第7話 地下世界

 年が明けた。

 クルトは十一歳になった。

 五竜大陸においては大抵、暦が新しくなったその時に、皆が一斉に年をとる。



 今、クルトは雷竜の国、ドンナーシュラークの奥地、あの「稲妻の峡谷ブリッツ・シュルフト」にいる。

 春の訪れとともに、頬を撫でる風はどんどん柔らかく、早咲きの花の香りを含んだものになり、山や丘を彩る草木の梢が、日に日に若く明るい緑に包まれてゆく。

 自分を運んでゆく小型馬の鞍上あんじょうからそのさまを不思議な思いで眺めながら、クルトはひとつ、吐息をついた。


(とうとう、こんなとこまで来ちゃったな……)



 あれからニーナはいったん水竜の宮へと戻り、水竜神との顛末をその父ミロスラフ王に話した。王はすぐさま話を理解してくださり、ここ雷竜国への連絡をとってくださったのだ。すなわち、例の水盤による魔法の連絡方法を使ったのである。


『なんとまあ、アルベルティーナ! よう無事で――』


 水盤の水の向こうから、あのにぎやかな王、エドヴァルトが嬉しそうにこちらを見てそう言った。


『話はよう分かったわ、ミロちゃん。とはいえ、今はあの、アネルっちゅう風竜の魔法官もおらんこっちゃし、めんどくさい話やけども、その足でアルベルティーナ、こっちに来てもらうしかあらへんなあ――』

「はい。もちろんですわ、伯父さま。お手数をおかけいたしますが、諸々、どうかよろしくお願い致します」



 そのような訳で、ニーナはクルトとカールを連れ、雷竜国までの旅をすることになったのだ。

 そうは言っても、夜は竜の姿になれるニーナである。あの「水竜の結晶」のおかげもあって、ニーナは夜はまたあの大きな竜に変化へんげし、カールとクルトをその背にのせて夜空を飛びこえ、結構な早さで雷竜国へと到着することができたのだった。

 ニーナの背中の上からあの「蛇の溝シュランゲ・リレ」を見下ろして、クルトのみならずカールまでも、月の光を跳ね返しているその水面みなもをぽかんと口をあけて見つめていたものだった。

 とはいえやっぱり高所の苦手なカールは、クルトの前では必死に虚勢を張っていたものの、相当に気分がよろしくなさそうだった。


 雷竜宮で、ニーナたちはそこで初めて、あのアレクシスが火竜国の王座に就いたことを知った。さらに、かの美貌の文官ヴァイスが、あの若さにも関わらず、その片腕として宰相の座についたこともだ。

 あのアレクシスが、自分に逆らった臣下をひどく罰することもなく身辺に置きつづけるなどは、恐らく今までなら決してなかったことだろう。もしかすると、かの苛烈な性格の男の心にもなんらかの変化が生じたということなのかも知れなかった。

 その点については、雷竜王エドヴァルトも、ニーナやカールも、クルトと同意見のようだった。


 ニーナなどは本当に嬉しそうに、「きっと、クルトさんがあの時、思い切ってあの男におっしゃってくださったことが大いに作用したのだと思いますよ」と言って微笑んでくれたものだった。

 クルトはなんだか気恥ずかしく、背中がむずむずするようだったけれども、やっぱり嬉しい思いがふつふつと胸を満たすのを覚えたのだった。


 さてそこからは、さすがにエドヴァルト王本人がついてくるという訳にもいかず、あのヤーコブ翁がその年齢をおしてここまでついてきてくれている。いや勿論、あのでしゃばりたがりの陽気な王は「いや、ワシが行く、行きたいんやあ!」と、最後までだだをこねて老人を困らせていたのだったが。

 一行には、道中、皆を護衛するためということで、守備隊の一個小隊が随伴してきていた。




◆◆◆

 



「へ~。これがあの、『稲妻の峡谷』ってやつなのかあ……」


 見渡す限り、乾燥した砂の大地が広がっている。見える緑といったら、ところどころにもしゃもしゃと生えている乾燥地帯に順応した潅木や、肉厚の植物だけだ。

 そこに、いま見渡す限り、大地を誰かが巨大な手で裂いたかのようにして、深い裂け目が走っているのだった。

 崖のあちらからこちらまで、優に三百ヤルド(約三百メートル)はあるだろうか。橋を架けようにも、足場になる場所もない。上から覗いてみても、谷底を見ることもできないほどの深い深い、底知れない裂け目である。


(この底に、雷竜が眠ってんのか……)


 腰につけた縄を後ろからカールに持ってもらって、そろそろと崖の縁に寝そべり、下を覗いてみたクルトは、ちょっとぞっとしたものだった。

 いやもちろん、カールなどはその縁に立つのすら「遠慮するわ」と、ちょっと青い顔をしていたのだが。


 切り立つ崖の壁から砂埃を削りとり、巻き上げるようにして、びゅうびゅうと谷風が吹き荒れている。

 こんなところに過って落ちたりしたら、間違いなく一巻の終わりだった。



 やがて、かつてあのティルデ王妃をそこへ案内したのだという、土着の民である男が連れてこられて、ニーナに引き会わされた。

 男は頭に白い布をぐるぐるに巻き、皺だらけの顔だけでなく、手足も非常に浅黒かった。腕や足首にはぴかぴか光る飾り輪を幾重にもはめ、幅広の生成り地の下穿きと上着の上に、独特の紋様の織り込まれた袖なしの上着を羽織り、同様の帯を締めている。

 紋様はどうやら、その色や形からして、雷と竜をかたどったものであるらしい。

 クルトは物珍しさに、ついその男の風体をじろじろと見つめてしまった。


 雷竜国には、地方によってさまざまな文化がそのまま残されているところが多い。

 それは、国王エドヴァルトの方針でもあるのだろう。地方により、言葉のまったく通じないような場所もいまだに存在するようだし、その文化、風俗、宗教や慣習なども多種多様。

 それらをすんなりと飲み込んで、涼しい顔でひとつの国として立っている、それが雷竜国ドンナーシュラークという国なのだった。

 各地には、竜をはじめ、さまざまな自然物を神とあがめる信仰も色濃く残されているままである。そして、この案内人の男にとっての「神」は、まさにあの「雷竜神」そのものであるということらしかった。


 エドヴァルトは、当時、結果的には彼の妻を死地へと導いたこの男に、特に何の咎も認めず、罪を問うなどはしなかったのであるらしい。

 平民であるクルトからしてみればそれはごく当たり前のことだったけれども、多分に身勝手な者の多い王侯貴族の中にあって、これは十分に稀有な話でもあるらしかった。

 男は十分にそれを認識しているらしく、片言に聞こえる「共通語」で幾度もヤーコブ翁に感謝の言葉を述べ、地面に平伏してそこに頭をこすりつけるようにしていた。



「それでは、爺いはこちらでお待ち申し上げておりまするでな」

 以前にそうしたようにして、ヤーコブ翁はその裂け目から少し離れた場所に野営用の天幕を張り、守備隊の兵らと共にそこで待つとのことだった。

「どうぞ、十分にお気をつけくだされませ、アルベルティーナ姫殿下……」

 優しい目をした老人がそう言って礼をするのに、ニーナは涼やかに笑って頷くと、クルトとカールを伴って、道案内の男の後をついて歩いて行った。

 

 断崖の上、つまり地面のところから見ているだけでは分からないことだったが、男は崖から少し離れた場所にある大きな岩の突き出した場所までやってくると、無造作にその大岩の足許にひょいと入り込んだ。

 覗いてみると、そこは岩の間にできた狭い入り口になっていて、そこからそのまま、次第に地下へとおりてゆけるような細い道になっているのだった。

 入り口と通路のあちらこちらには、派手な色とりどりの細い布を垂らした目印のようなものが括りつけられている。男の片言の説明によれば、それはここが禁足地、神域であることを示すとともに、道しるべにもなっているということだった。


 まず、案内の男が先に入り、次にニーナ、そしてクルトとカールがあとに続いて、四名は一列になり、そろそろとその穴の底へとおりていった。

 男とカールだけが松明を手にしている。


 岩に囲まれた細い道はぐねぐねとまがりくねり、時々、四つんばいにならなくてはならないほどに天井が低くなったり、地下水らしい音がごうごうと足許から聞こえる真っ暗な崖のようなところを、そっと横ばいに歩かねばならなかったりする、危険な場所がいくつもあった。

 おりてゆくに従って、地上はあれほど乾いた世界であるにも関わらず、岩肌はぬめぬめとして、ともすると足をすくわれそうになった。クルトは何度も足を滑らせて、そのたびに後ろから歩いてきているカールに襟首をひっつかまれ、どうにかこうにか立ち上がった。

 一度など、崖になった場所で滑り落ちそうになり、すんでのところでカールに腰に巻いた縄をつかんでもらって事なきを得た。


 どのぐらい、そんな真っ暗の洞穴を歩いただろうか。

 やがて皆は、進行方向にぼうっと明るく岩壁が光っている場所を見つけて、驚いた。地上からは明らかにだいぶ下った場所のはずなのに、そこからは何故か、月や星の発するような、青白く静かな光が漏れてくるようなのだった。

 その岩に囲まれた入り口には、あの道しるべの派手な布が、とりわけ念入りに飾りつけられていた。


 案内人の男はその手前まで来ると、静かに足を止めてそちらをそっと指差した。そうして、さも「自分の仕事はここまで」といった顔で、決してそれより先に進もうとはしなくなった。

 男は道中もほとんど口をきかず、あまり表情もなかったのだったが、ここへきてその顔に、はっきりと緊張したような、何かを畏怖するような様子が見て取れた。


 ニーナは彼の仕草の意図するところをすぐに察して、「ご案内、どうもありがとうございました」と丁寧に礼をいい、頭を下げた。男はそんなニーナを見て少し驚いた様子だったが、彼女よりもさらに深く、体の前で両腕を組み合わせるような、やや風変わりな形の礼をして、来た道を一人で戻って行った。

 「帰り道はどうするんだろう」とクルトは少し不安になったが、竜になれるニーナがそばにいるなら大丈夫ということなのかもしれないと思いなおし、改めて前を見た。


 ニーナは光を発しているその岩でできた入り口に、慎重な足取りで入っていった。


「うわ……」

 ニーナについてそこに足を踏み入れて、クルトは思わず声を上げていた。


 そこは、巨大な空間だった。

 岩壁ではなく、不思議に発光する透明な石の柱が何本もにょきにょき生えて、そこに壁を形成していた。石はどれも、薄桃色だったり薄紫色だったりして、なんだか夢のように美しかった。

 天井の高さは五十ヤルドほどはあるのだろうか。その周りを囲んでいる石柱も、巨木のような大きさだった。大きな城のひとつも入ってしまいそうなその空間は、地面もやっぱり、その青白く発光している石でできているようだった。

 カールが松明を持っているのだったが、べつにそれを使わずとも、周囲がちゃんと見えるほどには明るかった。


 ニーナはしばし、場の様子を黙って観察していたようだったが、やがて静かに足を踏み出し、その空間の真ん中あたりへと進みだした。

 クルトはカールと共に、ゆっくりと彼女の後をついて歩いていった。




 だだっぴろいその空間は、ひどく静かな世界だった。

 宝石かなにかのように、透明で巨大な石の柱に囲まれたそこは、心のしんと静まるような、静謐で荘厳な場所に思えた。

 クルトの目には、見れば見るほど、それが人の手でつくられた大広間や何かよりも、不思議と精緻で技巧を凝らした宮殿のような気がしてくるのだった。


 クルトは周囲をそっと見回しながらニーナについて歩いて行った。

 と、ニーナが目の前で足を止めた。

 その途端、彼女の体がまたあの光に包まれて、小さな一匹の竜に変わった。


(あ。日が、沈んだのか……)


 延々とこんな暗い地下の世界を歩いてきたために、クルトの時間の感覚はすっかりおかしくなっている。それでも彼女の姿がこうなったからには、外界では日が沈んで、夜がやってきているということのはずだった。

 小さな白い竜は舞い上がり、ぼんやりと神々しいようなその空間のなかを飛び回って、何かを探すような様子に見えた。

 と、とある空間の一点で竜は止まり、しばらくそこで、何ものかと語り合う様子に見えた。

 それは丁度、あの水竜神と話しをしていたときのような感じだった。


 と。

 次の瞬間、その場に赤紫色の稲妻が走った。


(うわっ……!)


 クルトは思わず目をつぶり、腕で顔をかばった。

 どかん、ぴしゃあんと、凄まじい雷鳴が響きわたり、閃光が脳の奥までを貫き通すかと思われた。


 そうして、次に目を開けた時にはもう、小さな竜のニーナの姿は、クルトたちの視界から忽然と消えていたのだった。



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