第7話 招待



 その夜、風竜王ゲルハルトはまたいつものように、自分の大きな天蓋つきの寝台に身を横たえていた。

 こうして鬱々と眠れぬ夜を過ごすのは、もうこの何年来、変わっていない。

 だからその声が聞こえて来た時、むしろゲルハルトはほっとしたのだ。

 あの落ち着いた、兄に良く似た青年の声が、耳の中に聞こえてきたときは。


《……陛下。ゲルハルト陛下。聞こえておいででしょうか》


『レオン……? レオンハルトか?』


 前回のことがあるので、ゲルハルトは比較的落ち着いて、声を出さないよう、寝床の中で身動きもせぬよう気をつけながら返事をした。

 王の寝所の隣には、すぐに起きてこられるようにと近習の者が寝起きする小部屋がつながっている。あまり大きな声を立てればそれに気付いた者が「いかがなさいましたか」とすぐに起きてくるからだ。


《はい。また突然に、夜分に失礼いたします、陛下》


 たとえ実の叔父だとは言え、親の仇である男に向かって、この甥はそれでも丁寧な言葉遣いを崩さない。憎しみがないはずはないと思うのに、むしろその心底に肉親としての情のようなものさえあるのではないかと感じるほどに、この甥はゲルハルトに対してごく謙虚に、かつ丁寧に応対するのだ。

 そういう人としての高潔さが、ゲルハルトをしてやはりこの人物をまことの兄の子と認めざるを得ないと思わせるのかも知れなかった。


『いや、構わぬ。それで、此度こたびはいかがした?』


 ゲルハルトもまるで、自分がただの叔父であるかのように彼の声に答えている。そのことに自分でさえも不思議な思いを禁じえないのだったが。

 レオンハルトの声はそこで、少し言いよどんだようだった。


《……はい。叔父上、まことに申し上げにくいお話ではありますが。過日おっしゃっておいででしたこと、宰相ムスタファに洩らしておいでではありませんでしょうか》


 それはつまり、あの時ゲルハルトが彼に向かって「自分の首を獲りに来い」云々と言ったことを指しているらしかった。


『あ、いや……そなたから連絡があったことなどは決して洩らしてはおらぬ。ただ、その……近頃のそなたの動き、ある程度ムスタファも勘付いてはおるようだからな。それでもし、そなたから何かの接触があるならば、話し合いに応じたいとは申したぞ。奴は無論、憤慨甚だしかった。なにしろ此度こたびのことでは、相当に神経を尖らせておるゆえな――』


 そこでまた、レオンは少し沈黙した。


《……叔父上。これはなにも、叔父上を思って申し上げるのではありませんが。できますればそうしたこと、ムスタファにはなるべくお漏らしにならぬほうが賢明かと》


 そしてレオンは、その年の青年にしては落ち着いた声音と物腰で、淡々とその事態を説明してくれた。

 すなわち、あまりゲルハルトが気弱になり、反旗を翻すレオンハルト一派に対して柔弱な姿勢を見せてばかりいれば、やがてムスタファがゲルハルトを密かに亡き者にした上で、すでに成人している王太子に王権を継がせることを考えかねないと。


《そうしてひとたび王太子殿下がムスタファ一派の者どもに祀り上げられてしまえば、もはや風竜国内の内乱は避けられぬ仕儀となりましょう。……自分はできるだけ、無駄な血を流したくない。いわばこちらも、そちらの王国軍の将兵らも、わが国の臣民、同胞ではありませんか。大変僭越なことではございますが、できることなら、陛下とこのまま内密のうちにも約定を交わしてしまい、王権を返上いただければもっとも良いと考えているぐらいです》


(いや、それは――)


 それは、いくらなんでも夢物語に過ぎぬのではあるまいか。

 レオンハルトという青年が、ここまで無血に拘ることは素晴らしい。それは、まさにあの兄ヴェルンハルトも同様に考えたはずのことであり、王権を預る者のありようとして理想的ではあるけれども。


『そのようなこと……あのムスタファが、やすやすと許すとは思われぬ。余としても、臣民の無駄な血など、出来うることなら流したいとは思わぬが……』


 ゲルハルトの苦悩は深い。

 すでに自分は、あのムスタファらに手足をもがれた傀儡王だ。

 あのムスタファが自分を殺そうと画策すれば、自分の命などその翌日にはすでにこの世のものではなくなっていることだろう。


『すまぬ……。まこと、斯様かような不甲斐なき叔父が、そなたの父から王権を奪ったなど……。憎んでも憎みきれぬことであろうに』

《……陛下。そのような》


 レオンハルトの声は、まさに本心から焦慮を滲ませたようなものだった。

 それから、あちらで少し何かのやりとりがあったらしく、僅かに話の間があいた。


《陛下。この方法ではあまり長く時間が取れず、きちんとお話しすることが叶いません。もし陛下さえよろしければ、夜の間少しだけ、こちらにお越しいただくことは可能でしょうか》

『な、なんと……!?』

《こちらにおります風竜魔法の使い手が、『跳躍』の魔法を用いて陛下をお運びすることが可能です。お体に負担などはございませんので》


 唐突な申し出に、ゲルハルトは心底おどろいた。

 この青年は、何を言うのか。

 王宮は、幾重にも武官と魔法官らによって守護されている場所である。このようなところから秘密裏に玉体を運び出すなど、いったいあちらはどんな優秀な魔法官を抱えているというのだろう。

 そのように考えただけでも、ゲルハルトは空恐ろしい思いに捉われた。


《近習の者らには気付かれぬよう、数刻でご寝所にはお戻りいただけます。お体やお命を傷つけるような企みなども一切ございません。その点はお約束いたします。……もちろん、陛下がこちらを信用できぬとおっしゃるのであれば、その限りではございませんが――》


 青年の声は、やはりごく淡々としている。

 ゲルハルトはむしろ、毒気を抜かれたようになってしばらく呆然としてしまった。


(いや……そうか)


 そして、思いなおす。

 どうせ自分は、いずれこの甥の手にかかり、殺されるつもりで生きているだけではないか。たとえ今、彼の刺客がこの場に現れたとしても、自分はただ黙って殺されてやるだけのことなのだ。

 できれば自分の子ら、親族らの命ばかりは助けてやって欲しいとは思うけれども、少なくとも自分に関して、その命乞いをしようとは思っていない。

 ならば別に、丸腰でこれからあちらに連れて行かれることに、なんの問題があると言うのか。

 それにレオンは、むしろ今、自分がムスタファから亡き者にされることを恐れている様子である。それはそうだ。王権を返上するにあたって、今は自分が存命であることのほうが、レオンにとっては遥かに利がある。

 少しの間、大体そのようなことを考えてから、改めてゲルハルトはレオンに答えた。


『……いや、大丈夫だ。そなたの思うようにして貰えばよい。ただどうか、王太子や我が妻子、親族らには、私の命のはかなくなった後もどうか、そなたの恩情を掛けてもらえれば有難いのだが』

《なにをおっしゃいます》

 レオンの声は、それを聞いてむしろ驚いたようだった。

斯様かようなご懸念は無用です。……では、しばしそのままでお待ち下さい》


 レオンの声が途切れてから、しばしの沈黙が流れた。

 と、寝台に横たわったままのゲルハルトの視界の隅に、音もなく黒い霧のようなものが現れたかと思ったら、次にはもう、そこに黒髪の小柄な女が立っていた。

 町の娘の着るようなワンピースを身にまとった平凡な容姿のその女は、ひどく蔑むような目でこちらを見ていたようだったが、何も言わずにただぐいと片手を上げた。

 次の瞬間。


(うお……!?) 


 ゲルハルトの視界はぐにゃりと歪んで、あっという間に自分の体が黒い霧のようなものに包まれたのが分かった。

 背中を包んでいた寝具の感触が消えて、奈落の底へと落ちてゆくような感覚があり、手足を思わずばたつかせる。しかしそれは心許なく、ただなにもない空を掻くように思われた。


 と。

 はっと気付くと、ゲルハルトはもう、どこだか知らない屋敷の一室のような場所にいた。

 部屋の隅に置かれた燭台が、応接室らしいその場所をほんのりと温かな色に照らし出している。

 床にへたりこんで、まだぐらぐらする頭を振りながら見回せば、部屋の中に先ほどの女のほかに数名の男が立っているのが目に入った。

 痩せた文官らしい姿の中年の男と、それより頭ひとつ分以上も大きな体躯の短髪の男、そして――。


「あ、……ああ、あに、うえ……?」


 ゲルハルトの喉から、ひき潰された蛙のような声が絞り出された。


 淡い光に照らされて、濃緑色の軍装に身を包んだ黒髪の青年のその姿は、紛れもなく彼の兄、ヴェルンハルト王そのものに見えたのだった。

 ただ、この青年のその片目は、なぜか黒革の眼帯によって閉じられていた。

 青年は、さっとゲルハルトの方へと歩み寄ってくると、すぐにそのそばに片膝をつき、ゲルハルトの手を取った。


「はじめまして、ゲルハルト陛下。ヴェルンハルトの子、レオンハルトと申します」

 静かな落ち着いた声は、寝室で聞いていたのと同じものだ。


 その声音も、佇まいも。

 全身から放たれているその気概も、清廉な雰囲気も。

 なにもかも、かつて自分が喪った、いやこの手で亡きものにした、あの兄に生き写しだった。


「あに、うえ……」


 ゲルハルトは自分の視界が曇るのをどうしても堪え切れなかった。

 熱い奔流が、喉奥と鼻の奥からせりあがってくる。

 もう、嗚咽を堪えるだけで必死だった。

 そして、自分の手を握ってくれているその青年の手を両手で必死に握り返し、ただもう、涙にむせんでうずくまった。


 ただただ、「お許しください」という言葉を、何度も搾り出すようにしながら。


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