第7話 侍女ミカエラ
レオンが宮殿の建物を辞して、徒歩で例の離宮へ戻ろうとしていると、王妃付きの侍女らしいあの少女が足早にやってきて隣に並んだ。それはさも、それが当然かのような様子だった。
怪訝に思って、レオンは自分より随分と背の低いその少女を見下ろした。
「……何か」
「お送りします。王妃さまの許可は頂いております」
レオンの歩幅に合わせるためにちょっと足早になりながら、少女はこちらを見ようともしないでついて来る。レオンはやむなく、やや歩度をゆるめた。
(……どういう意味だ。)
いや、男が女を送るのならわかる。
しかしこの場合、彼女を一人で帰せなくなるだけではないのか。
帰りはもう一度、誰かが彼女を送ってこなくてはならなくなるのでは。
わけがわからず、怪訝な顔になったレオンを、少女はその
王妃とも、あのアルベルティーナとも違うけれども、この少女もまた、どこへ出しても恥ずかしくない気品と美しさの持ち主である。風竜の国の出身者だろうことは容姿から窺えたけれども、あちらの国の貴族の娘かなにかなのだろうか。
王妃のものとは違い、ゆるやかに癖のある黒髪を編みこんでまとめあげた小さな頭で、一体なにを考えているものだろう。
レオンはそこで立ち止まり、少女に言った。
「お送りなどは無用です。どうか、お戻りを」
軽く会釈してそう言ったが、少女はまるで耳が聞こえないかのようにそれを無視した。そればかりか、いきなりレオンの軍服の袖を掴んでぐいと引き、レオンを引き止めるようにした。
「わたくし、ミカエラと申します。風竜国、伯爵家の娘です」
それは、まっすぐ斬り込んでくるような声だった。その視線も同様である。
「……はい」
ちょっと面食らって、レオンはただそう返した。
だから、何だというのだろう。こちらの名はすでにこの少女に知れていることなので、わざわざ名乗られる意味がよく分からない。
そもそも、自分がひとたび水竜の国に戻ってしまえば、場合によってはもう二度と会うこともないかも知れない間柄なのだ。その自己紹介に意味はあるのか。
そういうレオンの内面など見透かしているかのように、彼女は紫色の瞳をきらりと閃かせて、にっと笑った。
少し、ぞくりとするような笑みだった。
「ご存じないのも仕方がありませんわ。伯爵家と申しましたが、もとは侯爵家だった家なのです。父はもと、先王ヴェルンハルト陛下の陣営に
「……はあ」
仕方なく、レオンはそう答えた。が、どうもいまひとつ要領を得ない。そもそも、他国のお家事情など、噂として流れてくる以上の情報をこちらが知る由もないのだから。
しかし相手の少女は次第に苛立ってきた様子だった。
「……お分かりになりません? ヴェルンハルト陛下側に与していたということは、つまりあの事件後、我が家は王弟殿下の陣営から、それは手酷い仕打ちを受けたということですわ」
「…………」
(なるほど……)
「そういうことか」と一応の理解はしたが、それを今、この場で自分に説明する、彼女の意図までは測りかねた。
少女は悔しげに言葉を続けている。
「我が家はあれ以来、王弟殿下側からなんのかのと理由をつけられ、財産や領地を没収され、家族、親族とも辺境へ追いやられ、家格の降格も余儀なくされて……つまりは、
何故かは知らないが、口調が随分と砕けてきた。
一体何様のつもりでいるのかは知らないが、まあもとは有力貴族の娘なわけだ。落ちぶれて、今は王妃の侍女として仕える身分になったとしても、その矜持は今も変わらず、相当のものがあるのだろう。
レオンは何も言わず、ただ少女の言うに任せていた。
しかし先を急ぐため、それでも離宮へ向けて歩くことはやめなかった。
「父は、陛下の側近中の側近でした。あなた様がお生まれになり、すぐに娘のわたくしが生まれて……お二人で、ずっと前からお約束されていたそうなのです」
「……何をでしょうか」
ここへきて、遂に、彼女がかっとなったらしいのが分かった。さすがに「鈍いわね、この男!」と思っているらしいのが、顔を見ただけでも十分に伝わってきた。
ぱっと顔を上げ、怒りに燃え上がった瞳でこちらを睨むようにして、ミカエラは次の瞬間、言い放った。
「つまり! わたくしは、世が世ならフリュスターン王妃――つまり、あなたの妻になるはずだった者なのです――!」
「…………」
レオンは、絶句して立ち止まった。
軍服の袖を掴んだまま、真っ赤な顔になってこちらを睨みつけてくる少女を、思わずまじまじと見下ろしてしまう。
少女の甲高くて細い声は、綺麗に敷き詰められた敷石の上でよく響いたが、幸い周囲に人影はなかった。聞いていたのはせいぜいが、庭園の植え込みや木々の枝から、驚いて飛び立った数羽の小鳥たちぐらいのものだった。
「……そう、なのですか」
「そうなのですかって、何なのです!」
少女が憤然と食って掛かる。
いやしかし、それ以上、何をどう答えろというのだろう。
「いえ、その……失礼致しました」
レオンはちょっと自分が阿呆にでもなったような気分になりつつ、そのひどく阿呆な台詞を口から出した。
そもそも、自分はまだ風竜国の王太子だったと確定したわけでも何でもない。今ここでそんな情報を与えられても、彼女に対してなにができるわけでもないのだ。もしも仮に、彼女をこんな境遇に落とした張本人の息子なのだから謝れだとか、責任を取れだとかいう話なのだとしても、まだその確証もないのである。
この少女がいったい何をしたいのか、レオンにはさっぱり理解不能だった。
「……いえ。身分のことなど、どうでも良いのです」
やがて、言うだけ言い切ってすっきりしたものか、ミカエラは少し息を整えるようにしてからそう言った。
「わたくしが言いたいのは、わたくしはあなたのものだということ。……どうか、それをお忘れにならないで」
「…………」
レオンは、再び絶句である。
それは、どんな暴論だ。
そんなことを、そんな風になんの迷いもなく言い切られても、こちらは困るだけである。
「……ミカエラ様」
「様なんてつけないで!」
すぐさまそう遮られて、意気をくじかれそうになる。
「ただ、『ミカエラ』と呼んでください……」
突然、彼女の口調と目の色が夢見る乙女のそれになったようだった。
レオンは呆気にとられつつも、それには気づかぬふりで言葉を続けた。
「そもそも、まだ自分が王太子殿下だと決まったわけでは――」
「いいえ。そんなもの、決まっています。王妃様もわたくしも、そう確信していますもの。女の勘をあまり侮るものじゃなくってよ?」
くすくすと、小柄な少女の唇から嬲るような笑みがこぼれる。
(気味が悪いな……。)
正直、そんな気分は拭えない。
「いや、たとえそうだとしましても。それは現フリュスターン王がヴェルンハルト陛下であればこそ有効だったお約束に過ぎますまい。今現在のあなた様がそのような、はるか昔の親同士の約束ごとに縛られずとも――」
「いいえ!」
次の言葉も、やっぱりぴしゃりとはねつけられた。
「先王陛下と父とのお約束は絶対ですわ。それはもちろん、わたくしだって、あなた様が儚くおなりであれば仕方がないとあきらめてもおりましたけれど。こうして今、ご存命であられることがはっきりしたのですもの。何を躊躇うことがあるかしら……!」
言いながら、またその瞳が夢うつつの世界を彷徨い始める。
(……お手上げか。)
とにかくこの少女、こちらが何を言おうがまるで聞く気がないようだ。と言うよりも、自分の聞きたいこと以外、そもそも耳に入らないとでもいうべきか。
レオンは次第にうんざりしてきた。これはもはや、付き合うだけ時間の無駄というものだろう。はやく離宮が見えないものか。
と、やや肩を落としつつ、向かう先に目をやったときだった。
(……?)
独特の不穏ななにかを嗅ぎ取って、レオンはぐっと眉根を寄せた。
ここからまっすぐ行けば、ほどなくあの離宮である。そちらへ向かって、明らかに雷竜王国軍とはちがう装束の兵士の一団が、騎馬で続々と移動しているらしいのだ。
(何だ……?)
嫌な胸騒ぎがした。
気のせいか、ちりちりと首の後ろあたりの毛が逆立っている。
兵らの軍服を見れば、それは確かに紅地の色をしている。間違いない、それはあの火竜の国の兵らであろう。その兵たちが、なぜいま姫殿下と王子殿下のおわす離宮へ向かって集結しようとしているのか――。
「ミカエラ様」
「ですから、様は――」
だが今度は、レオンがそれを遮る番だった。
「エドヴァルト陛下は、何ゆえ我が王女殿下、王子殿下をお送りするのに、さらに手勢をお貸しくださったのでしょう。何かご存知ですか」
「ああ、それは――」
ミカエラは自分もレオンの視線の先を追って、初めて事態が分かったらしく、すぐに首肯した。しかし、さして慌てた風でもなかった。
「火竜の国の王子殿下が、少し不穏な様子だったからでしょう。随分と、そちらの王女様にご執心のように見えましたもの。陛下は姫君に、なるべくいつも武官をそばに置いて、一刻も早く国に帰りなさいと、くどいほどにおっしゃって――」
(………!)
レオンは、彼女の言葉が終わるのを待たなかった。
そして、次にはもう、凄まじい速さで走り出していた。
「あ、レオ――」
「来るな! あなたはもう、戻ってください! どうか陛下に、このこと、急ぎお知らせを――!」
一瞬だけ振り向いてそれだけを叫び、あとはもう、後ろも見ないでただ走った。
火竜の国の男たちの女性に対する扱いは、五大竜王国の中でも最もひどい。
そのことは、レオンも兵舎にいる同僚らから聞く噂話で知っていた。
アルベルティーナは王女だけれども、それでもやっぱり、
もちろん、普通の男には手出しのできない身分には違いない。
しかし、相手が火竜国の王子となれば――。
(姫殿下っ……!)
だだっぴろい王宮の敷地に長く広がる敷石は、走っても走っても一向に前に進まないように思われた。
遠く、かの離宮が見張らせる。
その周りを、忌々しい赤い軍服を着た男たちが
レオンの胸が、焦燥に焼き切れそうになる。
こんなところで、彼女の身になにかあったら。
あの人の身に、何かがあったら――。
自分は自分を、恐らく一生ゆるせまい。
冷たく残酷な魔物の腕が、心臓を鷲掴みにしたようだった。
それが本物の「恐怖」なのだと、レオンは生まれて初めて知った。
全身の血が沸騰する。
次の瞬間にはそれが、今しも心臓を握りつぶさんとしていた魔物の腕を霧散させた。
「姫殿下アァ―――ッ!!」
そんな大声で絶叫したのも、生まれて初めてのことだった。
叫びながら、疾走する。
離宮は、もう目の前だった。
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