第104話 テスト前の何気ない日常

 勉強をしていると、コンコンと扉がノックされた。


 ペンを置いて「どうぞ」と言えば、扉が開けられ――空色のパジャマを着た凪が入ってくる。



「蒼太君、そろそろ眠る時間ですよ。勉強は終わりましたか?」

「ああ……ごめん、この章まで終わらせたら寝るよ。凪、先に眠ってて欲しい」



 学期末テストが近づいてきた金曜日。今日は凪が家に泊まりにきていたのだ。


 彼女がリビングで本を読んでいる間、俺は部屋で勉強をしていた。暗記科目を一人でやっていたのだが、勉強をしていると時間の進みがかなり早い気がする。


 この章までやろうと思ってそう言ってしまい……彼女の表情を見て、少しだけ怒らせてしまった事を悟った。



「もう。睡眠不足は悪い事だらけなんですよ。お肌にも悪いですし、脳の回転も遅くなります」

「……分かってはいるんだが」

「ふふ。私も気持ちは分かるんですけどね」



 凪が少しだけムッとした表情を見せたものの、すぐに微笑みへと変えて近づいてくる。


 何となく察してノートから手を離せば――サッと白い手が伸びてきて、両の手を掴まれた。



 そこから手を組み替えられ、きゅっと指を絡めるようにして手を握られる。



「でも、ダメです。体が一番の資本なんですから。……頑張りすぎちゃう蒼太君は捕まえちゃいます」



 凪が楽しそうに笑って手を引いてくる。そのまま立ち上がると――蒼い瞳。海をそのまま球体にしたような瞳がじっと俺を見つめてきた。



「焦ってますよね、蒼太君」

「……少しだけ」


 全て凪には見透かされている。ふいっと目を逸らすも、凪が手をにぎにぎとして存在を主張してきた。


 最近始めたアルバイトに勉強。覚悟していたつもりだが、想像以上に両立は難しい。

 でも、これくらいは出来るようにならないといけない。凪なんて俺以上に頑張ってるのだから。


 ……頭では分かってる。そんなに焦らなくてもいいんだと。

 だけど、心はそう上手くいってくれない。


 どうしたものかとため息を飲み込むと、両手をきゅっきゅっと握られた。



「焦った時のために私が居るんですよ、蒼太君」

「……凪」



 俺が無理をしないため……あるいは切り替えるための凪、という事か。


 確かに凪と会うと、自然とオンオフが切り替えられる。緊張が一気に解けるというか、そんな感じだ。


 だけど――



「……俺、凪に頼りすぎなんじゃないかって気がする。いや、頼る事自体は良い事だって分かってるんだが」

「ふふ。蒼太君も男の子ですね」

「そういう意味では……」



 凪の前でくらいかっこつけたい。その思いも確かにあるが、それはそれとしての話だ。


 このままだと俺一人では何も出来なくなってしまうんじゃないか。それが少しだけ怖い。



「蒼太君」



 とんとん、と手の甲を指でつつかれる。そこでやっと俺は視線を彼女の方へ戻した。



「一番早く上達する方法ってなんだと思いますか?」

「……色々と議論が出来そうな質問だが。経験とかか?」

「私も経験だと思ってます。百聞は一見にしかず。更にその上を行くのが経験ですから」



 何かのリズムを奏でるように、凪がとんとんと何度も指で手の甲をつついてくる。とても楽しそうだ。



「誰だって最初は上手くいきません。初めての経験も誰だって怖いものです。それから何度も経験し、課題を見つけて解決していって慣れていく。料理だって舞踊だって、なんでも同じ事です」



 言葉を挟むべき場面ではない。相槌を打って、続く言葉に耳を傾けた。



「そして、一人で出来る事には限界があります。でも、二人でならその限界の少し先を知る事が出来ます。つまり、二人なら一人の時以上に経験値を積むことが出来るんですよ」



 ふむ、と彼女の言葉にまた頷いた。



「もちろん一人で試行錯誤をする時間も必要です。蒼太君が思うように、頼りっぱなしになるのは良くありませんから。もちろん私の事はいつでもいくらでも頼って欲しいんですが、この辺は柔軟に考えていきます」



 そこまで言って、凪は笑った。



「さて、ここで一つ蒼太君に嬉しいお知らせです」

「……なんだ?」



 文脈から想像しても何の事なのか分からず、そう聞き返した。

 凪は得意げにふふんと息を漏らして笑う。



「私も色んな人から習ってきた立場です。パパにママ、須坂さんに先生。茶道に華道の師と、ありがたい事にその全てがその道のトップに近い立場です」

「……ああ」



 こうして考えると凄い環境だ。その全てから吸収していった凪の凄さも今なら分かる。



「誰かに教える立場、というにはまだまだ半人前ですが。教わってきた経験は同年代の人達に比べればかなり多いと言えます。これまで教わった経験から、蒼太君の成長を一番近くで最大限にお手伝いするのなら私以上の適任は居ないかなと」



 凪が片手を外してとん、と胸に触れてくる。その瞳がまっすぐに俺を射抜いてきた。



「だから、蒼太君が頑張るお手伝いをさせてください。蒼太君がもっと頑張れるよう、今日はもう休みましょう」



 彼女の言葉に笑みが零れてしまう。本当に……俺は良い人と出会えたんだなと。



「明日はお勉強会をしましょう。一応光ちゃん達にも連絡を取ってみますが、無理なら無理で二人でやりましょう。暗記科目は二人でも出来ますから」

「分かった。ありがとう、凪」

「どういたしまして」



 そこで凪が手を離し、一歩下がった。



「眠る前に少しだけリラックスしましょうか、蒼太君。ホットミルクを入れてくるので待っててください」

「……至れり尽くせりだな。その、本当にありがとう」

「ふふ。私も飲みたかっただけですよ。でもお礼は素直に受け取っておきます。どういたしまして」


 凪がもう一度お礼を受け取ってくれて、それからホットミルクの準備をしに部屋から出ていく。


 それを見届けて、俺は机の上を片付けたのだった。


 ◆◆◆


「……落ち着く」

「ですね。こういう時間、好きです」


 ホットミルクを一口飲むと、暖かく優しい味が口の中に広がる。普段より少し甘みが深いのは蜂蜜が入っているからだろう。


 机の傍に二人で座り、ゆっくりとホットミルクを飲む。


 チクタクと時計の針が響く音に耳を傾け、全身から力を抜くように背もたれへと体を預けた。

 お互い言葉はないが、自然と目を合わせていた。


 蒼い瞳は宝石のようにキラキラとしていて、陽に照らされた水面のように暖かい光を放っている。


 自然と手を伸ばしてしまった。

 それに気づいて凪がそろりと手を伸ばし、指先を重ねてくすぐってくる。

 少しずつ空白がなくなっていって、手と手が結ばれた。



「……ふふ」



 そこで耐えきれなくなったのか、凪が嬉しそうに笑った。手を離さないまま、彼女は椅子ごと体ををこちらに寄せてくる。



「美味しいですね」

「ああ。凄く美味しい」



 ミルクを一口含む。暖かく、優しい甘さ。仄かに香る蜂蜜の香りが鼻から抜けていって、ほっと息を吐いた。



「今回のご褒美は何にしましょうか?」

「……? ご褒美ってテストのか?」

「はい。お互いこれだけ頑張ってるんです。今回も……というかこれからもご褒美があって良いかなと」

「……そうだな。モチベーションも上がるし、あった方が良さそうだ」



 今までもご褒美があったんだし、これからもあって良いだろう。

 ただ一つ、問題があるとすれば――ご褒美の内容か。



「ご褒美の内容はなんでも良いんですよ」

「……なんでも」

「はい。蒼太君がしたい事、なんでも言ってください。ご褒美なんですから」



 本当になんでもしてくれるのが凪だから難しいな。

 折角ならお互いのご褒美になるものを考えたい。



「凪は決まってるのか?」

「はい、もう決めてますよ。でも秘密です」



 ふむ。……まあ、まだテストまで時間はあるし。今急いで決める必要はないか。



「ご褒美の内容、俺も考えておくよ」

「分かりました。楽しみにしてますね」



 そんな話をして、マグカップに残っていたホットミルクを飲み干す。凪もほぼ同時に飲み干した。



「さて、では片付けたら眠りましょうか」

「ああ、そうしようか」



 凪と一緒にマグカップを片付けてから、ベッドへ……凪が先に寝転がるよう視線で促してきたので、奥の方へ横になる。


 それから凪も来て、こちらを向いて寝転がった。



「蒼太君」

「……ん」



 名前を呼ばれ、小さく腕を広げる。凪が腕の下から手を入れて、胸にぎゅっと抱きついてきた。


 花の匂いがふわりと漂ってきた。彼女が使うシャンプーの香りだ。



 強く抱きしめ、抱きしめられる。

 暖かくて柔らかくて、ドキドキして……だけど、不思議と安心する。


 ふっと力を抜けば、凪が少しだけ体を離した。とはいっても、密着ではなくなったというだけで近いことに変わりはない。



 それから、蒼い瞳が近づいてくるのが見えて――こつんと鼻が当たる。


 少しだけ彼女の瞳が傾き、唇に熱い吐息が触れた。



「……ん」



 ちょんと、触れるだけのキスをされた。



 たった一瞬でも――背筋がゾクゾクとするような快楽が生じ、心の内にあった幸福感が弾けるように増大する。



「今日は何もしない日ですが、暗闇の中でキスをするとドキドキしますね」

「ああ。ドキドキする。……でも、それ以上に幸せだ」

「私もおんなじです」



 心臓の音はいつもより少しだけ早い。けれど――不思議な事に……いや、さっき飲んだホットミルクのお陰もあるからか、眠気は消えていなかった。


 全身から力を抜いて、凪の方を見る。段々目が暗闇に慣れて彼女の表情が見えるようになってきた。



「今ならきっと、いい夢が見られますよ。蒼太君はどんな夢が見たいですか?」

「夢か。そうだな」



 目を瞑り、考える。今俺が何をしたいのか。



「……海」



 だけど、目を瞑っても俺の頭からは彼女の事が……彼女の瞳の事が離れなくて。心の中の言葉が漏れ出ていく。



「海に行きたいな。凪と。皆と」

「良いですね、海。実は私もあんまり行った事がないんです。小さい頃は日差しに弱かったので」

「……今は大丈夫なのか?」

「はい。体に合う日焼け止めも見つかりましたので、今なら海でも山でも行けますよ」

「良かった」



 凪の言葉を聞きながら想像する。


 凪と――皆と海に行けたら楽しいだろうな、と。


 でも……



「……ふふ」

「どうしたんですか? 蒼太君」

「いや、ちょっとな」



 思わず笑みが零れてしまって、楽しそうな凪に聞かれる。


 海は綺麗だ。特に、陽が照らした海面はキラキラしていて。



 だけど――



「俺は海に行っても凪の事ばかり見てるんだろうなって思ってな」

「……ふふ。本当に私の事、大好きなんですね」

「ああ。大好きだよ」



 海に行きたいって思った理由も、凪の瞳と似ていると思ったからだし……って言うのはさすがに恥ずかしいが。



「私も蒼太君の事、大好きですよ」



 手が暖かいものに……凪の手に握られる。



「今はまだ時期じゃないので。一緒に夢の中で海に行きましょうか」

「ああ、そうしよう」



 手を握り返し、緩む表情をそのままにする。



「おやすみ、凪」

「おやすみ、蒼太君。……また明日ね」

「……また明日」



 ゆらゆらと海に漂うように、意識が離れていく。

 しかし、眠りにつく瞬間まで……手のひらには彼女の体温が伝わってきていた。

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