第3話 昔話

 その夜、レオンは晴れてその女性に引き合わされることになった。

 日が沈むのを待ちわびるようにして、レオンはまた手早く更衣をし、いつもの応接の間へと急いだ。部屋の前ではアネルが立って待っており、一緒に扉を開けて中に入った。


 女性は、応接のための長椅子のところで温かい茶をふるまわれながら待っていたらしかった。

 女の背後に、ファルコとミカエラが立っている。

 ミカエラは例によって、ごく平凡な容姿を身にまとっていた。


 デリアは小柄な痩せた老女で、その髪もすっかり白いものになり、もとの髪色がなんであったかは分からなかった。ただその栗色の瞳は優しく深い色を湛えていて、ひどく悲しげに見えた。

 女は入ってきたレオンを見るなり、びっくりしたようになって固まった。そして思わず立ち上がり、少しふらつきながらこちらへ歩み寄ろうとした。どうやら、足が悪いらしい。


「あ、ああ……」

 骨の浮いた両手で口許を覆って、非常に驚いた様子である。

「なんと……、なんと――」


 こうした反応にもだいぶ慣れたレオンには、それが何故であるのかは十分にわかっている。この女もまた、レオンがあまりにその父、ヴェルンハルトに似ていることに驚いているのだろう。

 女はそのまま、そこで床に跪くと、レオンを拝まんばかりにして頭を下げた。いかにも田舎住まいらしい貧しい身なりをした、痩せた肩が震えている。女は泣いているようだった。


「ご、ご存命であらせられたとは……。まことに、まことに……」


 そんなようなことを呻くようにして言いながら、すすり泣いている。

 レオンはさっと女に近づくと、そのそばに膝をつき、腕を取って助けおこすようにした。


「デリア様ですね。レオンハルトと申します。……赤子の時分には、随分とあなた様にお世話になっていたそうで。その節は、誠にありがとうございました。とは言え、自分の覚えておらぬことで、申し訳ないことでございます」

「そ、そんな! 勿体無もったいのうございます……!」

 デリアはびっくりして飛び退るようにして、またそこに平伏した。

「良うございました。良うございました……! なんと、なんとご立派な……。殿下のお顔をごらんになれば、どんなにかお父君さま、お母君さまがお喜びでありましょうに――」


 放っておくといつまでもそこでうずくまっていそうなので、レオンは無理にも女性の手をとって、ゆっくりと長椅子へと戻った。女性は足を悪くしているらしく、少し足を引きずるようにしか歩けない様子だった。

 それからは、レオンは養父のアネルとともに簡単にここまでの顛末と、いまの風竜国の現状について、この老女に語って聞かせた。

 実を言えば、アネルとデリアは面識がある。かつて同じ王にお仕えしていた二人であれば、それも当然のことだった。ただし、当時はさほどの言葉を交わしたことがあるわけではないらしい。デリアは主に奥向きで王太子の身の回りの世話をする女官であり、対するアネルは医術魔法官として、表で王ヴェルンハルトの補佐をしていた立場だったからだ。


「左様にございましたか……。あの時、エリク様がレオンハルト殿下をお逃がしに……。よくぞご無事でいてくださいました。あの時、わたくしも途中までは陛下と王妃さま、そしてレオンハルト様とともに山中を逃げていたのでございますが――」

 ここで言う「エリク」とは勿論、アネルのかつての名前である。

 王弟ゲルハルトと宰相ムスタファの姦計により、静養先の田舎の山で討っ手に囲まれ、王のご一家について逃亡行のさなか、デリアは足を滑らせて崖下に落ち、足をいためて動けなくなったのだと言う。

 そのままデリアは王らご一家とははぐれてしまい、命からがら、這うようにして山を抜け、土竜国へと逃れでた。

 もともとヴェルンハルト公のお考えで、王妃フランツィスカと王太子レオンハルトとはそのまま土竜国王バルトローメウスを頼ることも視野に入っていたものらしい。だからこそヴェルンハルトは、隣国である土竜国との国境にも近い場所にわざわざ「静養」に向かったのだ。


 当時、すでに若者になっていたデリアの息子や夫については、それ以前に、もし自分に何かがあれば土竜国へ逃げられるようにと通行証なども準備させていた。その後、かなりの時間はかかったが、こちらの国に亡命した夫や息子とどうにかこうにか合流でき、そのまま土竜国の田舎の村に隠れ住むようになったのだという。


「それは……随分なご苦労をなさいましたね」

 彼女の一連の話をきいて沈痛な顔になったレオンを、デリアはひどく嬉しそうな笑顔で見上げた。

「いいえ、いいえ。今こうして、殿下のお健やかなご尊顔を見せていただけただけで、このデリアには十分のことにございます。まことに、まことに、お父君様によく似ておいでで……」

 そう言ってまた、デリアは涙ぐみ、目頭を押さえるようにするのだった。

「で、肝心の話なんだけどよ」

 と、そこまでは黙って話を聞いていたファルコが、遂に口を挟んだ。


「おばちゃんはよ、見たとたんにこいつがヴェルンハルト陛下の子だって確信したみてえだったがよ。けど、周りはそうそう、都合よくは思っちゃくれねえ。レオンもヴェルンハルト陛下の形見の『風竜の指輪』は持ってるが、それだけじゃ弱えしよ。で、おばちゃんの力を借りようってことになったんだが」

「そ、そうなのだよ、デリア」


 アネルも同様に、勢い込んでデリアに訊ねた。


「そなたなにか、殿下のお身体の特徴やなにかで、王宮に勤めておったときに気付いたこと、覚えているようなことはないだろうか。我々は、対外的にきちんと証明できるように、殿下が間違いなくヴェルンハルト陛下のお子であるのだという確証があればと思っているのだよ――」

「はい……? 殿下のお体の、特徴でございますか……?」


 デリアが、まだその目尻に涙を溜めたままではありながら、ちょっと困ったような顔になった。

 確かに赤子のレオンを世話していた人なわけだから、身体のすみずみについてはよく知っているには違いないのだろうけれども。


「そうは申しましても、二十年以上も昔のことにございまして……。わたくしごときに、皆様のお役に立てますかどうか――」

 急に不安になったように、デリアがおどおどと自分を取り囲む人々を見上げた。

「まあ、それも無理はないが」

 アネルが穏やかにそう言って、老女の傍らで床に膝をついた。

「なんとか、些細なことでもいいのでゆっくり思い出しては貰えまいか。私はなんのかのと言っても、当時、殿下のお身の回りのお世話をしていたわけではないものだから。わたしの証言だけではやはり、弱いだろうと思われるのでね」

「は……はい。左様にございますわね……」


 それでもひどく不安そうな様子のデリアを見て、場の一同はちょっと目を見交わした。老女はそんな皆の様子を見て、さらに申しわけなさそうに体を縮めるようにして座り込んでいる。

 レオンはただ、彼女に対して申し訳なく、また気の毒な思いを拭えなかった。

 決して手荒なことをしたわけでもないし、彼女の息子夫婦や孫たちについても手を回して、一緒にこちらへ逃れてもらうことも叶った。それは勿論、のちのち人質などにとられて困ることのないようにという配慮だった。しかし、それでもこちらの都合で勝手に彼女と彼女の家族の人生を翻弄していることには違いない。


「……ともかく、デリア殿」

 レオンが静かな声でそう呼びかけると、デリアはぱっと顔を上げてぶんぶん顔を横に振った。

「いえ、殿下! 滅相もございません。わたくしのような者に敬称などつけていただいては……! どうか、デリアとお呼び捨てくださいませ――」


 レオンはか細い老女の肩にそっと手を掛けて、少しばかり微笑んだ。

 かつて、まだ赤子だった自分は、この人のこの腕に抱かれていたのだ。そう思えば、なにか胸の内に温かなものが流れることを禁じえなかった。とはいえ彼女の手は、がさがさ、ごつごつとした平民の女の手そのものだった。それはきっと、王宮暮らしをしていた当時からすれば見る影もないのだろう。

 優しいフランツィスカ王妃のもとで働いていた彼女が、あの事件によってこの土竜の地に逃れ、余所者よそものとして暮らさざるを得なかった。彼女のこの二十数年は、おそらく生易しいものではなかったはずだった。


「どうか、慌てずゆっくりお考えください。よろしければ、あなた様がご覧になった当時の風竜宮や、父と母の様子などもお聞きしたいと思うのですが。構いませんでしょうか……?」

「え、昔の……?」

 老女がおずおずと目を上げる。

「はい。自分には、残念ながら実の父と母の思い出というものがまったくございません。もし差し支えないのでしたら、あなた様のご存知の、父と母の話をお聞かせ願いたいのですが」

 レオンの声はごく静かだったが、それを聞いて、デリアははっとしたようにレオンを見返した。

「ああ、それは良うございますね」

 アネルも一瞬、なんとも言えない目になったが、すぐににっこりと笑い、ごく穏やかな声でそう言った。


「もしかして、話をしているうちに思い出すこともあるやもしれませぬ。それは是非とも、わたしもお伺いしたく思います。構いませんかな? デリア殿……」

「いえ、け、けれど……」


 皆の視線を一身にうけて、女はしばらく、困ったようにあちらこちらへ救いを求めるように視線を彷徨わせたが、やがて隣のレオンの真摯な表情に目をもどすと、ひとつ息をついて頷いた。


「承りました。こんな何の才があるわけでもないもと乳母の話などでよろしければ、できるだけお話し申し上げましょう……」


 そうして、デリアの話が始まった。


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