第7話 風竜の住処へ




「この地には、古来より、『風の峡谷』の伝説があると聞く。余も長年のあいだ、その地へ一度は行ってみたいものだと思っておったのだ」


 なにが楽しいのか、ゲルハルト王はごくにこやかな様子でさらさらとそんな事を言い始めた。

 ムスタファの血走った目による睨みなど、意にも介さない風である。


「聞けばかの地には、この国の王族のみしか立ち入れぬ領域があるのだそうな。もし、貴公がまこと、わが兄ヴェルンハルトの子、レオンハルトであると申すのならば、余と共にその地に足を踏み入れようとも、なんらの問題はないはずであろう。違うか?」

 レオンハルトのほうでは至極涼しい顔で、軽くゲルハルトに頭を下げただけだった。

「……は。仰る通りかと存じます」

「王族でない者が踏み入れば、いかような事態になるのかは分からぬが。単なる土地の者らの迷信ということもあろうしな。が、まあ一興ではないか。地域のものに案内あないさせて、そちらへ行ってみるというのはいかがであろう」

「ご随意に」


 なにやらうきうきしてさえいるような我が王に比べて、はるかに年下の若造であるはずのレオンハルトの方が、至って落ち着いた応対をしている。


「いや、お待ちくださりませ。急にそのようなお話をなさいましても――」

 と、ムスタファの傍にいたほかの文官らが少し否やの声を上げたのだったが、王はもはや聞く耳など持たなかった。

「いやいや。善は急げと申すではないか。夜の山道といえばあまり安全とも言えまいが、これだけ武官らを連れてきておれば案ずることもあるまい。近隣の道案内の者を探せ。すぐに人員を整えて、出立するといたそう」


 あとはもう、ムスタファや他の文官、武官らがいかようにお止めしようとも、王は頑としてそう言い張り、遂にそのまま、皆であの「風の峡谷」へ向かうという話になってしまったのだった。


 ムスタファは、当然、慌てた。

 会談は一旦その場でお開きとなり、それぞれの陣営に戻って、約定した人員を集める作業に取り掛かった。それでムスタファは、あちら陣営の人々が十分離れていってから、傍にいた侍従の男に周囲の者らの目を盗んでそっと話しかけた。

 実のところ、侍従だとは言いながら、この男はムスタファ子飼いの手練てだれの者なのだった。身のこなしなどはごく普通の男のように振舞っているけれども、この平凡で温厚そうな相貌を一皮剥けば、長年、非情の暗殺者としてムスタファの手元で働いてきた腹心ともいうべき手駒である。


「よいか。すべて、手はず通りに。いざとなれば、わしが合図するからの。努々ゆめゆめ、合図を見逃すな――」

「は。仰せの通りに」


 男の低い返事を聞き取ってからちらりとあちら陣営を見たムスタファは、その時、向こうにいた小柄な女が何故かじっとこちらを見ていたらしいことに気がついた。

 とは言え、決してこんな小さな囁き声が届くような距離ではない。あちらとこちらでは、軽く三百ヤルドはあったのだから。

 だから老人は、それはたまたまだろうと勝手に自分の中で決め込んだ。


 だが後ほど、それが非常に浅はかな考えに過ぎなかったのだということを、この老人は嫌と言うほど思い知らされることになるのだったが。




◆◆◆




 急な話であったにも関わらず、案内の男はすぐに手配することができた。

 この近隣には、高原で羊の遊牧を営む人々が暮らしている。少し離れたところでは、風車のある家々の並んだ、農耕に従事する別の集落もあるのだったが、もっとも手近にいたのはこの人々だったのだ。彼らは運よく、今はこの近くに天幕を張って滞在していたのだ。

 そして、尋ねてみたところ、彼らはその「風の峡谷」に関する伝説と、その地への道筋についても十分に詳しいらしかった。


 ゲルハルト側の武官が探してきたその中年男は、いかにも寒冷な高地に住まう人らしく、厚い毛織りの袖の長い上着と、固い鹿革の長靴を履き、低い円筒形の毛皮の帽子を被っていた。上着には、風の姿を彷彿とさせるような渦を巻く紋様が美麗に織り込まれている。

 髪も髭も真っ黒で、高地の人らしくよく日焼けした彫りの深い顔立ちだった。

 男はゲルハルトとレオンハルトの一隊の側へやってくると、地面に額をこすりつけるようにして平伏した。男はなにやらあれこれと、自分の名前や出身などを述べたらしかったけれども、彼の言葉はこの高地特有の抑揚のためにひどく聞き取りにくいものだった。


 夜になって急に現れたこの高貴な人々の前で、男は少しおびえるような様子を見せたが、こちらが王家の者であると知り、あちらの武官である巨躯の男などからざっくばらんに話しかけられたりしているうちに、次第に緊張を解いたようだった。





「風竜様のお住処すみか、とても危ない。わたしたち、近寄らないです。王家のみなさまだけ、お通りできる」


 道案内の男は道中、訥々とその「風の峡谷」がいかに神聖な地であるか、またいかに自分たちがこれまでずっと、忌避して入らないようにしてきたかを語ってくれた。

 今、一行は会談に参加した面々と、それぞれの護衛の武官二十名ばかりを共に引き連れて騎乗し、その峡谷に向かう道を歩んでいる。

 隣国のヤーコブとテオフィルスも、自分の護衛兵らを伴って随伴していた。

 高原を抜けたあたりから、周囲は森に変わっている。が、道幅は十分あって、月明かりも届き、一同は馬を二列にして進むことができていた。

 夜の森はいっそう冷え込むように思われる。前方を進む武官が持つ松明から、ときおり獣脂の臭いのする煙がとどいてきていた。


「神域の目印を過ぎたら、王家の皆様だけ。わたし、入らない。神竜さまのお許しなく入る者、かならず神罰がくだります……」

 さも恐ろしげに身体を震わせて、男はそう説明した。

「息が苦しくなる、その合図。それ以上は、その人、決して先へ行ってはいけません」


 彼は、レオンたちのものとは違う、遊牧民らのよく乗るやや小型でずんぐりした体格の馬に乗っている。身体は薄茶色なのだが、乳白色をしたたてがみのふさふさとした馬で、見るからに丈夫そうだった。そうした太く逞しい身体のほうが、こうした寒冷な地には向いているのだ。


 やがて周囲は森の木立がまばらになって、傾斜のある草地に変わり、次第に岩や石ころの多い地域になってきた。

 目の前に、星空を切り取るような山の稜線が真っ黒になって迫ってくる。

 「風の峡谷」に聳える、太古から竜が眠るとされるその山は、夜になってもその頂上を厚い靄のなかに沈めて全容を見せようとはしなかった。そう、ちょうどそれは、王宮にもいる高級魔法官らが時おり張り巡らせる、目くらましのための靄もやと同じものだということだ。

 竜は確かに、ここにいる。


 周囲は、ひどく静かである。

 森の中にいきなり分け入ってきた人間の一団に驚いてのことだったのかもしれないが、夜に動き回る鳥や獣の声なども、ほとんどここまで耳には入らなかった。

 なにかぞくりと肌の粟立つような不気味なものを覚えて、ムスタファは顔をしかめた。



 そこから、さらに一刻ばかりは馬を進めただろうか。

 やがてとうとう、道案内の男が馬の足を止めた。


「こちらです」


 彼の止まった場所には、片側に巨大な岩が立っていた。その周囲に、綱のようなものを幾重にも張り巡らして、そこにその土地の風習なのか、おふだのようなものがいっぱいに貼り付けられている。

 男はそこで、すぐに下馬して地面に両膝をつき、帽子を取ると、岩の向こうに向かって丁寧に拝跪はいきした。


 ムスタファは少し眉をひそめて、男のすることを馬上から見下ろしていたのだったが、こちら側ではレオンハルトが真っ先に下馬して男の背後に片膝をつき、山に向かって王に対するようにして礼をとった。それを見て、彼の臣下である武官やアネル、ファルコらも素早く下馬し、同様にした。

 ゲルハルトがすぐにそれに続いて、それではじめて、こちら側の臣下たちもそれに倣い始めた。ムスタファは侍従の男の組んだ手の上に足を乗せて、ようよう重たい身体を馬からおろし、大儀な様子でどうにか山にむかって拝礼した。


「わたし、ここまで。どうか、王家の皆様だけで、お向かいください」


 男は地面から立ち上がるとそう言って、もうそこからは、一歩たりとも先へゆこうとしなくなった。


「ありがとう。夜間に急に呼びたてて、まことに申し訳なかった。礼を言う」


 レオンハルトはそう言って、ゲルハルトのお付きの者が渡した礼金とはまた別に、彼からも男に対して金の入った袋を手渡したようだった。男はびっくりしてはじめのうちは固辞していたが、やがてレオンハルトの風貌を見て何かを感じたものらしく、やがて遠慮しながらもそれをおしいただいて、みなの後ろへ引き下がった。


「さあ。では参ろうか、レオンハルト」


 ゲルハルトはさも何でもないことのようにそう言ってレオンを促した。

 レオンがそれに頷き返すと、彼の臣下たるアネル、武官のファルコという巨躯の男と、小柄な女がそれに続く様子だった。

 まるで当然のようにそちらへ入っていこうとしている者たちに、ムスタファは慌てて声を掛けた。

「お、お待ちください……!」

 一同、それで少し足を止めた。

「いったい、何をなさろうというのです。先ほどの男の話をお聞きになりませなんだか。この先に立ち入れば、お命に関わる事態にならぬとも限らぬのですぞ?」


 ここへ来て、さすがに老人も、これまでの自分の嫌な予感が的中していることを悟っていた。


 間違いない。

 ゲルハルトは、ごく最近、秘密裏にレオンハルトに会ったことがあるのだ。

 そして、このたびのこの事態は、その時にすでに彼らの間でこうするものと、内々に約束が成っていたのに相違ない。


(そのような……!)


 老人はぎりぎりと、内心でほぞを噛んだ。

 だとすれば、この王はここしばらく、我ら臣をたばかって来たのではないか。

 この王はやはり、この場にあって、兄ヴェルンハルトの子、レオンハルトに対し、贖罪することこそを望んでいるのだ。


 我々は、この王にずっとだまくらかされていた……!



「そのようなことは、認められませぬ。臣も、途中まででもお供を致しまするほどに」

 もはや必死のムスタファの言葉を、雷竜国から来た色の黒い老人が、背後からにこにこ笑いながら援護した。

「左様、左様。この爺いもどうぞ、お連れくだされ。なんとなればこの老骨は、こたびのことを見届けるためにこそ、ここまで参ったのでござりまするゆえ。まあ命ばかりはお助け願いたいところではござりまするが、行けるところまではお供させていただきとうござりまする」

「右に同じだ。私も、可能な限りは随伴させて頂きたい」

 小柄な老人の隣から落ち着いた声音でそう申し出たのは、土竜国の王太子、テオフィルスだった。


(くそっ……)


 ムスタファは、再び内心で舌打ちをした。

 この二人がついて来るとなれば、ことは公式のものとなる。

 もちろん彼らも、そのつもりでついて来ようと言っているのだ。


 このままではまずい。

 かなりうまくやらなくては、今後、ゲルハルトやレオンハルトの命を秘密裏に狙うなどは難しくなるはずだった。

 が、老人はそんな内心のことなど噯気おくびにも出さないで、ごく慇懃な態度で二人の客人に一礼すると、ゲルハルトのあとについて大儀そうに歩き出したのだった。



 

 




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