第5話 鼓動

「姫殿下! 湖の中央に……!」


 数名で「碧き水源」への探索にあたらせていた士官らが、慌てて野営地へ戻ってきたのは、それからほんの数刻後のことだった。

 周囲はすっかり、夜の闇に落ち込んでいる。

 湖から離れると、あの分厚かったもやなどまるで嘘のように消えてしまい、そこはただ、普通の夜の山中に過ぎなかった。


 アルベルティーナはその時、連れてきている召し使いや侍女の少女とともに、天幕の中で夕餉をとり、食後のお茶をしているところだった。とは言っても、彼女の顔色は最前とかわらずにずっと青白く、食欲などほとんど湧かないといった様子だった。


「姫殿下のお気持ちはわかるんだけどさ。心配だよなあ……」


 天幕の護衛としてその入り口前に立っていたカールは、彼と交代するためにそこにやってきたレオンにそう告げて、言葉どおりの顔のまま、自分も食事をするために他の兵らの天幕へ戻って行った。


 知らせを持ってその兵が駆け込んできたのは、その時だった。

 下馬してすぐに転がるようにして姫殿下の天幕に駆け込んだ将校は、先ほどの湖の中央に、どうやらランプのものらしい明かりを見たと報告した。厚い靄のためにはっきりとは分からないが、どうやら小舟に乗った人々が、しずかに湖の中央部へと漕ぎ出したものらしい。


「参ります! すぐに支度を!」

 アルベルティーナはすぐに立ち上がると、自分の馬に飛び乗った。勿論、レオンもそれに続く。そのほか、野営地に残る者らの警護兵を数名残して、彼女の近衛兵が続々とあとに続いた。

 森の木々のあちこちには、目印になる赤や黄色の細布が縛り付けてある。それを頼りに、伝令にもどった将校が、松明を手に、姫らを先導して細い小道を進んでいった。


(……いやに、静かだ)


 レオンは自分の馬を歩ませながら、不吉な予感にじりじりと下腹が焼け付くような不快感を覚えていた。

 いや、もちろん、夜の森は静かなものだ。

 しかしそれでも、森の中にはそこに棲む鳥や虫、小動物など、夜に動き回る生き物たちの気配というのか、息吹きというのか、そうしたものを感じるものなのである。

 もっと言うなら、木々に関しては夜のほうが、むしろ昼間よりもずっと肌に添うようにしてその命の躍動を伝えてくるように思われる。


 しかし、今夜はそれがない。

 いや、風さえもがそよとも吹かず、森は不気味な沈黙の底に沈んでいるようだった。


 すべての生き物が、これから起こる何かを予感したかのように、じっと息を潜めてことの成り行きを見守っている。

 レオンには、そんな気がしてならなかった。

 そして嫌が上にも首の後ろにぞくぞくと、肌の粟立つ感覚をおぼえて眉を顰める。


(……このまま、お行かせしてしまってもいいのか……?)


 少し前をゆく、白馬に乗った細身の王女の背中をちらりと見やる。

 いや、お止めしたところで、決して彼女が止まるはずもないのだったが。ことは、彼女の母君のお命に関わることだ。彼女はそれを止めるため、王都から十日以上をかけて、決して楽ではないこんな田舎への道中をずっと踏破してきたのだから。



 そうこうするうち、一行は先ほどの湖の畔に出た。

 先刻、湖を見下ろした小高い地点ではなくて、ここは周囲をごろごろとした岩場に囲まれた、少しだけ砂利の広がる、湖の浅瀬だった。そこから少し、湖の中心に向けて岸が突き出し、ちょうど小さな半島のような形になっている。

 その半島の先までいったあたりに、探索に出ていたらしい他の兵らが三名ばかり立っていた。彼らは一様に、姫の姿を見て敬礼をし、道をあける。

 三々五々、到着した皆も下馬し、姫を先頭にそちらに向かって歩いた。


「あちらでございます、姫殿下」


 彼が指差す先を見れば、先ほど伝令の兵士が言ったとおり、靄にかすむ湖面の上に、ぼんやりとした光点が浮かんだようにして揺れている。周囲を覆う白い気体のために、それが近いのだか遠いのだか、一見しただけでは分からなかった。

 一同は息を殺して、じっとその湖面を見つめた。


「おかあ、さま――」


 小さな掠れた声が、すぐ前に立っている姫殿下の口から漏れた。


 その時だった。

 その僅かな声を合図にしたかのように、立ちこめていた靄が嘘のように空気の中に溶け、急に視界が明るくなった。

 天上にあがった月が、煌々と湖面を照らしている。木々に覆われた山の威容がすべて重みをもった影となって、背後の星空の下からぬっと突き上げていた。


 漣ひとつも立たない、まるで鏡面のように見える水面みなもの上に、遠く、ぽつりと浮かんだ影がある。兵らの言うとおりだった。それは、ちいさな舟だった。舳先へさきぐっと持ち上がって内側に反った形をした舟で、その先にランプを提げているのがこちらからでもよく分かった。

 舟にはフードつきの旅装のマントを纏った人影が五つ、ぼんやりと暗闇のなかに照らし出されている。一人は土地の者なのだろう、長い竿を手にして、舟を操るために乗り込んだ者らしかった。

 あとの四名のうち三名は、おそらく王宮から連れてこられた魔法官のようだった。それぞれ、手に持ったなにかに向かって、一心に韻律らしいものを低く唱え続けている。その声は湖面を滑って、じわりじわりとこちらの鼓膜にまで届くのだった。

 そして。


「お母様っ……!」


 今度ははっきりと、姫殿下がそう言った。

 その通りだった。

 その舟の、舳先に最も近い場所に、見覚えのある方が佇んでいた。フードを外して晒している、その高貴な横顔は、紛れもなく彼女の母、ブリュンヒルデのものに違いなかった。

 彼女はいま、両手を胸の前に組むようにして頭をたれ、一心に湖の中心に向かって、なにごとかを祈るような様子に見えた。


 アルベルティーナ姫は、制止しようとするほかの武官らを押しのけるようにして、そのままざぶざぶとみぎわから湖水へと足を踏み入れた。

「姫殿下……!」

 レオンは思わずそのあとを追い、彼女と共に水に足を入れた。しかし、お体に触れるのは憚られて、ただ後ろに立ち尽くす。


 と、不意に、遠い舟の上にいる方がこちらを見たようだった。


『アルベルティーナ……?』


 それは間違いなく、王妃ブリュンヒルデの声だった。

 しかしその声は不思議なほどに、自分たちの側から聞こえたように思った。まるで湖面の上からここまでが、三歩も離れていないかのようだった。

 王妃の声は、明らかに驚いているようだった。


『こんな所へ、あなたが来てしまうなんて。……危ないではありませんか、ティーナ。すぐに戻るのです。この湖から離れるのです……』


 母親らしい、心配しつつも温かで愛情深いその声は、確かに娘をなじっているのではなかった。ただただ彼女は、娘を心より案じておられるのだ。いや、それも当然だった。言ってみれば、そうだからこそ、かの御方は今、この場でこんな真似までなさっているのだから。


「お母様っ……! どうして、こんなことを! どうか、おやめください。そのような危ないこと……わたくしは望んでなどおりませんわ。戻ってください、お願いです……!」


 また一歩、湖に足を進めながら姫殿下がそう言ったが、王妃の声とは対照的に、彼女の声はみんな水面に吸い込まれるようにして、相手には届いていないように思われた。


「お父様にご相談もされずに……水竜神さまに、祈願の儀式をなさるだなんて……! お母様もお分かりのはず。これは、祈りびとの命に関わる儀式なのですよ? そんなことはおやめください。どうか、どうかお戻りを……!」


 さらに一歩、姫が足を進めて、レオンはやむなく、後ろから彼女の肩を掴んだ。

「姫殿下。それ以上は」

 そこですでに、水深は姫の膝のあたりにまで及んでいた。


 水面の上を滑ってくる、魔法官らの低い声は間断なく続いている。それは聞いた事のない韻律だったが、ただ聞いているだけでも、兵らの背筋を寒くさせるようだった。

 レオンの背後についてきていた養父アネルが、半ば口をあけたままのような顔で呆然と言った。

「召喚の、韻律だ。間違いない……」


(召喚……?)


 何をだ。

 彼らはいったい、ここで何を召喚しようとしている……?


(いや、そんなことは分かっている――)


 しかし、この場に臨んで、まだこのレオンですらも、まさか彼らが本当に今ここにを呼び出そうとしているとは信じられない思いだったのだ。


「いかん! 早くやめさせるんだ。彼らの注意をそらせ! 韻律を中断させれば、まだ間に合うやもしれん……!」

 アネルはそう叫ぶと、周囲にいる武官の誰かれにとりつくようにして言った。


「弓矢を持つ者! あの小舟に向かって、放つのだ。無論、威嚇だぞ。王妃さまには勿論のこと、人には決して当てぬように! 韻律を唱えている、あの魔法官どもさえ黙らせれば、『儀式』は止まる……!」

「は、お任せを」


 そう言われて、武官の数名、弓術にけた者らが進み出てきた。胸板の厚い、いずれ劣らぬ偉丈夫である。

 彼らは愛用の大弓を引き絞り、小舟の近くを狙うようにして次々に矢を射掛けた。

 ひゅかっと風を切る音がして、矢はまっすぐに小舟を目指したように見えた。が、次の瞬間、小舟の手前十五ヤルド(約十五メートル)ばかりのところで、まるで分厚い空気の壁にでも阻まれたかのようにしてぴたりと動きを止め、矢はばらばらと水面に落下してしまったのだった。


「な、……なんと……」


 矢を放った武官らはもちろん、アネルも絶句してその光景を眺めた。

 その後何度もやってみたが、結果は同じことだった。

 水竜国軍でも一、二を争うほどの強弓つよゆみの兵である武官らも、やがて諦めたように腕をおろし、重苦しく押し黙った。それは、アネルも含め、他の者らも同じだった。


「お母様っ……!」


 アルベルティーナが悲痛な声をあげ、また一歩、ずぶりと湖に進み入るのを、背後のレオンは必至にとどめた。


「姫殿下! どうか、おとどまりを……お願い致します。どうか!」


 これ以上水のなかに踏み込んでも、いずれその水面が彼女の顎に届くまでのこと。たとえ泳いであの小舟に近寄ったとしても、先ほどの矢を防いだなにがしかの魔法の結界が、彼女の行く手を阻むだけなのは目に見えている。


 と。

 不穏な音が、その場のみなの鼓膜を打った。



 ――どくん。



 ふわりと湖面に大きな輪が現れて、音もなく湖岸に向けて広がってゆく。



 どくん……どくん。



 それは、非常にゆっくりとした、深い、心の臓のそれのようにも聞こえる音だった。

 二、三度、その音はごくゆったりと繰り返され、湖面にいくつかの輪を描いた。


 そして。


 しゅるしゅると、王妃らの乗る小舟のたもとに、小さな渦が見え始めたのだった。


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