第2話 祈願の儀式


「……やはり、こういうことになったか」


 普通の神経を持つ王であれば、その厚顔無恥な書簡に接し、父親として、国王として、度を失い、憤激したとしてもなんらおかしくはない事態だった。

 しかし、ミロスラフ王はそれでも泰然と、静かにその書簡を眺めていただけだった。


 それでも、執務室の自分の椅子に座ったまま、王のその眉根は顰められ、やや物思う人のお顔になり、しばし口許に手をあててじっとしておられた。

 例によって、部屋には王太子たる長兄ディートリヒ、王妃ブリュンヒルデとアルベルティーナが呼ばれている。小さな王子たちは、今回は呼ばれていなかった。


「陛下。ご提案があるのですが、よろしゅうございましょうか」


 口火を切ったのは、ソファに座ったブリュンヒルデだった。彼女の声は深く優しかったけれども、その底に、とある決意を秘めたものであることは、娘であるアルベルティーナにはすぐに知れた。

「お母様……?」

 その隣に座り、不安に思って見上げると、母はそっと肩を抱いてくれて、父に向かってこう言った。


「どうか、万が一のことを考えて、わが国とこの子、ティーナのため、わたくしに『水竜の祈願』を行なうことをお許しくださいませ」

「なに……」


 ミロスラフ王がはっと顔を上げ、わが妻の顔をまじまじと見返した。それは、このいつも落ち着いた父にしては相当に驚いた表情だった。


(『水竜の祈願』……?)


 聞き慣れないその言葉を不審に思って、アルベルティーナは父の傍に立っている兄の顔を窺ったが、兄も自分と同様の顔をして彼女を見返し、かぶりを振っただけだった。

 父は執務机の向こうで顔を引き締め、非常な懸念を滲ませたような声で言った。


「何を申すのだ、ブリュンヒルデ。雷竜王あにうえ様からの預かりものでもあるそなたに、まさかそのような真似をさせられるわけがあるまい。かような愚かなこと、軽々けいけいに申すものでは――」

「いいえ、陛下」


 穏やかながらも、ブリュンヒルデはぴしりと王の言葉を遮った。

 それは畏れ多くも一国の王である夫に対して非常な不敬にあたることではあったけれども、こと、この国王夫妻に関しては、こうしたことは日常的に、比較的ふつうに行なわれているのである。

 ブリュンヒルデは語気を変えないまま言い募った。


「先日の、ティルデ様付きの侍女の一件も、わたくし、とても気になっているのです。聞けばあの者は、レオンハルト殿下に対して非常な執着を持ったままにこの地を去ったとのお話でした。わたくしには、かの者がこのまま、ただ黙って引き下がるとも思われないのです」

「うむ、……それは確かに」


 ミロスラフ王は、ちらりとアルベルティーナを見てから、やや眉を顰めた。


「先般の『蛇の港』侵攻における敵の動きにも、奇妙なところが多いようだ。もしかすると、彼女はすでにあちらにくみした、ということも考えられるとは思っているよ」

「では、父上。やはり……?」

 緊張した声でそう言ったのは、長兄ディートリヒである。

「うむ。そうでないことを祈っていたが、こと、ここに至ってはそうと考えるよりほかはないだろうね――」

「お父様、それは……?」

 父の焦眉の顔を見つめながら、アルベルティーナの胸にはどんどん黒い雲が広がり始めていた。


 そのことは、アルベルティーナもずっと考えていた。

 あの「蛇の港」を擁する「蛇の尾」地域に、火竜の三万余の軍勢は本当に、忽然と現れたらしい。

 その現れようは、どう見ても強力な魔力の後押しがあってのことのように思われた。

 そして、人やものを一瞬にして違う場所へと移動させる強力な魔法を有する属性といえば――。


(彼女が、あちらに……?)


 アルベルティーナの背中に、冷たいものが駆け抜けた。そうして、膝の上で握っている手の中に、じっとりと嫌な汗をかくのを覚えた。


 あのアレクシスと、ミカエラが手を組む。

 それも、ただの人としてではなく、稀有の竜人、「竜の眷属」の立場になってだ。

 そんなことが現実になったとしたら、今後、この国はいったいどんな悪夢に叩き込まれることになるものか――。


 部屋にいる一同は、しばし口を閉ざして沈黙していた。

 やがて、ブリュンヒルデが決然と顔を上げ、もはや厳かといってもいいような声音で静かに言った。


「かような仕儀になりました以上は、是非もございません。この国を護るため、そしてもしも万が一、この子がそれでもかの王太子のもとへ行かねばならない事態になったときのため……最後の最後、この子がその矜持を守りきれなくなった暁に、その身を守るよすがを遺しておいてやりたいのです」


 母はふくよかな胸をそらすように背筋を伸ばし、なおかつ堂々としていた。そして、そう言いながらも、アルベルティーナの肩を抱く手は力強く、温かかった。


「一国の王妃として、また愛する娘の母として、こればかりは譲れないことでございますわ」


 母には、何かを慌てる様子も、恐れる様子もいっさいなかった。どうやら母は、ここしばらくの騒動の中、自分の中でこのことをずっと考え続けてきたということのようだった。


「しかし、ヒルデ――」

 さすがの父が、二の句も継げなくなっているのを見て、アルベルティーナはますます不安になった。

「なんなのです……? お父様、お母様。その『水竜の祈願』というのは、いったい……」

 が、父は片手を上げて、娘の言葉をやんわりと遮った。

「いや、いいのだよ、アルベルティーナ。ヒルデもだ。そのような心配は無用だよ」

「けれど――」

 言いかけたブリュンヒルデに、ミロスラフは再び手をかざしてその先を制した。


「たしかに、将兵千二百名の命は軽くはない。しかし、たとえアルベルティーナを引き渡したとして、あちらの王太子が素直に彼らと、奪った領土を返還などしてくるだろうか。……わたしには、とてもそうは思えないのだよ」

「…………」


 それを聞いて、部屋にいる一同は沈黙した。

 確かに、それはそうだった。

 そのアレクシスという非道の王太子が、約束を守るという保証などどこにもないのだ。ここで易々とアルベルティーナを引き渡しなどしてしまって、「これは恐れ入った、有難い」とばかりに口を拭われたらどうなるか。

 そのまま何事もなかったかのようにして「蛇の尾」に居座られたとしても、今の魔力の状態では、こちらには攻め入ってそれらを取り返すことも叶わないのだ。


「そういうわけだ。だから、今回のこともこちらはお断りするほかはない。捕虜となっている将兵らには、まことにつらい道を歩ませてしまうことにはなるが――」

 ミロスラフ王は、優しい瞳に苦渋の色を浮かべて、それを隠すようにさりげなく窓外へと顔を向けた。


(お父様……)


 アルベルティーナには、父の思いが痛いように分かった。

 父は、まことに恩愛に溢れる賢王なのだ。たとえわずかの将兵の命ですら、彼は常に慈しみ、愛しておられる。臣民はそのまま、彼の子に等しい。将兵らはその一般の臣民を守るための存在だとはいえ、それでも彼にとっては愛すべき子らには違いないのだ。

 父は、王としてその命のすべてを肩に負っている。

 そしてその重さを知り抜いている人なのだ。

 だから、こちらからは決して無用の戦争などは仕掛けないし、無駄な命の損耗も決してしない。

 そのひとつひとつの命にも、父があり、母があり、家族や子供や恋人があるのだということを知悉ちしつしておられるからだ。


 ともかくも、今回の話はそこまでのことで、アルベルティーナとブリュンヒルデは父の執務室を辞した。



◆◆◆



 暗澹たる思いでその部屋を出たところに、いつものアルベルティーナの護衛に立つ近衛の士官らが近づいてきた。

 今、彼女の護衛兵は二名から四名に増やされている。

 もちろん、先日のミカエラの一件の後、まだ彼女が大いにアルベルティーナ王女に執着していることが明らかだったからである。あれ以来、ミカエラの消息は不明だが、いつまたあの女が王女を狙ってここに現れるか、知れたものではなかった。


 そのため、アルベルティーナが彼女付きの近衛兵であるレオンと顔を合わせる頻度も自然と上がり、今は三、四日に一度、彼と会えるようになっている。

 アルベルティーナも「こんな時に不謹慎」とは思ったけれども、彼と会えることそのものは、心密かにも素直に嬉しかった。


 今日は幸い、その四名の中に、あのレオンの精悍な顔もある。

 アルベルティーナは、いけないとは思いつつも、彼の顔を見てほっとする自分を感じた。母が隣で、ちょっと意味ありげな視線でそんな自分を見つめているのには気づいていたけれども、わざわざ取り繕うことはしなかった。

 母にはどうせ、何も隠せはしないのだ。そのあたりはもう諦めている。


「……姫殿下。いかがなさいましたか」

 静かな声でそう問われて、それがレオンの口から出たものだと気づき、アルベルティーナは少し慌てた。

「えっ? い、いえ……なんでもないの」


 彼女はそそくさと、彼に対してはいつもの微笑みを浮かべて見せ、表情を取り繕った。

 あんな話を聞かされた直後のことで、きっと自分はひどい顔色だったことだろう。レオンにはそれを、すぐにも見破られてしまったらしい。

 しかしこのことは、今はまだミロスラフの家族である自分たちと、宰相ら高官のみが知る事実だった。いくらその正体が風竜国の王太子殿下であろうとも、今は一介の士官に過ぎないレオンに対して、隣国からの無茶な輿入れの要請の話などできようはずもなかったのである。


 レオンはそんなアルベルティーナの笑顔をちらっと見て、ほんの僅か眉根を寄せたように見えたが、すぐにいつものように視線を落とし、表情を消して、普段どおりに彼女の警護についただけだった。

 カールだけのときとは違い、他の士官らの目もあることで、とても以前のようには気軽に彼に話しかけるわけにもいかない。せっかく顔を合わせる頻度は上がっても、これでは欲求不満を自ら高めているのと同じようなものだった。

 ブリュンヒルデは苦笑を抑えるような顔を飾り扇で隠しつつ、しばらく自分の侍女たちなどとともにアルベルティーナと一緒に歩いて行ったが、やがて自分の部屋の側までくると、さも当然のような顔でこう言った。


「そういえば、先日のことでちょっとお話があるのだけど。ティーナ、レオンをつれてこちらへ入ってくれないかしら」

「は? え、お母様……?」

 しかし母は、きょとんとしているアルベルティーナの手を引かんばかりにして自分の居室へ入れてしまうと、レオンのこともほとんど強引に部屋に入れ、あとの士官は扉の外へ締め出してしまったのだった。


 母はそのまま侍女や召使いらを下がらせると、自分も奥の部屋へ引っ込む様子である。

 アルベルティーナは慌てた。

「あ、あのっ、お母様、これは――」

 が、母はその言葉を遮るように、飾り扇をぱちんと閉じた。それはさも、「せっかくの計らいを無にしないでね」と言わんばかりだった。


「お父様には、すでにお許しを頂いているわ。このたびの件、どうぞ『レオンハルト殿下』にも、あなたの口からお知らせしておおきなさいな」

「えっ? あの、お母様……」


 突然、なにを言い出すのか。

 いや、それよりも。


(いきなり、二人きりにされても困るわよ……!)


 アルベルティーナがまだ驚いておたおたしているうちに、母は嫣然と素敵な微笑みを浮かべたまま、さらさらとドレスの裾を引いて隣の部屋へと姿を消した。


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