第8話 叔父と甥
ゲルハルトの様子が少し落ち着いたところで、レオンは叔父を促して、彼を長椅子へ
彼は寝室から夜着のままで跳んできた国王に、アネルの持っていたガウンを受け取って着せかけようとしたのだったが、ゲルハルトはびっくりしてそれを固辞した。が、レオンはそれには構わず、半ば強引にそのガウンで叔父の体を包んでしまってから、その隣に腰をおろした。
「す、すまぬ……」
ゲルハルトは肩を落として、ガウンを抱きこむようにしながら項垂れた。
レオンはごく簡単に、一応は「風竜の指輪」を取り出して、ゲルハルトに対して身の証を立てた。
「こ、これは……」
ゲルハルトはかつて彼の兄の指に嵌められていたその指輪を、悲しげながらも目を瞠って見つめていた。
さらにレオンは、彼にアネルのことだけを紹介した。
あとのファルコとミカエラについては、今後なにがあるとも分からないので、しばらくは名を伏せておくことにしたのである。
ゲルハルトはもとの名をエリクといった、優秀な医術魔法官の青年ことを覚えていた。そして、アネルの顔をしばらく呆然と見つめていた。
「さて。お話というのは他のことではないのです、陛下」
レオンは相変わらずの丁寧な物腰で、まるでごく普通の叔父と甥ででもあるかのような態度で話を始めた。
ファルコとミカエラは例によって部屋の隅に立ち、ごく冷ややかな目線でじっとゲルハルトを睨むようにしている。さもありなん。二人にとってもこの男は、肉親をひどい形でこの世から追いやった、憎い仇敵に他ならないのだ。
ファルコなどはもう傲然と腕を組み、壁際で仁王立ちになっている。その鷹のような瞳には、これまでレオンたちには見せたことのないような、明らかな殺気が含まれていた。
が、そうではいながらも、彼のその目はしっかりと傍らにいるミカエラを観察し、彼女が衝動的にゲルハルトに手出しなどをしないようにと気を配っている様子だった。
彼らのそんな様子をちらりと目の端で確認してから、レオンは改めて口を開いた。
「先ほども申しましたとおり、陛下が自分に王権を返上するというお気持ちでいてくださることは、心より有難く思っております。しかし、今のようなお気を弱らせたご様子では、いかにもムスタファからつけ込まれてしまいかねません。……畏れ多きことながら、あの者はまた、王のお命を亡きものにせんと企図せぬとも限りません。自分は何より、そのことを危惧しております」
「レ、レオンハルト……」
その疲れたような灰色の瞳のなかに「何故」の二文字を読み取って、レオンは控えめに吐息をついた。
もちろん、この男を心配する気などは毛頭ない。
危惧しているのは、あのムスタファの暴走だけだ。
あの男が己が一族の命運を心配するあまりにこの王を暗殺し、まだ若く、またすでに己が孫娘を娶り、自分の言うなりになると分かっている王太子を擁立しようと考えるのは自明のことだ。そして王太子を国王の座につけた暁には、己はその外戚として今後、大いに権力を奮おうとするであろうことも。
この王が自分に対して大いに
となれば、この王の命は非常に危ない。
いつその杯に毒を盛られ、あの世へ叩き送られてしまうことか、わかったものではないではないか。
諸般の事情からこんな男の命を心配するような羽目になった、我が身のこの皮肉がやりきれないという気もするが、しかし、事実は事実である。
できることならこの男と秘密裏に気脈を通じ、正当な方法と手順を踏んで王権を返上してもらいたい。その道を探るのが、今のところ自分にできる、この事態の最も平和裏の解決方法だと思えるからだ。
かつて理不尽にも肉親を奪われた恨みつらみと、臣民に余分の負担、つまり非業の戦争の災禍に巻き込むこととを天秤に掛けるなどという、愚かしい真似は決してできない。
それは自分が王になる、ならない以前の問題だ。
そして少なくとも、王になろうかという男が、ただの私怨によって動き、周囲を見る目を損なうような、そんな程度の判断力しか持たないのだとすれば、その男に王座にのぼる資格など、もとよりあろうはずがないのである。
そんな王が立つぐらいであれば、このままゲルハルトを王座に置いていたほうがはるかにましと言うものだろう。
「ですから、陛下。難しいこととは思いますが、陛下はしばらく、我らに敵対し、我らを駆逐せんとのご意思をムスタファには見せ続けておかれていただきたいのです」
「な、なんと……?」
つまり、ムスタファとその一派の目を、ぎりぎりの場面になるまでは欺き続けてもらいたい。レオンはそう、この叔父を説得するつもりなのだった。
「いまや、土竜王にして自分の祖父君であられますバルトローメウス公、そして雷竜王エドヴァルト公も、われらにお味方くださっております。間接的なことながら、水竜王ミロスラフ公さえも、これまでのご関係のこともあり、恐らくはこちらにお味方くださることでしょう。この上、ムスタファがいかように抗弁することがあろうとも、事実が動くことはなかろうかと思われます」
「…………」
ゲルハルトは、淡々と語るその甥の言葉を、ただ呆然と聞いている。
「自分の出自に関しましても、いまここで詳しく申すことはできませんが、先ほどの指輪以外にもすでに、手許に多くの証拠も集めてございます。いずれ機が熟しました折にはそれらを総じて、御前へご開帳申し上げることになりましょうかと」
ゲルハルトが思わず目を上げると、そばで沈鬱な顔で聞いていたアネルと目が合い、アネルはそれに対して「その通り」とばかりに目だけで頷いて見せた。
レオンは静かに言葉を続ける。
「たとえ、かのムスタファが自分を『偽者よ』と言い続け、それこそ自分の偽者をでっちあげるような真似に出るとしても、詮無きことかと思います。もしも
「む、……うう」
静かではありながら、レオンの声には徹頭徹尾、有無を言わさぬ迫力があった。
ゲルハルトは当然、一言もない様子で聞いている。
「ですが。できうることなら、自分はそのようなことまではしたくない――」
もしもその事実までが明るみに出てしまったら、ゲルハルトとその親族一同を生かしておくことは非常に難しくなるだろう。何しろ彼は、国王弑逆という最大の禁忌を犯しているのだから。
国王への反逆は、死罪以外のなにものでもありえない。
しかも相手は、民らから絶大な人気のあった、あのヴェルンハルト王なのだ。
そうなってしまっては、ゲルハルト一個の命ではもはや、民らの怒りは収まらないに違いなかった。
当然、彼らは「王位を簒奪した男に死を」「その家族、臣下らももろともに」と叫びを上げるに決まっている。そして、いくらレオン自身がそうしたくなくとも、それをしなければ今後の王権の威信に関わる事態になるはずだった。
レオンとしてはその事態だけは、どうあっても避けたかったのだ。
「……それでは、あなた様のご家族のお命を救うことは叶いません」
低い声でそう言い置き、しばらく言葉をきったレオンのまっすぐな視線を、ゲルハルトは懇願の色を湛えた気弱な瞳で見返した。
その目にはもう、そうなったときの自分の家族らの悲嘆と非業の姿がありありと見えているかのようだった。
「…………」
「ですから、どうあっても、自分は二十数年前、あの事件に巻き込まれた折、たまたま命を救われてここまで存命だったのだと、そして己が出自を知ってこの国に凱旋を果たすに至ったのだと、そういう話にとどめておく必要があるのです」
今ならまだ、「レオン軍」そのものも「風の城塞」近辺にあり、ミカエラの結界である
もちろん、民らの噂についてはその限りではない。人々の口に戸は立てられず、すでに全土に「王太子レオン、
今ならまだ、「反乱軍」の存在などなかったこととして、うまくことを運べるのだ。
あの事件を生き延びて成長し、風竜宮に凱旋したレオンハルトを、現国王であり彼の叔父であるゲルハルトがその出自を認め、王位を彼に戻すと宣言する、それだけでことは済む。
ゲルハルトの親族も、ムスタファの一党も、今ほど華美な生活はできなくなるとはいえ、命まではとらずに済もう。
ここでかつての復讐劇とばかりに一族郎党を死に追いやれば、それがまた新たな恨みを生んで、将来の風竜国に再び暗い影を落とすことになる。長い目で見れば、不必要に他人の恨みを買うというのはどうにも割に合わないやり方なのだ。
この場にいるミカエラとファルコの瞳が、それらを十二分に裏付けてもいるではないか。
「…………」
レオンのするこれらの話を聞いて、ゲルハルトはおずおずと、部屋の隅にいる両名に目をやった。
厳しい殺気を滾らせているその四つの
「そう、……だな。そなたの、申すとおりだと思う――」
その声は、これまでただ怯えと悔恨だけに満ちていたものとは違って、ある種、レオンとの共通認識を得た、というような色を伴っていた。
「分かった。では、そなたが次に連絡を寄越すまで、余はあのムスタファと御前会議の面々の前で、強硬に主戦論を唱え続けることとしよう。飽くまでも、そなたを『偽者の王太子』と言い続け、討ち滅ぼせと命じつづけよう」
その上で、レオンが最後に自分とムスタファの面前に現れたとき、レオンの示す自身の出自の証を見てその身分の確かさを認める。つまり、ぎりぎりの土壇場であのムスタファを陥れようというのだ。
風竜国の内乱を避け、かつ、彼が自分の一族の命を守るためには、これ以外の方法はない。
「それで、良いのだな? レオンハルト」
「……恐れ入ります」
レオンはごく静かに、また礼儀正しく叔父に向かって頭を下げた。
「あ、お待ち下さい。そのことなのですが……少しよろしいでしょうか」
と、不意にアネルが横合いから口を挟んだ。
その顔を見て、レオンもはっとした。アネルの目も、いつもの彼らしくない、慈愛の欠片もないような厳しい光を湛えていた。
この男とて、あの二十年前の顛末で身内の親族のほとんどを殺されたり、離散させられているのである。しかも、あろうことかあのヴェルンハルト王を暗殺したという汚名を着せられてだ。
彼のその汚名については、今後また晴らす方法を考えねばならないだろう。
「ゲルハルト様にあられては、お見受けしましたところ、あの事件については非常なご悔恨がおありのご様子。僭越なこととは存じますが、今後、レオンハルト殿下に対し、その身をもって謝罪されるお気持ちはおありでございましょうか」
いつも穏やかで控えめなアネルにしては珍しく、少し不躾な言いようになるのも無理のない話かもしれなかった。
しかもその言いようは、彼らしくもなく相当に不穏な意味あいを含んでいるようだった。
「も、……もちろんだとも」
青白い顔はしていながらも、ゲルハルトがしっかりと顔をあげて頷いた。
「己が罪の重大さに気付いてよりこのかた、余がそれを望まなかった日があるだろうか。……もとより、この命ひとつのことは、レオンハルトに詫びとして差し出すつもりでおったのだ。なんなりと、申して欲しい」
「父さん、いったい――」
レオンは思わず、養父をそのように呼んでしまいながら彼を見上げた。
アネルはレオンに対しては穏やかな目を向けて、ごく優しく、いつもの父としての顔で少しだけ微笑んでくれた。
「実は、わたくしもずっと考えていたのです。ゲルハルト公がもし、以前のことを悔いてくださり、そのようにおっしゃってくださるのであれば、このことを是非ともお願い申し上げようと――」
そして、アネルは静かな声で、自分の考えを述べ始めた。
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