第66話 恩師

「……なあ、凪」

「なんですか?」

「少し距離、近くないか?」

「いつも通りじゃないです?」

「それは……そうなんだが」


 白山さんとハクと別れて、しばらく歩いていると。ふと違和感を覚えた。

 否。違和感を覚えたと言うと少しおかしい。違和感を抱かない事に違和感を覚えたのだ。


 具体的に言うと、普段家で接する距離に凪が居た。

 肩が触れ、手をぎゅっと繋がれ。……肘には分厚い感触の奥から柔らかいものが当たっているのが伝わり。右半身からは凪の体温が伝わってきた。


 不思議なのが、別に歩きづらくなっていないという所だ。


 歩調は自然と合い、普通に会話をしながら歩けていた。だからこそ、違和感を抱けなかったのだが。


 かなり距離が近い。足を止めて顔を向けると、すぐそこに凪の顔がある。


「……え、ええとだな。一応ここ、外だし」

「人の目はありませんよ?」


 凪の言う通り、この辺はあまり人が居ない。しかし、ゼロかと聞かれると怪しい所がある。


「いつ誰が来てもおかしくないぞ」

「そ、その時は見せつけちゃいましょう!」

「見せつけちゃいましょうって……」


 その言葉に苦笑いをして――


 やっと俺は、凪の思惑に気づいた。

 凪と視線が絡む。その瞳は柔らかく俺を見つめていた。


「もし蒼太君の知り合いと会ったとしても、一目で分かりますから。……私と蒼太君が、恋人以上の関係だと」


 立ち止まり。凪は背伸びをして――そっと、俺の頬へとキスをした。


「という建前があれば、外でこんな事をしても良いかなと思いまして」

「……凪って策略家だよな」

「ふふ。私、結構ずる賢いんですよ? 特に蒼太君絡みだと」


 肩に顎を乗せて、凪はくすりと笑う。


「今日くらいは、良いか」

「はい! ……今日だけじゃなくても良いんですよ?」

「……お、俺の心臓が持たないから」

「残念です」


 その言葉とは反対に、その表情は楽しそうなものであった。自然と俺の頬も緩む。


「……学校まではあと五分も掛からないからな」

「はい!」


 凪が顔を離し、改めて手を繋ぎ直す。


「暖かいです。蒼太君の手」


 その手がそっと持ち上げられる。同時に俺の手も持ち上げられて。

 手の甲にぷにぷにとした感触が伝わってきた。頬に当てられたのだ。


「手の甲は少しひんやりしてますね」

「……ずっと凪と手を繋いでいたから、手のひらの方が熱が籠ってるんだろうな」

「それもそうですね」


 凪が手を外して。俺の手のひらを頬に押し当ててきた。


 手のひらからぷにぷにとした感触が伝わってきた。

 そっと親指で頬をくすぐる。

 凪は目を細め、嬉しそうに身を震わせた。


「少しくすぐったいです」

「悪い」

「いえ。嬉しいですよ」


 凪が俺の手を再び取って。……じっと、俺の手の甲を見た。


「凪?」

「……」


 そっと。その顔が手に近づいて。


 手の甲に、頬とは違う。柔らかくて暖かい感触が当たった。

「ッ……」

「それでは。今度こそ行きましょうか、蒼太君」


 凪は俺の顔を見て満足そうに頷いて、歩き始めようとする。……赤くなる頬を隠すように。

「凪」


 そんな彼女を、俺は呼び止めた。


「なんでしょ――」


 振り向いたのと同時に。その額へ、俺は唇を押し付けた。唇を通して、凪の体温が伝わってきた。少し熱い。


「……!」

「い、行くぞ。いつまでも止まっていたら……もし誰かに見られると変に思われる」

「……はい!」


 そして、やっと俺達は歩き始めた。一度凪を見ると、目が合い。凪は小さく微笑んでくれた。



 ――その顔は赤く、耳まで真っ赤になっていた。


 ◆◆◆


「ここが、蒼太君の通っていた小学校なんですね」

「ああ。とは言っても何の変哲もない小学校だけどな。……少し小さいくらいか?」

「そう、ですね。私の通ってた所よりは少し小さいかもしれません」


 この辺はそこまで子供が多い訳ではない。まあ、学校が潰れる事はないだろうが。


 グラウンドで走っているのはサッカー部だろうか。人数は少なく、俺が通っていた時は地域のサッカークラブと協力して色々やっていたはずだ。


 その時。グラウンドの近くに居た女性の教員と目が合った。


「……あの人」


 俺が呟いたのと同時に。その人が駆け出してくる。


「……! やっぱり、蒼太君だよね」


 女性の、とても若々しい先生。……ああ。そうだ。


「お久しぶりです、新田にった先生」

「すっごく久しぶり。元気してた?」

「はい、特に大きな病気にかかる事もなく。先生も息災のようで何よりです」

「……まあ、色々あったけど。元気だよ、こっちも」


 そこまで会話をして、凪がそわそわしている所が視界に入った。


「先生。こちらは俺の婚約者の東雲凪です」

「ご、ご紹介にあずかりました。東雲凪です」

「……婚約者?」


 聞き返されるだろうと思い、説明をしようと口を開いたものの。凪の方が早かった。


「い、色々ありまして。蒼太君とは将来を共にする事になりました。……家庭の事情なんかもありまして」

「まあ、そうなるな。話せば長くなってしまうし」

「へえー。もしかして政略結婚とか?」


 先生も悪気があって言っている訳ではないのだろう。しかし、俺はその言葉に喉を詰まらせてしまった。

 俺の顔を見て、先生もやってしまったという表情になる。


 凪は――


「いえ。違いますよ」


 ただ穏やかに。そう答えた。


「家族とすれ違ってしまい。主に私のせいで政略結婚をする事になっていましたが。蒼太君が全部。……全部、壊して。直してくれたんです。それで、もうお見合いの話が来ないように、と」


 淡々と説明をしている訳ではない。……しかし、辛さを押し殺している訳でもない。


「ですから、政略結婚というよりは政略結婚を防ぐためになります。……今の父なら話も受けないと思いますが。精神的な負担を和らげるためにもという意味もあってですね」

「……ごめんなさい。デリカシーに欠けた発言でした」

「いえ、もう立ち直ったので。……もちろん嫌々とかではなく、私も蒼太君も両想いです。それに、蒼太君と約束しましたから。二人で幸せになる、と」


 ほう、と。


 思わず、息を吐いてしまった。


 強い。

 まだ、そんなに時間は経っていないというのに。凪はとても強くなった。そして――


「綺麗になったな」

「ふぇ?」

「あ……いや。なんでもない」


 思わず言葉にしてしまっていた。


 なんだか……凪と話す前。ずっと眺めていた頃よりも。ずっと、ずっと綺麗になっているように見えた。


 気のせいではない。絶対。


「綺麗に、なってますか?」

「……ああ。凄く」


 今だと、凪の顔を見ているだけで一日経っても気づかないと思う……少し気持ち悪いので言わないが。


「そ、蒼太君だって。……かっこよくなってます。今だって目を合わせたら、安心もありますが……ドキドキしちゃいますし」

「……三十路の私には色々と眩しすぎる」


 その言葉にハッとなり、横を見ると。柵の向こうで先生が静かに涙を流していた。


「せ、先生?」

「ごめんねぇ。もう今年で三十一なのに彼氏の一人も出来ないから。……休日は部活の顧問で婚活も出来ないし。次に繋げられないし」

「お、お疲れ様です……?」


 先生も色々大変らしい。……先生なら結婚とかも出来そうなものだが。


 先生の言葉に凪と苦笑していると……ふと。先生の顔が変わった。


「……それと、蒼太君。一つ謝りたい事があったんだ」


 真剣な表情で。俺を見つめてきた。


「私は教師失格だった。……君の教師として。一度しかない小学校生活の最後の年を、楽しく過ごさせてあげる事が出来なかった」

「そんな事――」

「いいや。ある。あれからずっと、蒼太君の事が心残りだったんだ。一番大切な時期に、力になれなかったんだ」


 言葉の端々からは、後悔が滲み出ていた。

 その時。凪が小さく手を挙げた。


「……ごめんなさい。少し話、聞いても良いですか」

「ああ」


 凪はまだよく話が分かっていないはずだ。


「昨日話した事。覚えてるよな」

「……学生時代のお話ですよね」

「ああ。それなんだが、俺が小学校の時からあってな。新田先生は俺が六年生の時の先生だったんだが、色々お世話になってたんだ。あいつらに注意してくれてたりな」

「……それでも。彼らを変える事は出来なかった」


 確かに、先生の注意を受けても変わらなかった。だけど。


「嬉しかったですよ。先生が居なかったらもっと酷い事になってましたし」


 実際、小学六年生の頃はからかわれる頻度も減っていた。


「新田先生には感謝しかありません。本当に」

「蒼太君……」

「だから、改めて言わせてください。ありがとうございます」


 一度、凪から手を離して。頭を下げた。


「でも、私は……」

「先生。こういう時は一言で良いんですよ」


 凪の言葉に先生が口を噤む。


 そして――


「どう、いたしまして」


 そう返してくれた。


「どういたしまして、なんて。何年ぶりに言ったかな」

「俺の家ではそう教わったんです。お礼は素直に受け取る、と。その方がずっと、気持ちが良いからって」

「……昔から思っていたけど。良い家庭に産まれたんだね」

「はい。それはもう、とても良い家に」


 もし、父さんと母さんが居なかったら。俺は道を踏み違えていたかもしれない。


 先生は小さく笑い、グラウンドの方を向いた。


「これ以上離れていたら親御さんからクレームが来るからね。……最後に」


 先生が俺を見て。


「色々と偶然が重なってるとは思うけど。ありがとう、蒼太君。話してくれて。心のつっかかりが取れたよ」

「……どういたしまして」


 正直、先生にこれを言うのは少し躊躇ってしまったが。先程の事もあったので、言わない選択肢は消えていた。


「それと――凪ちゃん、で良いかな」

「はい。呼びやすいように」

「じゃあ凪ちゃんで。……凪ちゃん」


 先生が凪へと。柔らかく笑う。


「彼は私が知る中でも五本の指に入るくらいには良い子なんだ。心の底から彼には幸せになって欲しいと思ってる。……そして、彼が選んだ凪ちゃんにも当然、幸せになって欲しいと思ってるから」


 凪はじっと。先生の言葉を聞いていた。


「君達くらい若ければ、きっと色々な経験が出来るはず。きっとそれは、楽しい事だけではない。悲しい事や辛い事だってあると思う。でも、それでも」


 先生は。あの時から変わっていなかった。


「楽しんでほしい。人生という、長い道のりを……彼と共に」


 その言葉は――卒業式の日に掛けられた言葉と同じものであった。


「はい」


 凪はまっすぐと先生を見て、そう返した。


「蒼太君と一緒なら、幸せになれる。……楽しい毎日を送れると、確信してますから」


 凪は俺を見て柔らかく微笑んだ。


「今日より明日。明日より明後日の方が楽しくなります。だって、私には蒼太君が居て……蒼太君には私が居ますから」


 その瞳には一切の曇りがない。それがまた嬉しくて。


 その頭に手を乗せると、凪は嬉しそうに目を瞑る。


「蒼太君。こうして頭を撫でるのも、日に日に上手になってるんですよ」

「……そうなのか?」

「はい。今だとこうして撫でられていると、嬉しくて、幸せで……思わず眠っちゃいそうになるんです」


 凪の言う通り、その瞳はほんの少しだけとろんとしている。

 先生は俺達を見て、「言わなくても分かってたか」と笑っていた。


「それじゃあ私は戻るよ。最近は特に冷え込んでるから。二人とも、風邪引かないようにね」

「はい。先生も気をつけてください」


 凪が軽く頭を下げるのを見てから、先生はグラウンドへと戻った。


「……良い先生だったんですね」

「ああ」


 凪は少し寂しそうに。俺を見つめていた。


「凪?」

「前から思ってたんです。もっと、ずっと早く。蒼太君に出会えていたらなと」

「……俺も思う事はあったが。仲良くなれるか分からないぞ?」

「仲良くなれますよ」


 俺の言葉に間を置かず、凪は答えた。


「だって、私と蒼太君ですから」


 その瞳には――そして、顔には一切の陰りがない。


「そうだな」


 きっと……いや。必ず。俺も凪に一目惚れをするだろう。


 その世界も少し見てみたくなったものの……。


「今で十分だな。こうして凪と一緒に居られるから」

「ふふ。確かにそうですね。今が一番なのは確かです」


 凪が指を絡め、そして歩き始める。


「次はどこに行きましょうか」

「そうだな……中学もそんなに遠くないが、ここからだとショッピングモールが近い。小腹も空いてきたし、そこに行かないか?」

「はい! お洋服も見たいです!」

「ああ」


 そんな会話をしながら。……頭の中では凪の言葉が反復していた。



『今日より明日。明日より明後日の方が楽しくなります。だって、私には蒼太君が居て……蒼太君には私が居ますから』



 つい嬉しくて、頬が緩みそうになる。


「凪」

「なんでしょう?」

「大好きだよ」


 手の力をほんの少し強めると、凪は同じように返してくれる。


「私も大好きですよ。蒼太君」


 たった数言の短いやり取り。


 それだけで、俺の心は暖かくなり、幸せで満たされていくのだった。

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