまない。今はまだ、きちんと話せることではないんだ。……しかし、どうか約束しておくれ。あちらの国を訪れても、お前は決して、表立って人に顔を見られることのないようにしなさい。……とりわけ、あちらの王妃様と、その側仕えの者らには」
(なに……?)
まったく、訳がわからない。
その
そういうレオンの思考を間違いなく読み取っているのであろう父アネルは、やっぱり非常に申し訳なさそうな顔でいながらも、やはり結局、これといったことは話してくれなかった。
ただただ、「許しておくれ」と「どうか言う通りにして欲しい」の一点張りだ。
この優しく穏やかな父が明らかに苦しんでいるらしいのを見て取って、レオンもそれ以上には、父に何かを追求することはできなかった。
それでただ、「分かりました。胆に銘じます」とだけ言って、そこで父と別れたのだった。
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