第6話 ふたつの苦悩


「クルトさん、ありがとうございます」


 黒馬すがたのレオンが川べりに水を飲みに下りていった少しの時間に、突然、ニーナにそう言われて、クルトはきょとんとした。


「え? なに? ニーナさん……」


 それは、レオンが単身、土竜国の王宮を訪れてから、数日が過ぎた頃のことだった。

 ニーナはちょっと困ったような笑顔を浮かべて、木陰から下方に見える黒馬の姿をそっと見やるようにした。


「いえ……ごめんなさい。本当に、あなたが居てくれて良かったと思ってしまったの。本当に、ありがとう……」

「…………」


 クルトもつられて、川べりでのんびり川面かわもに口をつけているレオン――いや、今はただの馬にしか見えないのだが――を、ちょっと見やった。


(そうなんだよなあ……)


 実はクルトにも、ニーナの言葉の意味はある程度わかるのだった。

 ここのところ、あの無口な男がさらに無口になっているのだ。


 彼が無言のうちにその心の中で考えていることは、なんとなく分かるような気はする。

 あの夜、土竜国王バルトローメウスと、王太子テオフィルス、そして宰相ハンネマンから聞かされた話について、彼は恐らく、ずっと考えているのに違いなかった。

 しかし彼は、だからといってそれをニーナに相談するといったようなことは一切しない。


 彼がもしニーナに向かって何かを言うのだとしたら、それは彼の中でそれ相応に考え、ある程度の整理がついて、結論が出てからのことだろう。それまで彼は、ひたすら一人で思案し続けるたぐいの男なのだ。

 それがニーナにはちょっと物足りず、また寂しいと思ってしまう原因でもあるのだろう。


「大丈夫? ニーナさん……」

 休憩中ということで、荷物の中から干し肉を取り出してまたもぐもぐやっていたクルトは、口を動かすのをやめてそっと傍らに座っている美しいひとを見上げた。

「ええ。……もう、分かっていることなのですけれど。彼がああいう人だということは……ね?」

 ニーナは困ったような笑顔を浮かべたまま、膝の上に目線をおとした。

「今までは、彼が話してくれるまで、こうやって一人で待っていることが多かったものですから。もう、わたくしも随分と慣れていたのですけれど……。でも今回は、あなたがいてくれて、本当に良かったと思ってしまって」

 訥々と話すニーナの瞳は、少し寂しげに揺れていた。

「…………」


(バカレオン。ニーナさんに心配かけんなよな――)


 レオンが考えあぐねていることの想像はつく。

 バルトローメウスたちは、彼にあの夜「風竜国の現体制を倒し、自らが王になることを検討してほしい」と言ったのだ。

 それは現国王である、彼の叔父ゲルハルトの王制を覆して、本来の血筋である彼自身がかの国の王として立つことを意味している。

 土竜の国は、彼にその意思があるなら、すでに水面下で活動を開始している風竜国の反政府分子とも、伝手つてを頼ってその間を取り持つ用意があるとさえ言ってくれているのだった。

 それは恐らく、あのファルコが介在してのことだろうと思われた。

 かの男は、この土竜のみでなく、あちら風竜の国にも結構な「取引き相手」を持っているらしいのだ。


(どうすんのかな……レオン)


 クルトも、先日、二人から昔の話を聞かされて、もともとレオンが故国の王座に興味がなかったことは知っている。これまでは彼もそう思い切って、ニーナとともにこの放浪の生活を選び、二人にかけられた呪いを解くため、神出鬼没の女、ミカエラを追う事に専念していたはずだった。

 しかし二人は、いわばミカエラの本拠地とでもいうべき風竜国には、これまであまり入らないようにしてきたのだという。まあそれも当然だった。あの魔女が通常通り、思い切り強大な魔法をふるえるような場所に、おいそれと入り込めるわけがない。

 けれども、ここへ来て、状況は変わってしまったのだ。


 レオン自身は権力に興味がないのだとしても、周囲の人々、とりわけ故国の、本来であれば彼の臣民だったはずの人々はそうは思ってくれないということだ。

 風竜国の民たちがいまの王制に不満がないのならそれでもよかったのだろうけれど、かの国の実態はレオンが思っていた以上に厳しいものであるらしい。

 彼自身が王になる、ならないはともかくとして、今あの宰相ムスタファによって牛耳られている王宮と、彼ら一派によって虐げられる臣民らの苦境を看過することは、きっとレオンにとっても心を悩ませる大きな問題に違いなかった。


 もちろん、彼が出てゆくことで事態が好転する保証などどこにもない。

 むしろ、かつてレオンが危惧したように、かえって内乱のために庶民の生活が脅かされ、要らぬ奇禍を招くだけのことかもしれない。

 だからきっと、レオンは思い悩んでいるのだ。

 ニーナにさえ、その心のうちを語らないままに。


「でも……どうするの? ニーナさん」


 クルトは思わず、ニーナにそう訊ねていた。


「もし、レオンが風竜国フリュスターンに戻るとか言い出したら、ニーナさんもついて行くの……?」

「そうですね……。どちらがいいのか、わたくしもまだ決めかねているのです」

 ニーナは困ったような笑顔を浮かべたまま、クルトを見やり、それからまた黒馬の姿に視線を戻した。


「夜、竜の姿となったわたくしは、きっと彼の力になれることでしょう。もしもまた、彼が大きな怪我でもしたり、命に危険が迫った時には、癒しの力を使うことも」

 ぽつりぽつりと考えながら、ニーナは言った。

「けれど、かの国は風竜の眷属となったミカエラの国でもあります。彼女の力は、かの国では恐るべきものになる。まして彼女は、わたくしが彼の傍にいることを好みません。わたくしがいることで、かえって彼女に余計な刺激を与えてしまうことになるのではないかと……そのことも心配で」

「ん〜……。そうだよね……」


 クルトみたいな子供には、ミカエラがあそこまでこのニーナを憎んだり、腹を立てたりすることの本当の理由はよくわからない。

 しかし、先日、直接会ったときに感じたあの感覚は、忘れようったって忘れられないほどの恐ろしい印象をクルトに残した。

 あの女は、ニーナがレオンの傍にいることを好まない。

 それどころか、もはや怨念と言ってもいいほどの思いで、この人のことを心の底から憎みきっている。


 今だって、昼と夜、異なる姿になってしまう二人だからこそ、いやいやながらも二人が共に居ることをある程度してくれているのだろうし、他国で彼女が風竜の魔法を使うと、どうもその地の竜たちから疎まれては退けられるようなので、手が出しにくかったのだろうと思う。

 けれど、もしニーナが風竜の国に入ったら、それこそ話は根底から違ってくるだろう。

 あの女は「これ幸い」とばかり、存分にふるえるようになった魔力でもって、大喜びでニーナを殺しにくるのではないだろうか。竜の姿のときならまだいいが、昼間、人の姿でいるところを狙われたら、ニーナはひとたまりもないはずだった。


 レオンはきっと、そのことも恐れている。

 自分の意思を通すことで、姫殿下の身に危険が及ぶなど、決してあってはならないと思っているのに違いない。

 だから、もしも彼が風竜の国に戻ることになるのなら、レオンはニーナと別れて行動せざるを得なくなるのかも知れなかった。

 しかし。


(やだよ……! そんなの)


 想像しただけでも胸の痛むような思いがして、クルトはぎゅっと拳を握った。

 この二人は、離れていてはいけないと思う。

 これは自分の勝手な思いかもしれないけれど、二人には一緒にいてほしい。

 気のせいかもしれないけれど、この二人が離れてしまったら、何かとても良くない事が起こってしまいそうな気がして仕方がないのだ。


「ね……ニーナさん」

「はい?」

 心の悩みは深いだろうに、それでもこの美しい人は優しい笑顔を崩さない。

 クルトはそれに励まされたような気になって、これまで気になっていた、とあることを訊いてみることにした。


「あ……のさ。この間はさ、ニーナさん、アレクシスの話をしてくれたけど。あいつの声が聞こえるってことは、もしかして竜のかっこうの時、ニーナさんにはミカエラの声も聞こえてるんじゃないの……?」

「え? ……ええ。そうですね……」

 クルトの言葉を受けて、ニーナは少し戸惑うように視線を揺らした。 

「……はい。聞こえていることもあります。彼女がそう望んでのことではないので、やっぱり、すべてではありませんけれど――」

「ふ〜ん……」

 クルトは「やっぱり」と思いながら、さらに質問してみた。


「ねえ、ニーナさん。どうしてあんなに、あの女はニーナさんのことにしてんの? やっぱり、アレクシスみたいに、むかし、何かあったからなの? そりゃ、レオンのことが好きだからってのは分かるんだけど、ちょっとなんか、あんまりむちゃくちゃすぎるしさ――」

「いいえ」

 と、ニーナにしては珍しく、きっぱりとクルトの言葉は遮られた。

 驚いてじっと見返したクルトの眼を見て、ニーナははっとしたようだったが、すぐに悲しげに微笑んで、少し頭を下げた。


「申し訳ありません、クルトさん……。アレクシスのときにも、相当なものだったとは思うのですけれど。ミカエラのことに関しては、もっと、ずっと……いいえ、ともかく、やっぱりあなたにお話できるようなことではないのです」

「あ、……う……そ、そうなんだ……」

 クルトは何となく、その言葉に大いに不穏なものを感じ取って言葉を詰まらせた。


 実はアレクシスの過去の話のときにも、ニーナは「とても、今のあなたにお話できるようなことではないので」と、話のいくつかをぼやかしたり、割愛したりしたようだった。

 ミカエラの話にはそれ以上のことを含むというのなら、それはもう、推して知るべしということだろう。


 ニーナは済まなそうな顔のまま、また眼下の馬の姿へ目をやって、ひとつ溜め息をつき、ぽつりと言った。


「あなたばかりではなく……レオンにも、ですけれどね――」


 クルトはびっくりして、ニーナの顔をまじまじと見つめてしまった。


「えっ。もしかして、レオンにも話してないの……?」


 ニーナは軽く頷いて、やっぱり悲しそうな笑顔のまま、黒馬の姿をじっと見ていた。


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