第67話 我慢の限界
「……! おっきいですね!」
「この辺りだと唯一の大型施設だからな。年末も重なってかなり人は多いぞ」
そこに出入りする人の数は多く……人によっては見るだけで辟易するかもしれない。
しかし、凪の笑顔は崩れる事なく。楽しそうに外観を眺めていた。
「それなら。……もっとしっかり手を繋がなければいけませんね」
凪はそう言って、俺の手をぎゅっと握り……自分の胸に抱き抱えるようにした。
「そうだな」
「はい! くっつかないと離れちゃいますから!」
それは当たり前の事では……と思いながらも、凪の笑顔が見られるのが嬉しく。凪の暖かさも伝わってくるのが嬉しいから。止める事は出来ない。
まあ、今日くらいなら。
本当ならばTPOをよく考えなければいけないが。明日からはいつも通り……。
いつも通りって何だろうか。というか、どこまでセーフなんだろうか。
ただ横を歩く……だけだと、付き合う前と変わらない。
それなら手を繋ぐまで? そうなのだとすれば、さっきまでの繋ぎ方はセーフに入るのか? かなり密着していたが。
ダメだ。よく分からなくなってきた。後で瑛二にでも聞いてみよう。
と、そこまで考えてから。俺は首を振った。
良くない。凪と一緒に居る時に考え事は。
特に、二人で出かけているというのに考え事をするなど……不誠実極まりない。
そう思いながら、すぐ隣にいる凪を見てみると。
じっと、俺を見ていた。その口元は薄く微笑んでいる。
よく見れば、場所も少し移動していて道の端の方に来て居た。凪が通行人の邪魔にならないよう誘導してくれたのだろう。
「……悪い。少し考え事をしていた」
「ふふ。良いんですよ。私、蒼太君の考えてる顔も好きですから」
その柔らかな微笑みに心臓が跳ね、その言葉が跳ねた心臓を優しく撫でてくる。
凪と出会うまでの間。こうした好意の籠った言葉を向けられる事は……家族以外、ほとんどなかった。瑛二は冗談交じりで口にしてきたが。
だから、なのだろうか。凄く、凄く不思議な気分である。
その言葉に心臓が驚き、脈動を早め……それなのに、胸から血管を辿るようにして。じんわりと体が暖かくなっていく。
家族に褒められる時は、ただ嬉しいだけだった。
でも、凪にこうした言葉を言われると、それ以外にも色々な感情が膨らみ。混ざり合う。その中にマイナスな感情は一片もない。
……今更、すぎるかもしれないが。
「幸せ、だ」
幸せと、一言で表すしかない。
それ以外の言葉を知らない。純粋に語彙力が足りないのだろうが。
「私もですよ」
凪の人差し指がそっと折れ曲がり。手の甲を撫でられた。
くすぐったくも、痛くもない。ただ、愛おしそうに。凪は撫で続ける。
「月並みな言葉になりますが。……生まれてきた中で、今が一番幸せです。幸せなんです、私」
凪の笑顔は決して崩れない。
あの頃はずっと、無表情な彼女を見ていたが。
今の方が何倍も……何倍も魅力的である。
思わず凪の顔をじっと見てしまった。
すると、凪が少しだけ頬を膨らませた。
「最近、色々と大変なんですよ? 蒼太君と会えない時……一人で居る時も、つい蒼太君の事を思い出してしまって。こうしてほっぺたを押さえないと戻らないんです」
凪はもう片方の手で自分の頬を押さえた。その仕草の一つ一つが可愛らしい。
「須坂さんに言われてちょっと恥ずかしくなったりします」
「……そうか」
「でも、嫌ではありません。蒼太君と一緒に居られる気分になりますから。昨日もそうやって頑張ったんです」
母さん達に話した時の事だろう。
凪は昨日、本当によく頑張ったと思う。
「……何か欲しいものとかあるか?」
「欲しいものですか?」
自分でも唐突な言葉だと思う。凪が困惑するのも当然だ。
凪は小首を傾げた後。何かを閃いたように目を見開いた。
「一つ、あります。ありました」
「お、なんだ?」
なんだろうか。凪が欲しいものは。ここで買えるものなら良いのだが。
凪の言葉を待っていると。凪にとんとんと手の甲を指で叩かれ――耳を貸してと視線で伝えられた。
少し頭を寄せると、凪は手を離し。両手を筒にして、耳へ被せた。
「蒼太君が欲しいです」
小さく、そう囁かれ。
呼吸が止まるかと思った。
いや、実際止まった。数秒の間だけ。
凪はと言うと……笑う事もなく。じっと、俺を見ていた。
『冗談ですよ』とか『嘘です』という言葉はない。
「……い」
喉が掠れ、ほとんど声は出せなかった。小さく咳払いをする。
凪の口の端が持ち上がっていたのは見なかった事にしよう。
そして、改めて。言葉を押し出した。
「家に戻ってから、な。あっちの」
「……!」
どうにか、視線を合わせてそう言うと。凪は目を見開いた。
その顔が、どんどん赤く染まっていく。あわあわと開く口が何かを言おうとして、そして止める。
凪は一度口を引き結んでから。俺の腕を取った。
「ちょっとだけ、来てください。蒼太君」
「……凪?」
目の前にもうショッピングモールがあるのだが……。しかし、凪は全然違う方へ歩き始めた。
五分ほど歩いた場所……そこで、凪は何かを探すかのように。きょろきょろと辺りを見渡した。
「あそこなら……」
凪に腕を引かれるまま、歩く。そうして連れ出された場所はと言うと――
路地裏であった。いや。路地裏と言っても奥の方ではなく、大通りから二つ角を曲がっただけの場所だ。
「……凪?」
「ごめんなさい。さっきの蒼太君がすっごく可愛くて、我慢出来なくなったんです」
凪が一度手を解いた。腕にはほんのりと凪の温かさが残っている。
凪の蒼い瞳がじっと俺を見つめる。
「やっぱり私、蒼太君が欲しいです」
ゆっくりと手を伸ばして、広げて。
「ちゅー。してください」
そう、言った。
「……ッ!?」
「分かってます。その。TPOは弁えなければいけない、と。でも、今日……今だけ。お願い、します」
凪の顔は赤く火照り、その瞳は熱を持っている。
ここは路地裏。しかし、奥の方までは行っていない。
見ようと思えば見られる場所ではあるが、好き好んで見る場所ではない。
もちろん、人が入って来ない可能性はゼロではない。というか、人通りが少ないという事はそれだけ危ない場所だという事でもある。
……しかし、凪をこれ以上待たせるのも酷な気がした。
辺りを一度見て。誰も居ない事を確認してから。改めて凪を見た。
「凪。後で説教だからな」
「はい。いっぱい叱ってください」
凪の背が壁に当たらないように右手で抱き、唇を重ねた。
「……ん」
厚着をしていても、じっくりと凪の柔らかさが全身に伝わってくる。
凪の左手がさまよっていて、手を近づけるときゅっと指を絡められた。
凪の唇から盛れる甘い吐息が頬を掠め、耳をくすぐる。
ゾワゾワと背筋に甘い快楽が走った。
これは、良くない。
「……あと、すこし」
凪に言われるがまま、再び唇を重ねる。
うっすらと開いた瞼の奥には、とろんと熱の篭った蒼い瞳が覗いている。
「大好き、です」
良く、ない。
普段と違う場所でのキス。背徳感が心を撫で、甘い快楽を生み出す。
外なのに凪に求められた、という事実が脳に幸福物質を送り出している。
思考がぼやけ、凪に染まっていく。それが――嬉しく思ってしまい。
それでも。
「……ぁ」
凪から唇を離した。陽の当たらない場所でもあるので、そこまで良くない空気が肺を満たしていく。
しかし。だからこそ、それがより思考を鮮明にしてくれた。
しばらくそのまま、凪と見つめ合った。その蒼い瞳からはどんどんと熱が引いていく
「……ご、ごめんなさい」
「……いや。俺も共犯だ」
そもそも、凪に我慢を強いているのは俺なのだから。
「とりあえず戻ろう。場所が悪い」
「は、はい!」
凪と手を繋いで路地裏から出る。特に何事もなく、そこから出る事は出来た。
「あ、あの……本当にごめんなさい」
「謝らないでくれ。俺にも責任はある」
凪には色々と我慢をして貰っている。
……俺に覚悟があれば、こうなる事もなかったのだ。
「……で、ですが」
「俺も……凪に求められて嬉しかったから。でも、それはそれとして。ああいう場所は危ないからな。お互い注意しよう」
「は、はい」
今回は運良く誰にも会わなかったが、もし誰かに見つかったら……それも、不良などに見つかったらと思うと気が気でない。
「そう、ですね。一応、今日は大丈夫だと分かっていましたが。気をつけます」
「……?」
今日は大丈夫、という意味がよく分からなかったが。凪は俺の手をぎゅっと抱きしめ、歩き始めていた。
「それでは。行きましょうか」
「あ、ああ。……最初はどうする? 色々あるが。服でもご飯でも、その他でも」
「良い時間なので、先にご飯食べても良いですか?」
「分かった。ご飯も色々あるから、一緒にマップでも見ながら決めよう」
「はい!」
色々とあったものの。やっと、ショッピングモールに入る事が出来たのだった。
◆◆◆
「あ」
思わず、足を止めてしまった。それが良くなかった。
二階に人は多くなかった。一階の服屋でセールをしていて、そこに人が集中していたから。
だから、俺が気づくのと同時に。向こうも気づいたようだった。
一度、視線を外したから気づいていないかと思ったが。綺麗な二度見を決められた。
「……どう、するかな」
「あの人達が、でしょうか?」
嫌な汗が額に浮かんでしまう。
凪は当然そんな俺にも気づいていて……少しだけ、言葉を返すのを躊躇ってしまった。
しかし、すぐに分かる事だ。
「……ああ。昨日の奴らだな」
「なるほど」
凪はスッと目を細めて。ベンチに数人で固まっている彼らを見た。
「任せてください」
凪が強く手を握り。俺の目を見てそう言った。
「しかし……」
「これでも私、お父様とお母様の娘なんですよ? ……色々な事がありましたが。私、いっぱい学んできたんです」
それと、と。凪は一瞬目を伏せ――
「私、怒ってるんですよ。結構」
ゾクリ、と。背中を冷たいものが刺した。
凪は一切、俺を見ない。その瞳は彼らを見据えていた。
隣に居るだけでも分かる。
切り替わったのだ。【氷姫】へと。
「ちょっとだけ、可愛くない所を見せるかもしれませんが」
その瞳は冷たく。
――まるで、深い……陽の光が入らないほど深い、海の底のようだった。
しかし。凪に握られた手は優しく、暖かい。【氷姫】ではあるが……あの時とも少し違うような気がした。
そんな御託を心の中で並べながらも。俺は凪に目を奪われていた。
こんな状況だというのに。
とても綺麗だと、思ってしまったのだった。
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