第65話 少しずつ

 自然と目が覚める。

 それは、俺の中では珍しい事だった。


 いつも学校へ行く時はアラームに起こされ……最近だと、凪に起こして貰う事が度々あった。

 休日も洗濯や買い物に行かないといけないので、アラーム頼りだ。


 ふわりと、甘い香りが鼻をくすぐり。目を開ける。

 寝ぼけ眼でもすぐに分かった。目の前に何があったのか。


 凪の顔があった。


 ぼんやりとした視界の中、その蒼い瞳が俺を見つめてくる。


「おはようございます、蒼太君」

「……なぎ?」

「はい、私です。蒼太君の凪ですよ」


 笑い混じりにそう答える彼女を――俺は抱きしめた。なんとなくで、理由はない。


「そ、蒼太君?」

「……なぎ」


 ぼんやりと曇りがかった思考の中。俺は凪を抱きしめる。


「ふふ。蒼太君、まだ眠いんですね?」


 その問いかけに、こくりと頷いた。凪の笑い声は耳に心地好い。


「分かりました。まだ時間も早いですし。……二度寝、しちゃいましょうか」


 そう言われた後に……ぎゅっと、力強く抱きしめられた。

 全身が暖かく、柔らかいものに包まれて。心の底から、安心してしまう。


「それでは。おやすみなさい、蒼太君」

「……おやすみ、なぎ」


 すぐに。俺の意識は海の底まで落とされていく。


「……だいすきだよ」

「はい。私も大好きですよ」


 そう、言葉を残しながら。


 ◆◆◆


 ハッと、俺の目は覚めた。


 何か、凄く恥ずかしい事をした気がする。……いや、したな。


 寝ぼけてはいたものの、記憶はある。本当に何をやっているんだ、俺は。


 顔が火照りながらも――腕の中で寝ている凪を見た。



 すやすやと、心地良さそうに眠っている。その姿は綺麗な人形のようにも思える。


 その髪に触れると、くすぐったそうに身を捩った。その姿が可愛らしく……愛らしくて。



 少しだけ。悪戯心が芽生えてしまった。


 ……起きないよな?


 そっと、手をずらして。

 頬に触れる。


 凄く触り心地が良い。絹のようにすべすべとしていて……もちもちとしている。


 起きている時に何度か触る機会はあったが。こうしてじっくり触るのは初めての事である。

 指でつついたり、手のひらで撫でたりしていると。とある事に気づいた。


 凪の口角が持ち上がっていたのだ。



「……起きたのか?」


 そう口にすれば……凪の口から笑みが零れた。


「ふふ。ばれちゃいましたか」

「い、いつから……」

「ついさっきです」


 凪の目が開かれ――宝石のように綺麗な、蒼い瞳が覗いてくる。

 優しげな瞳は、俺をじっと見つめていた。


「ほっぺたが暖かくて……気持ちよくて。つい起きちゃいました」

「す、すまない」


 まだ頬を撫でてしまっていて。

 手を離そうとし――凪の手が、それを止めた。


 俺の手を頬に押し付けるようにして。凪が微笑む。


「もっと。いっぱい触ってください」


 ゾクリと。その言葉は、俺の心を優しく撫でた。


「蒼太君に触られるの、好きですから。暖かくて、ポカポカして、ふわふわして。……幸せな気持ちになるんです」


 凪の手が俺の手の甲を撫でた。少しくすぐったい。


「頬に触れられるのも、頭を撫でられるのも……抱きしめられるのも、キスをされるのも。全部、全部大好きですから」


 凪の手がそっと、俺の手を取り――胸に抱いた。


 ぎゅっと、押し付けられて――手のひらに柔らかい感触が伝わってきた。


「な、凪……」

「良いんですよ、蒼太君なら…………こっそり触ってくれるかと思ってたのに」


 少しだけいじけたように。凪は呟いた。


「蒼太君なら触る事はないとも思いましたが。……少しくらい迷ってくれても良かったんですよ」


 その言葉を聴きながらも。顔に血が上って行く。自分の耳まで熱くなっていく。


 手のひらから伝わる柔らかい感触に――そして。ドクドクと伝わってくる鼓動に、頭が埋め尽くされていく。


「こ、これくらいは。スキンシップのうち、です。……蒼太君としか出来ないし、やりませんが」


 凪は顔を真っ赤にしながらも、微笑んでいた。


「こういう所は私に遠慮してる節があるので……伝えておこうかと」

「そ、そうか」

「少しずつ、慣れておかなければ……いざという時、大変になっちゃいますから」


 心臓が痛いくらいに大きく鳴り始める。熱が上がり、額に汗すらも滲みそうになってきた頃だった。


 スマホがヴー、と震えた。


 思わず驚いてしまい、体に力が入った。


 ――力が、入ってしまった。



 凪は目を見開き、驚いていて……視線をその下に向けると。

 指が、沈んでいた。


 むにゅりと。

 ……例えるなら、綿あめを掴んでいるような、プリンを手で鷲掴みにしているような。そんな感触だった。


 そんな、馬鹿げた事を考えてしまいながらも。俺は手を離した。


「す……すまない。驚いて、力が入ってしまった」

「い、いえ……」


 凪は顔を真っ赤にして。しかし――怒る事はなかった。


「そ、蒼太君なら構いませんよ。……ほ、ほんの少しだけ痛かったですが、それも蒼太君がしてくれたと思えば……嫌ではありませんでしたし」


 それどころか――柔らかく微笑んで。


「な、なんなら。もっと触っても、良いんですよ?」


 頭がふらついた。ぐらりと、心が揺れる。


 これは――危ない。



 一歩間違えたら、凪に依存してしまいそうで。

 ただでさえ、凪が居ないともう生きていけなくなってしまっているのに。


 ……もう手遅れでは?


 いや。そんな事はない。ない、はずだ。



「こ、これ以上は。本当に我慢、出来なくなる。……母さん達も居るから、な」

「……それもそうですね」


 我慢出来なくなれば、絶対に理性も飛ぶ。家に母さん達が居ることすら忘れるだろう。断言出来る。


 凪が小さく笑い、俺に近寄ってきた。


「このままだと恥ずかしくなっちゃいそうなので。一回だけ、ぎゅーってしてください」

「……ああ」


 凪が手を伸ばしてきたので、その手を引いて。抱きしめる。


「今日も楽しみましょうね、蒼太君」

「ああ。……めいっぱい楽しもうな」


 力強く抱きしめられ。それに応えるために、俺も抱きしめて。


 そして、二人でリビングへと向かったのだが――


 手のひらに残る感触は、簡単には消えてくれなかった。



 ちなみに先程の通知は母さんからで、『起きたら返事してね。ご飯作るから』という内容だった。


 ◆◆◆


「ここが通学路だな。小学生の時の」

「へえ……毎日ここを通ってたんですね」


 ただの道で、特に目新しいものはない。そのはずなのに、凪は面白そうに辺りを見渡していた。


「私、小学校の頃はいつも運転手さんに送って貰っていたので。こういうのも新鮮なんです」

「そうか。……あ」


 その時。

 奥の方から一つの影が飛び出してきた。


「わふっ!」

「ハク!」


 それは大きくて真っ白で、もふもふな犬。ハクだ。


「……ああ。蒼太君、帰ってきてたのねぇ。道理でハクが走り出した訳だ」

「お久しぶりです、白山さん」


 そして、その後ろから現れたおばあさん。白山さんである。こちらも元気そうでなによりだ。


「……え、えっと。こんにちは」

「はい、こんにちは」


 凪が戸惑っていたので、俺はハクを撫でながら紹介をする。


「白山さん。彼女は俺の婚約者の凪です」

「し、東雲凪と言います。どうかお見知りおきください!」

「あんれまあ!? 蒼太君、結婚したのか?」

「ああ、いえ。まだ婚約者です……結婚はするつもりですが」

「そうかいそうかい。良かったなあ。こんなべっぴんさんに会えて」


 白山さんはニコニコと笑い、俺も頬が緩んだ。


「凪、この方は白山さんだ。ハク……この子、ハクって名前なんだが。昔から懐かれててな」

「どうも、白山です。蒼太君、よくハクの遊び相手になってくれててねぇ」

「そ、そうだったんですね」


 ハクはサモエドと呼ばれる犬種で、結構大きい。しかし、人懐っこくて、よく笑顔を見せてくれて。可愛いのだ。


「蒼太君もおっきくなったねぇ。昔はあんなに小さかったのに」

「ええ。……とは言っても二年ぶりとかですが」


 ハクをわしゃわしゃと撫でると、嬉しそうに顔を擦り付けてきた。


「お手」

「わふっ」

「偉いなぁ」


 ちゃんと手を乗せてくれるハク。またもふもふの毛皮を撫でると、ハクは目を細めて気持ちよさそうにした。


「わ、私も。撫でてみて、良いでしょうか?」

「ええよええよ。ハクは人懐っこいんでねぇ。噛んだりしないから安心してなぁ」


 白山さんの言葉に凪は頷き、しゃがむ。

 そして、手をハクへと寄せた。ハクはすんすんと凪の手のひらを嗅いで……。


 手のひらに顔を擦り付けた。撫でる許可が降りたのだろう。


「し、失礼します!」


 凪は礼儀正しくそう言ってから、ハクの頭を撫でる。

 次の瞬間、凪の目が光り輝いた。


「わあ……もふもふです」


 凪はハクの頭を撫で、背中を撫で……もみくちゃにした。


 あまり触りすぎるのは、とか普通の犬なら思っただろうが。ハクは撫でられるのが大好きなので問題ない。昔からそうだった。


「……可愛いです」

「ふふ、ありがとうねえ」


 凪とハクが戯れるのを見て。ふと、俺はとある事を思いついた。


「なあ、凪。写真撮っても良いか? 記念に」

「はい、良いですよ。……あ。私も後で撮らせてください」

「ああ。分かった」


 凪はハクを撫でながら俺を見て、ニコリと笑った。ハクも釣られて俺を見て……その顔は笑っていた。



 かなり良い写真が撮れた。


「……壁紙にしても良いか?」

「はい! 私もする予定だったので!」


 許可を貰い……写真を改めて眺める。


 ハクはもちろん、凪も可愛く……これだけで来年は頑張れそうだった。


 ◆◇◆


「……お。あの二人まーたイチャついてんな?」

「どしたの? みのりんとなぎりん?」

「おう。ほら、これ」


 霧香にスマホを見せた瞬間。スマホごと奪い取られた。


「えー! 可愛い! なにこのわんちゃん! あとなぎりん可愛い!」

「確かサモエドじゃなかったか? ほら、東雲のアイコンは蒼太になってるぞ」

「まじじゃん! うわー! みのりんも楽しんでんね!」


 向こうは向こうで楽しんでいるようだ。


「よっしゃ! 俺らもドッグカフェ行くか!」

「おっしゃあ! 行こー! あ、ひかるんも呼んでいい?」

「おお! 呼べ呼べ! あいつらに写真送り付けてやろうぜ!」



 良かった、本当に。一時はどうなる事かと思ったが。


 今はあんなに笑えてる。


「……良かったな、親友」

「んー? なんか言った?」

「なんでもね。独り言だ」

「ふーん……親友ねぇ」

「聞いてたんじゃねえか。忘れろ」


 霧香はやーだよっと楽しそうに笑う。


「瑛二もかっこよかったけどね。あの時」

「……おうとも。霧香の彼氏だからな」

「おーおー! 言うねぇ! そりゃそーだよ。自慢の彼氏だもん」


 カラカラと笑う霧香を見て、最後にもう一度蒼太達の写真を見て。


『このままだと連絡を取る時にお前と東雲を間違えるぞ』

 と送ったのだった。程なくして、二人のアイコンは同じ――二人の間にサモエドが写ったものへと変わったのだった。

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