第13話 碧き涙
悄然とアネルが出て行ったあと、部屋には、寝台に起き上がったレオンと、その脇の丸椅子に腰掛けたアルベルティーナだけになった。
その事実にはっと気づいて、レオンは身体を硬くした。
(……なぜだ。)
どうして自分はこの人と、部屋に二人きりになどなっている――?
どうもこの宮にいる大人たちは、ちょっとおかしいという気がしてならない。
姫は、輿入れ前のうら若い
いくら病み上がりだとは言っても、こんな風に男の部屋に姫をたった一人で置いていく、その神経を疑うのだが。
いや、今の父は、そういうことを
自分の状況がちょっと信じられない思いで、レオンは寝台上に座ったままながらも姿勢を正し、姫殿下に頭を下げた。
「申し訳ありませんでした、姫殿下。ずっと、自分などのそばについていてくださったとのこと……まことにもったいない限りです――」
「え……」
アルベルティーナはきょとんとして、しばしレオンの顔を見返した。それから、急に憤然としたような顔になった。
「何をおっしゃるのです。わたくしは、当然のことをしているまでです……!」
「は……」
いや、それはどう考えても「当然のこと」などではないだろうに。
しかし、アルベルティーナはレオンの内心になど構わずに言い募った。
「お父様からも、きちんと許可は頂きました。自分の命を救ってくれた士官のために、できることがあるなら是非して来なさいと、そうおっしゃってくださいましたわ……!」
だから彼女は、隣の部屋のカールのことも、また他の士官や魔法官らのことも、時々見舞いに行っているのだそうだ。もちろんその時には、彼女付きの侍女たちも同席するらしい。それを聞いて、レオンも一応はほっとした。
「でも、彼らはもう治療も終わって目も覚まして、元気そのものだったのですもの。だから、わたくし……」
だから結果的に、なかなか意識を取り戻さないレオンのところに長くいることになったのだと、彼女はそう言いたいらしかったが。
どれもこれも、この王女による単なる苦しい言い訳にしか聞こえないのは、ひょっとして自分の根性が捻じ曲がっているからなのだろうか。
「いえ、……はい。わかりました……」
彼女の剣幕にちょっと
「ですが、もう大丈夫です、姫殿下。お陰様で、こうして意識も戻りましたので。どうぞ奥の宮へお戻りください」
こんな近衛士官の兵舎では、大切な姫のお身柄をお守りできない。
いままた、もしあのミカエラが攻撃でもしてきたら、それこそどうやって彼女の御身をお守りするのか。
「こんな所におられては危険です。どうか――」
いや勿論、部屋の外には警護の兵士も、「水竜の結晶」を手にした魔法官らも、姫を守るために立ってくれているはずだったけれども。
それでも、どうしても不安は拭い去れない。
あの女はどう考えても、まっすぐにこの王女を狙うに決まっているのだから。
「だったら、あなたも危険ではありませんか……!」
たまらなくなったようにアルベルティーナがそう叫んで、レオンは目を
姫はしばらく逡巡していたが、やがてぽつりとこう言った。
「どうして、あんなことをおっしゃたのです」
「……は?」
「どうして、『ミカエラのものになる』だなんて……! わ、わたくしのために――」
「……ああ」
そこでようやく、レオンは意識を失う直前の細かい顛末を思い出した。
確かに自分は、この姫を守るためならと「お前のものになる」とミカエラに宣言した。
「あのままだったら、あなたは彼女に連れ去られていたのでしょう? ……そんなこと、そんな――」
アルベルティーナの声は震えていた。
「わたくしは……、いやです。あなたがそんな……そんな理由で、彼女のもとにゆくなんて……!」
レオンはしばし、そんな姫殿下を見つめていた。
「姫殿下をお守りするのが、今の自分の務めです」
その台詞は、ただすらりと口から出てきた。
「それに、自分は男です。これが女の身であれば、そこまで容易く『お前のものに』などは申せないところでしょうが……。ともかくも、
それを聞いて、アルベルティーナの顔色がさっと変わった。
「そんなことっ……!」
「それであなた様の御身が守られるというのなら、それでいい。ただそれだけの話です」
つらつらと、レオンはただ、当たり前のことを言うようにして言葉を並べた。
別に、なんの
しかし、どうやら姫殿下はそうは思し召されなかったらしい。
アルベルティーナはもう、二の句が継げない様子で、かたかたと全身を震わせていた。
「そんな……そん――」
声までもがわなわなと震えていて、彼女はなかなか次の言葉も紡げない様子だった。
「ゆる……しません……! そんな、ことっ……」
凄まじい剣幕で叫ばれて、レオンは目を丸くした。
そして、次の瞬間、固まった。
(なに……?)
アルベルティーナは寝台の側に立ち尽くし、握り締めた拳を身体の脇で震わせていた。桜色の唇を真一文字にひきむすび、かたく噛み締めている。
その目からもう、ぽろぽろと留めようもなく、熱い雫がこぼれおちていた。
「姫、……殿下――」
あとはもう絶句して、ぽかんと口をあけ、呆然と姫の顔を凝視してしまう。
どうしてだ。
どうして、姫はこんなことでお泣きにならねばならない?
彼女付きの近衛兵である自分が、彼女をお守りするなど、当然の話ではないか。
この身命を賭してお守りすると、陛下にお誓い申し上げた身である以上は――
「許さないわ……! そんな、ことっ……」
もうしゃくりあげてしまいながら、零れ落ちるものを拭おうともせずに、わななく声で姫が言う。
困り果てて、ただ黙って彼女を見返しているだけのレオンを、「この人は、もう本当に……!」と言わんばかりの目で、姫殿下はぎゅっと睨んだ。
「あなたは、もう少し、ご自分を大切になさってくださいっ……!」
喉がひきつって、うまく言葉が紡げないようだったが、姫は必死にそう言った。
(ああ。……つまり、俺が王族だからという――)
少し憮然とした気持ちでそう思いかけたら、ぴしゃりとその思考を遮られた。
「違います! 身分のことなど、どうでもいいのっ!」
「……え?」
なぜ姫は、こちらの考えが分かったのだろう。
あの雷竜国の王にも言われたが、そんなに自分は、自分の思いを丸ごと
不審に思って見返すと、アルベルティーナ姫は寝台に両手をついて、ぐっとこちらに上体を近づけていた。レオンは驚いて身を引いたが、すぐに壁に背中がついてしまう。
なんだかよく分からないが、狭い寝台の上で追い詰められた形になっていた。
「あなたが、
ぽろぽろと、まだ姫殿下の両の目からは、とても綺麗な雫が落ち続けている。
「…………」
レオンはそれに、状況も忘れてつい見とれた。
水の国、クヴェルレーゲンの語源でもあると言われる「
そこから、まさに溢れるようにして、豊かな雫が落ちている。
だから、それは、無意識だった。
レオンの右手は、いつのまにか、勝手にその雫をすくいとっていた。
普段だったらそんな大それた真似は、到底できるはずもなかったのだが。
その時ばかりは、彼女の涙にまさに引き寄せられるようにして、そう、手が勝手にそうしてしまったのだった。
「ご容赦ください……どうか」
やっと言ったその声も、自分でもひどく掠れて聞こえた。
「どうか、……お泣きにならないでください――」
その時になってやっと、自分の指が姫の頬に触れていることに気付いて、レオンは慌てて手を引こうとした。しかし代わりに、その手は姫の手できゅっと掴まれて、握りこまれてしまった。
そのまま、その薔薇色の頬に押し付けられてしまう。
「……どこにも行かないで下さい。……レオン」
彼女はあえて、「レオンハルト殿下」とは呼ばなかった。
「わたくしはまだ、あなたの主人なのですよね? ……だったら、命令しても……いいのですよね……?」
彼女の頬に押し付けられてしまった指に、また温かな雫が落ちかかった。
「…………」
レオンは無言で、そんな姫のお顔を見返した。
答えがすぐに返ってこないことで、姫殿下の目に再び不安の色がちらちらと揺れ始め、レオンは慌てて、口を開いた。
「はい。……無論です。なんなりと」
それではじめて、姫はぱっと、濡れた頬に笑みを刷いた。
「……では」
アルベルティーナは、自分の頬に当てていたレオンの手をそこからはなすと、胸の前でそれを両手に包み込むようにして目を閉じ、ゆっくりとこう言った。
「わたくしの側にいて……レオン。どんなことがあっても……わたくしが何処へ行っても」
「何があっても、ずっと……わたくしの側にいて――」
「…………」
レオンは黙って、そんな姫のお顔を見返していた。
そうしてやがて、居住まいを正し、低く彼女に頭を下げた。
「……お心のままに。姫殿下」
まだ姫に握られている自分の指が、燃えるように熱かった。
「きっとよ。……レオン。約束よ……」
嬉しげな声がして、目を上げる。
その瞬間、また、時が止まったような気がした。
そう、先日のあの
水竜国に春を呼ぶ、春風の精にも喩えられる花のような
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