第68話 東雲凪の逆鱗
「よお、
……友人でもなんでもないのに。馴れ馴れしく、彼は話しかけてきた。ニヤニヤと嫌な笑い方をしながら。
小学生の頃から中学生にかけて同級生だった、
『犬と先生しか友達が居ない癖に』
彼はそんな言葉を俺によく投げかけてきていた。
「肌白っ!? 外国人? 外国人ってスキンシップ凄いって言うもんな」
次に声を上げたのは津田である。無遠慮に凪をじろじろと見ていた。
『足が早い事しか取り柄がない猿』
俺が居る教室で、女子に向かってそんな事を言っていたな。俺に聞かせるように。
「つかでっか。おい、海以。羨ましいじゃねえか。どこで騙して仲良くなったんだよ」
最後。凪に邪な視線を向け、デリカシーに欠けた発言をするのは竹本だ。
『そんな人間と話せない奴なんかより俺らと話そうぜ』
運動会や体育祭の後に俺が話しかけられてるのを見て、彼はよくそう言っていた。
……ああ、ダメだ。良くない。
良くない事を思い出してしまう。
「私は」
男子三人に不躾な視線を向けられながらも。凪は怯むことなく、毅然と三人を見返した。
「私は彼、海以蒼太君の婚約者です」
静かに、そう告げた。
次の瞬間――
「……ふ、くく。婚約者? こいつと?」
加藤が笑い混じりに言った。今にも吹き出しそうになりながら。
「面白い冗談じゃね?」
「全然笑えんが? ……ぷっ」
続いて二人も隠す事なく笑う。竹本に至っては吹き出していた。
凪の視線は更に温度を下げていった。横目で見ても分かるくらいには。
「……何がおかしいのでしょうか」
その声のトーンは普段より低い。しかし、三人はそんな事に気づかず……本当に気づいていないのだろうか。気づかない方がおかしい気がするんだが。
「な、何がって。そんな根暗陰キャが婚約者なんて、どんな罰ゲームだよ。いや、ほんと。どんな、ばつげ……くく」
加藤は声を震わせながら答えようとするも、途中で我慢できずに笑う。
続くようにして、二人がケラケラと笑った。
その場の気温がまた数度、下がったかのような錯覚を覚えた。辺りを歩く人も空気を察知してか、足早に歩いている。
「……」
横から見える凪の瞳には色々な感情が入り交じっていた。
怒り。
驚き。
嫌悪。
憎悪。
疑い。
……そして、戸惑い。
俺も最初は、本当にこんな人達が居たんだと戸惑ったから分かる。あんな事を言う人物は、物語の中くらいでしか居ないと思っていた。
「つかあれじゃね? 婚約者って親が勝手に決めたとか」
「あ、それか。うわー、かわいそ」
「そんな奴より俺らん方が楽しいよ? 一緒にカラオケ行かね?」
三人が全然人の話を聞こうともしない。それを見て――
凪は静かにため息を吐いた。
「話になりません」
小さな声。しかし、その声はハッキリと聞こえた。
「まさか、ここまで程度の低い人達だとは思いませんでした」
その瞳は――声音は――そして吐息は、とても冷たい。
「その瞳は一体何を映しているんでしょうか。私がこうして蒼太君と手を繋いでいる事すら見えないのでしょうか」
今まで見た事がないような表情。
「人を嘲笑い、初対面だと言うのにありもしない妄想を押し付け……その果てには、人の婚約者をナンパしようとする。人として、ありえません」
その顔は嫌悪を顕にしていて、瞳には侮蔑が込められている。
「ま、マジになんなよ」
「……え?」
加藤の言葉に凪は心の底から……信じられないものでも見たというような表情をした。
「話を、聞いていなかったんですか?」
その声には、呆れと怒りが篭っていた。
「大好きな人を馬鹿にされ、嘲笑われ……怒らない人間が居ると。本気でそう思ってるんですか?」
「……」
凪の言葉に加藤は……三人は、何も返せない。
美人は怒ると迫力がある、と聞くが。凪の怒りはその比にならない。
「もう一度言わせて頂きますが。まさか、ここまでとは思いませんでした。自分が楽しむためなら……自分の欲を満たすなら手段を選ばない。話には聞いていましたが、本当に――」
凪は三人を見返して。
「程度が低い」
そう、言った。
凪は大きく息を吐いた。……心の中にある感情を全て一纏めにしたかのように。
「二度と、蒼太君に関わらないでください」
三人は逆上する事も出来ない。凪の圧に押されて。
「もしもまた、蒼太君に関わり……またありもしない妄想を押し付け、嘲笑うと言うのならば。その時は私達『東雲家』が対処します。言っている意味が分からないのならば『
冷ややかな視線を向けてそう言い……凪は。
「それでも。まだ蒼太君を笑うというのなら」
肌を刺すような冷たさが背筋を襲った。
「その時は覚悟してください。一切の容赦はしません」
その言葉を最後に――凪は俺の手を引いた。
「それでは。行きましょうか、蒼太君」
「……あ、ああ」
凪の言葉に一瞬遅れて俺は頷いて。三人の横を素通りする。
三人は身を縮みこませて。言葉を発する事はなかった。
◆◆◆
「お見苦しい所を見せてしまいました。ごめんなさい」
「いや。凪が謝る事は何も無い。……ありがとう」
それでも凪は頭を下げようとしていて。俺は思わず、凪を抱きしめていた。
「ありがとう、本当に」
凪と額を合わせて。
無理やり視線を合わせてからそう言った。
「……どう、いたしまして」
「ああ」
少し強引なやり方をしてしまった。しかし。凪が気に病んでしまうよりは、多少目立つ方がよっぽど良い。
「改めて。ありがとう。俺のために怒ってくれて」
「……あの人達の言葉を聞いて、すぐ分かりました」
周りの目もあるので一度凪から離れ、手を繋ぎ直す。
「『会話が通じない』と。ですから、一方的に怒りました。私が『怒っている』と理解するまで」
丁度、近くのベンチが空いた。凪を連れてベンチへと座り、話の続きを聞く。
「小学生の頃。学校からの宿題で、お父様のお仕事を見に行った事があるんです」
小さく。凪は呟いた。
「あの頃はお父様に少しでも近づきたくて。……凄く集中してお仕事している姿を見たり、話を聞いてました。しかし、お父様がいきなり言ったんです。『一時間ほどお母さんと散歩に行ってきなさい』と」
静かに。俺は凪の言葉を聞いた。
「なにか隠してると、小学生ながらに思ったんです。ですから、私は少し無理を言って……部屋に留まりました。誰かが来た時にお父様は言ったんです。『怖いところを見せてしまうかもしれない』と」
先程の凪の言葉を思い出した。
『ちょっとだけ、可愛くない所を見せるかもしれませんが』
凪は俺を見て。思考を肯定するように、小さく頷いた。
「来客は今年入ったばかりの新入社員の方でした。詳しい事は私も分かってないです。ただ、そのやり取りを聞いていてなんとなく分かりました。『機密情報を漏らした』と」
「……それは」
「機密情報、と言ってもそこまで大切な情報ではなかったらしいです。ただ、情報漏洩は情報漏洩なので。懲戒解雇せざるを得ない状況になってしまったと」
その時一つ、疑問が浮かんだ。
「どうして宗一郎さんと面会に?」
「お父様が一度話してみたかったらしくて呼んだそうです。若気の至りなのか……それともそれ以外なのか。実際に反省し、二度と同じ事をしないと誓約書を書くのならば、情状酌量の余地はあると考えていたらしく」
「なるほど」
宗一郎さんらしい、のだろうか。上に立つ者としては少し危うい気はするが。
「もちろん監視を付けて、必要最低限しか情報を与えない……しばらくは雑務で様子を見る事になるだろうと言ってましたが」
「ああ。そういう事か」
「はい。……まあ、結果は散々でしたが」
凪はその時の事を思い出してか、苦笑いをした。珍しい。凪が苦笑いをするとは。
「誰か達とおなじで。自分が何をしたのか、全く理解してなかったんです。その人。……最終的には不当な解雇で訴えると言い出す始末で。もちろん契約書に書いてたらしいですよ。情報漏洩を行えば懲戒解雇を行うと」
「……なるほど」
凪が苦笑いをした理由が分かり、そう相槌を返す。
宗一郎さんの所はライバル会社も多い。それこそ、凪と婚約しようとしていた人の所もそうだったはずだ。
思考を切り替え、続く凪の言葉に耳を傾けた。
「そして、お父様は怒りました。……初めてでしたね。お父様がちゃんと怒った所を見るのは」
凪は天井を見上げて、小さく呟いた。
「決して怒鳴りはしない。ただ、怒鳴らなくても怒っている事を伝える手段はいくらでもある。という事を学びましたね」
先程の凪がそうだった。
怒鳴るどころか、声は小さかった。辺りも無音ではなかったし、凪の鈴のように透き通った声でなければ聞こえなかっただろう。
「結局、その方の懲戒解雇は覆りませんでしたが。お父様は、少しでも意識が変わってくれたら良いと後で言っていましたね。……ただ、こうも言っていました」
その時の事を思い出してか、凪は目を瞑った。
雪のように白く、長い睫毛がとても綺麗だと思ってしまった。
薄い唇が開かれ。鈴のようにとても澄んだ声が言葉を紡ぐ。
『世の中にはどうしても話が通じず、価値観が自分と噛み合わない人間は居る。先程の青年のように、ね。私の場合はお節介に過ぎなかったようだが、基本は関わらない方が良い……と、凪に話す事ではなかったな』
一言一句、覚えていたのだろうか。いや、凪の事だ。覚えていたのだろう。
凪は目を閉じたまま話を続けた。そっと、自分の胸に手を置いて。
「あの頃の私は、お父様に強い憧憬を抱いていました。……だから、話の続きを聞きました。お父様は渋りましたが。一つだけ、伝えておきたい事があると言われたんです」
凪は顔を下げ、その目を開き。俺と視線を交わした。
その瞳には強い光が灯っている。
「『自分か自分の大切な人が傷つけられそうになれば、私は容赦しない。凪もそんな時が来たら、遠慮なく私の名前を出すんだよ。私が必ず、全てどうにかするから』と」
「だからさっき宗一郎さんの名前を出したのか」
凪が柔らかく微笑み、頷いた。その表情は柔らかい。
先程三人と居た時のような、怒った様子は微塵も見せなかった。
「すまないな。色々思い出させてしまって」
宗一郎さんが怒るのは上手く想像出来ないが、かなり怖かったのだろう。……さっきの凪を見た感じだと。
しかし、凪は首を傾げた。俺の言っている意味が分からないと言いたげに。
「……? ああ、そういう事ですか」
すぐに凪は納得した様子で頷き、笑った。
「全く気にしてないですよ。それどころか感謝してます。お父様のお陰でこうして蒼太君を守れたんですからね。……私も言いたい事を言えてスッキリしましたし。あ、今の話もお父様の言葉を思い出したからしたんですよ」
凪の言う通り、あの三人は叱られた所で反省しない。上辺だけの反省の言葉を並べるだけだ。あの時もそうだった。
「蒼太君も気にしたかなと。お父様の名前を出しましたし」
「……そうだな。疑問はなくなった」
凪の怒り方と、宗一郎さんの言葉。
ちゃんと、凪の事は昔から自分の娘として接していた、という事が分かった。色々不器用そうではあったが。絶対子供に聞かせる話ではなかったし。
だけど。そのお陰で俺は助けられており、今の凪も居るのだ。
全て、今に繋がっている。凪の過去も、俺の過去も。
だからこそ。俺が投げかける言葉は謝罪ではないだろう。
「ありがとうな、凪」
「はい! どういたしまして、です!」
凪は明るく、日に向かって咲く花のように笑った。
その手がそっと、俺の頭に伸びた。
「蒼太君も。よく頑張りましたね。……いっぱい、いっぱい頑張りました」
凪の細く、綺麗な指が俺の髪を梳くように撫でる。
恥ずかしくはあったが、それ以上にとても心地良い。
「これから先も絶対、蒼太君に嫌な思いはさせません。嫌なものは私が全部、跳ね除けちゃいますからね」
「……ああ」
凪の指が心地よく……その言葉がじんわりと、心に染みていく。
鼻の奥がツンとなり、視界がうっすらと滲んできた。
想像していたより、俺は心に来ていたようだ。もうあんな目に遭う事はないと、安心して。
心の底から安堵して。
張り詰めていた糸が一気に緩む。
「もたれかかって良いですよ。少しなら目立ちませんから」
「……助かる」
凪の肩に頭を置いて。顔を、凪の肩に埋めた。凪がもう片方の手をそっと、俺の手に重ねた。
「俺も」
下に向けていた手を返し、凪の手を握る。凪もきゅっと、握り返してくれた。
「凪に何かがあった時は、俺が守るから」
「はい。その時はお願いしますね」
凪の手が頭から滑り、頬を撫でられる。
その手は暖かい。
今まであった嫌な事が一つ一つ、心の中から消えていくのが分かった。
「……凪」
「なんでしょう?」
「大好きだ」
外だから、小さな声で。
何度言っても、凪の事が好きな気持ちは薄まったりしない。それどころか、日に日に膨れ上がっていくようで。
「私も大好きですよ、蒼太君」
凪もそうだったら良いなと。手を強く握るのだった。
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