第5話 王妃ティルデ

「レオン、参りました」


 固い表情で王族らの前に歩み寄ったレオンは、彼らの五歩ばかり手前で兵士の敬礼をし、地面に膝をついて頭を下げた。

 しかし、そこに来るまででもう、自分に向けられた気配で分かっていた。

 直接顔を見るまでもない。王の隣に立つ王妃ティルデが、声を無くして自分を凝視し、完全に茫然自失の状態で立ち尽くしていた。

 そして、王妃のものらしい掠れた声が、わなわなと震えてこう言うのが聞こえた。


「あ、……に、うえ……?」


(なに……?)


 『兄上』。


 レオンの聞き間違いでなければ、いま、王妃は確かにそう言った。

 この王妃の兄上といったら、この世にたった一人しかいない。

 いや、正確にはお二人おられたのだが、もう一人のその御方は、すでに十数年前、この世から喪われた人だからだ。


 風竜の国フリュスターンの先王、ヴェルンハルト。

 現国王、ゲルハルトは、そのお方の弟である。


 アルベルティーナを含め、自分の前に居並ぶ二国の王族らは、水を打ったように静かだった。麗しきわが王女殿下は、明らかに驚き、ひどく緊張した様子だった。かれらは一様に、言葉を失って真ん中に立つ王妃を見つめているらしい。


「まさ……か、まさか――」


 と、よろよろと萌黄色のドレスに身を包んだ王妃ティルデがこちらへ近づこうとしたのに気付いて、レオンは急いでその場から飛び退すさり、再び地面に膝をついた。ティルデの足が、はっと止まった。

 エドヴァルトが妻の身体を支え、隣から彼女に問うた。

「やっぱりなん? やっぱしこの子、そんなにお兄さんに似とんの? ティルデ」

「え、ええ……ええ! 似ている、などというものでは、ございませんわ……!」

 喘ぐようにして紡がれたその言葉の後半は、もう涙に紛れてよく聞こえなかった。


「あなた、……どうか。もっと、側に来てください。よく、顔を見せて――」

 王妃は必死に涙を堪えるようにしてこちらに懇願している。

 レオンは石畳の地面に視線を据えたまま、少し躊躇していた。まさか、こんな驚くべき事態になろうなどとは、さすがに考えてもいなかったのだ。

 が、やがて聞きなれた涼やかな少女の声がした。


「……レオン。どうか、ティルデ様のお望みどおりに」

 アルベルティーナだった。彼女の声も、少し震えているようだった。

「……は」

 我が王族の命とあっては、否やもなかった。レオンは眉間に皺を寄せつつ、ゆっくりと顔をあげ、目の前で夫に身体を支えられるようにして立っている、細身で美しい女性を見上げた。


(………!)


 レオン自身も、驚いた。

 ティルデとおぼしき麗しいその女性は、つややかで真っ直ぐな黒髪を結い上げた、それは美しい方だった。クヴェルレーゲンの王妃ブリュンヒルデよりは細身かつ小柄な方で、その爽やかな色を湛えたみどりの双眸は、鏡を見ているかのように自分のものにそっくりだった。

 唖然として言葉を失い、無礼であることもつい失念して、レオンはその女性をじっと見返してしまった。


 と、彼女の背後に立っている、やはり黒髪で紫色の瞳をした美しい顔立ちの少女が、射るような強い視線でこちらを見つめているのにも気がついた。

 年の頃は、レオンとさほど違わないだろう。濃い緑色のワンピースを着て、頭には召し使いのする白布の頭飾りをつけている。どうやら王妃の側付きの侍女かなにかであるらしい。容姿とその立場からして、彼女も王妃と同郷の、フリュスターン出身であるらしかった。

 王妃が、やっとまた口を開いた。


「あの、あなたのお父上は……? お医者さまだとお聞きしましたが。以前はどちらに……?」

 思わずこちらに手を伸ばして来られながら、王妃はさらにお訊ねである。

「あ、……いえ、申しわけございません。ごく幼い頃からクヴェルレーゲンで育ちましたもので。父にはあまり、以前のことまではきちんと聞いたことがなく――」 

「そう……なのですか」


 王妃は明らかにがっかりしたように見えた。そしておずおずと、主人であるエドヴァルト王のほうをみやって、何かを懇願するような顔になった。


「あの、陛下……。皆様、すぐにお国へご出立なさるとのお話でしたが。その……わがままは重々、承知なのでございますが――」


 その心細げで頼りない口ぶりといい目つきといい、王妃はこの夫を心から愛し、頼っているのが明白だった。王のほうでも、彼女に対しては一段と穏やかな目を向けているようである。

「ああ、分かっとるよ、ティルデ。もうちょっと、この坊やと話したいんやろ? ええよええよ。そうさして貰い。ちょこっと話するぐらいの時間、待ってもろうたらええこっちゃ――」


 その腕でごく優しく王妃を抱きかかえる王は、屈託のない笑顔でそう言った。どうやらこの王は王で、この美しい妃にぞっこんであるようだ。

 とは言ってもこの男、この城内に複数の側妃もいれば側妾もわんさかいるというのは周知の事実。それら婦人たちとの間にも山ほど子供もいる王だ。それでどうしてここまでこの夫婦の仲がいいのかは、たかが青二才のレオンなどには、はかり知れない謎だった。

 そんなレオンの内面を知ってか知らずか、王はごく軽い口ぶりでアルベルティーナに声を掛けた。


「な? ええよな? アルベルティーナ。この子、ちくっとお借りしても構へんじゃろ? 離宮までは、あんたらのこと、うちの兵士らも一緒にちゃあんと送らしてもろうきに」

「え? ……ああ、はい。勿論ですわ、伯父様……」

 まだ少し呆けたような顔のまま、アルベルティーナは首肯した。

 エドヴァルトはにかっと笑うと、「心配するな」と言うようにアルベルティーナの肩を叩いた。

「ほな、決まりやな。戻って、大急ぎで出立の準備に掛かっといて。この子も、なるべく早うに戻らせるよって。……ほなな」


 レオンがまだ半ば呆然としているうちに、王族らで勝手に話は決まり、彼はそのまま、一人宮殿内に残されることになった。

 そしてアルベルティーナ一行は、全部で百名近い兵士らに厳重に警護されながら、引いてきていた馬車に乗り、滞在先の離宮に向かって急いで戻っていったのだった。



◆◆◆



 レオンはそのまま、国王エドヴァルトにいざなわれ、宮殿の奥へとしばらく歩いた。

 王妃ティルデは夫の腕に縋るようにしながらも、その間ずっと、レオンの横顔を見つめていた。その顔にはなんとも知れない悲しみと、抑えがたい懐かしさが溢れているように思われた。

 彼女の隣を歩く侍女の少女も、じっと意味ありげな視線でレオンから目を離さない。強い視線ではあったけれども、そこにも不思議と敵意があるようには思われなかった。


 やがて、王族の使用する客間らしい豪奢な部屋へと通されて、レオンはひどく困惑した。その、明らかに王侯貴族を迎える場であるらしい凝ったつくりのテーブルへの着座を促されて、必死に固辞する。

「いえ、自分はこのままで」

 つまり、立ったままで構わないと何度も申し上げたのだったが。

 しまいにはまた王妃が涙ぐみ、「そんなことをおっしゃらないで」と懇願されるに至って、遂に諦め、もっとも末席にあたる場所へ仕方なく着座した。

 しかし、それにあまり意味はなかった。王も王妃も、勝手に自分のすぐ側の席へやってきて、まるで当然かのように、レオンを囲むようにしてとっとと座ってしまわれたからである。

 部屋の中には、王と王妃、それにその侍女の少女がいるばかりで、あとの者らは人払いされていた。


 レオンはそこで、ドンナーシュラークの王と王妃から、つぎつぎと質問を浴びせられることになった。


 曰く、「何歳ごろからクヴェルレーゲンに住んでいるのか」。

 曰く、「父だというアネルという男は、どんな風貌、年恰好の男なのか」。


 そのほか、今の王宮に仕えるようになった顛末や、武術の腕のほど、またこの旅に同行するにあたって、父親にどう言われてきたのかといったことまで、こと細かに質問攻めに遭わされた。

 レオンとしてはもう、こうなってしまった以上は開き直るほかないと考えて、特に包み隠すこともなく、事実をその通りにお伝えした。

 お二人は、時折り互いに目を見交わすようにされ、何事かを確信したような様子で頷き合っていた。

 そうして受け答えをする間にも、ティルデは時折りやっぱりハンカチタッシェン・トゥーフを握り締めては口許を覆って涙ぐむ様子で、「ああ、もう本当に、お声といい、お顔だちといい……」と、小さな声で独り言をいっていたようだった。


 やがて、大体の話をし終えた頃合いで、遂にエドヴァルト王がこう言った。

「まあ、ワシが勝手に結論だしてもええ立場やないんはわかっとんねんけども。そんでもまあ、ティルデもええっちゅうとるし、君の今後にも関わることやと思うから、もうこの場で言うとくわな? レオン君」

 彼は少々、困ったような笑顔だった。

「……は」

 こちらはこちらで、相当、怪訝な顔をしていたかと思う。

 エドヴァルトはそんなレオンの表情をちょっと眺めるようにしていたが、姿勢を正し、軽く息を吸い込んでから、一気に言った。


「きみ、風竜の国フリュスターンの先の王、ヴェルンハルト公の忘れ形見や。正式な名ぁは、レオンハルト。フリュスターンの前王太子、レオンハルト殿下やな」


(…………!)


 その瞬間。

 レオンのすべてが、凍りついた。


(な、……に!?)


 レオンの驚愕をよそに、王は言葉を続けている。

「ま、世が世なら、キミは今ごろ、あの国の王座におったかもしれへん子やっちゅうこっちゃ。ここまで話聞かせてもろうた限り、十中八九、間違いないわ――」

「殿下っ……!」

 王が言い終わらないうちに、ティルデがもう我慢できなくなったように椅子から立ち上がり、床に跪いて、レオンの膝の上に身を投げ出すようにしてきた。彼女はレオンの手を力いっぱい両手に握り締め、額に押し付けるようにして、すでに号泣していた。


「よ……、よろしゅうございました……! せめて……、せめて殿下だけでもご無事でいらっしゃって! お二人とも、それはむごい、非業のご最期であったと聞いていて……わたくし、わたくし本当に、胸の潰れる思いをいたしておりました……!」


 レオンはただただ、驚愕から抜けきれずに、呆然とその美しいひとがしゃくりあげるのを聞いていた。


「あのような中で、お兄様も、義姉あね上さまも、あなた様をお守りすべく、最後の力を尽くしてくださっていたのですね……! まことに、まことに……ようございましたわ……!」

 あとはしばらく、ただ彼女の号泣する声だけが、豪奢なその部屋に響き続けた。

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