第3話 決意
王妃ブリュンヒルデの部屋に二人きりで残されて、レオンは呆気にとられつつ、まだひどく慌てた様子のアルベルティーナ姫をそっと見やった。
(いったい、なんだ……?)
姫はしばらく困ったように、王妃殿下の消えた扉とレオンとを見比べるようにしていたが、やがて諦めたように吐息をついた。
「あ……の、ごめんなさい。どうぞ、座ってください」
「いえ。自分はこのままで」
姫殿下に側のソファを勧められ、いつものようにお断りする。
しかし、姫は今回は諦めなかった。
「いえ! ……わたくしが、落ち着かないのです。とても大事な話なの。……どうか、お願いです。レオンハルト殿下」
「…………」
先ほどの王妃様に続き、姫からもそのように呼びかけられて、レオンは困惑する。
彼らがこのように自分を呼ぶとき、それは大抵、ろくでもない話をせねばならない場面であることが多すぎるのだ。つまり、王家の内情に直接関わるような内密の話を、ということなのだが。
嫌な予感に苛まれつつ、姫に何度も懇願されて、レオンは遂に根負けし、ソファの隅に静かに腰をおろした。
◇
姫の話は、ごく簡潔だった。
しかし、それでも十分、レオンを驚かせるものだった。
もちろんレオンも、あの火竜国がこちらに攻め入ってきた顛末については知っている。アルベルティーナ付きの近衛隊士官であるレオンには、戦地に出てゆくことは許されないことだったけれども、そのあっけないほどの敗北に、忸怩たる思いがあったのも事実だった。
しかしその裏で、かの王太子がこの姫をそこまで執拗に求めて来ていたとは知らなかった。そしてまた、彼があのミカエラ同様、どうやら「竜の眷属」となったらしいということもである。
(アレクシスめ……)
あの雷竜国での顛末で、たったあれだけの短時間のうちに、あの男はそこまでこの姫に懸想し申し上げてしまったというのだろうか。
いや勿論、姫はこのご容姿だ。それも無理からぬ話ではあるのかもしれぬ。まして相手は、女の人格になどさしたる重きを置くことをしない、あの火竜国の王太子だ。単に外見だけのことで女を手に入れたいと欲するとしても、それはかの国の男にとってはごく当たり前のことなのかもしれないが。
(いや、しかし……)
それは、仮にも一国の王女を求める理由としてはいかにも下世話に過ぎるだろう。いかに文化と価値観に相違があるのだとは言っても、見た目だけのことならば、そちらの国にもいくらでも、美姫と呼ばれる
(……むしろ……)
実はレオンは、アレクシスの姫殿下に対する渇望は、そんな下世話な興味本位のものでも、またさらには愛だの恋だのといった甘っちょろい何かですらもないのでは、という気がしている。
説明するのは難しいが、あれはむしろ、もっとずっとたちの悪い、恐るべき執着のように思えるのだ。
それに、これは直接剣を合わせてみた立場の人間としてレオンが感じたことだったのだが、あの男はそんな風に、下卑た感覚だけで女に執着する
もちろん、残忍にして酷薄、恩情のかけらもない男には違いない。
女のことにしても、ただ欲望を満たすためだけに日常的に抱いては捨てたり殺したりを繰り返しているだろうことも、容易に想像はつく。
だが、恐らく、それとこの姫への執着とは異なるものだ。
彼の心のその奥の奥、ひどい泥濘に侵されて隠された沼の底に、あの王太子はひどい渇望を抱えている――レオンには、どうもそんな気がしてならないのだった。
だからこそ、あの男がこの姫のことを、ちょっとやそっとのことでは諦めないだろうという感覚をどうしても拭えない。
恐らく、問題はそこにこそあるのだった。
しかし、そうは言ってもああまで不健全に歪みきった人間の内面など、まだこんな若僧のレオンに理解の及ぶものではなかった。それに、ここであれこれ考えてみたところで、奴の内面の深遠のことなど、詳しくわかろうはずもないことだった。
「それで……姫殿下」
一連の話を聞き終えたレオンは、黙り込んだアルベルティーナ姫を前に、躊躇いがちに口を開いた。
「今後、もし――」
だが、言いかけてレオンは口を噤んだ。
そんなことを訊いて、どうなると言うのか。
この体に流れる血がどのようなものであれ、今はこの国の一士官に過ぎない自分が、このような国際問題に口を差し挟めるわけもない。ならば、この姫がその土壇場に臨むことになった時、どうしようとお考えなのかと訊ねたところで、なんの意味があろう。
どのようなお答えが返ってきたとしても、今の自分には、何が申し上げられるわけもないのにだ。
「……いえ。お忘れください」
両の拳を膝の上で握り締め、唇を引き結んで黙りこくったレオンを見つめて、アルベルティーナの瞳はわずかに、悲しげに揺れたようだった。
彼女が自分にどんな言葉を望むのか、それは分かっているような気もした。
しかしそれは、自分が、今のこの立場にいる自分が、とても口にできるようなことではなかった。
レオンはそう思い切ると、すっとそこから立ち上がった。そしていつもと同様、姫に向かって礼をした。
「お話がそれだけなのでしたら、自分はこれで」
とはいえ、今の自分は彼女の警護についているわけなので、部屋を出て他の士官らと共に姫が出てこられるのをお待ちする、というだけの意味である。
が、扉へ向かおうとしたレオンを、姫殿下は呼び止めた。
「レオンハルト殿下。……いえ、レオン」
「は」
即座に振り向き、直立不動の姿勢をとる。そちらの名前で呼ばれた以上、今の自分には彼女の臣下、近衛の護衛兵以上の意味はない。
「最後にどうなるかは……まだ、わたくしにも分かりません。……ですが」
姫は立ち上がり、淡い新緑の色をしたドレスの裾をゆらしながら、こちらに滑るように近づいてきた。
その碧い瞳に、悲しみとともに大いなる決意の色を見て、レオンはぎゅっと鳩尾のあたりが締め付けられるような思いがした。
「どうしても、そうせねばならないならば……この王国の姫として、わたくしは自分の務めを果たします」
姫はまっすぐにレオンを見ていた。その背筋はきりりと伸ばされ、その姿も声も、決して迷う人のそれではなかった。
それでも、彼女の瞳の中にそれを覆って余りある悲しみの色を見て、レオンは思わず目を伏せた。
(姫殿下――)
手を伸ばせば、彼女に触れることもできるほどの距離だった。
しかし。
……今の自分に、いったい何ができるだろう。
あの日、「春の宴」のあの宵に、腕を回したその細い腰の感触を思い出しそうになり、レオンは思わず眉間に皺を立てた。
それは、ひどく不敬な妄想だと思った。
今、あの時、姫にしたようにして、
彼女を抱きしめ、どこかに攫い奉ることが許されるなら。
いやもしも、今の自分が、
本来どおり、あの風竜国の王座にいる男だったら――。
(……いや。やめろ。)
そんな風に思うのも今更だとは思いながら、レオンもただ、姫のその宣言を黙って受け取るほかはない。
彼女があの男のものになるところを、ただ黙って見送るしかできないのだ――。
ざわつくレオンの心中の波は、
そんなことには気づかないで、姫殿下は言葉を続けている。
「……でも、レオン。最後まで、約束は守ってくださいますね……?」
「……は?」
ふと目を上げると、アルベルティーナ姫殿下が、悲しげでありながらもえもいわれぬ美しい笑顔を浮かべて、こちらをじっと見つめていた。
「最後の最後まで、どうかわたくしの傍に。……そう、お約束しましたわね」
「はい……」
姫は、レオンの続く「ですが」を遮るように言った。
「いいですね、レオン。今後、どのようなことがあっても、お約束は、お約束よ――」
「……は」
レオンはもう何も言わず、ただ姫殿下に低く頭を下げただけだった。
ただ、その時、二人はやっぱり知らなかった。
隣室にあって姫の母君が、二人のひそやかな語らいを聞きながら、そのお心にとある大きな決意をなさっていたという、そのことに。
◆◆◆
「なんですって。お母様が……?」
翌朝。
アルベルティーナは起きぬけの寝室に駆け込んできた侍女の少女による知らせに、しばし呆然とするしかなかった。
それは、彼女の母にして水竜国の王妃ブリュンヒルデが、彼女の召使いら数名と魔法官五名、それに警護の兵士ら十数名と共に、夜のうちに密かに城を抜け出したという、驚くべき知らせだった。
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