第73話 年末年始

 かち、かち、と。時計の音が部屋の中を飛び回る。それと同時に、テレビからは鐘の音が耳へと届いていた。


 すぐ隣には凪が居る。

 凪はベッドに腰掛け、そっと俺の手に手を重ねていた。時折俺の手を大事そうに両手で包み、手の甲を撫でたり、手のひらをくすぐってきたり。

 時にはそっと俺の手を持ち上げ、自分の頬へと置いてきたりもした。


 求められるまま、そのもちもちな頬を撫でると。嬉しそうに小さく声を漏らしていた。


 会話はない。しかし、全然苦ではなかった。むしろ好きであった。こんなまったりとした時間も。


 そして――


 机に置かれていたスマホのアラームが鳴り。除夜の鐘は最後の一突きを迎えようとしていた。


 年が変わったのだ。


 凪が俺から手を離して立ち上がり。背筋を伸ばし、姿勢を改めた。

 俺も凪と向かい合わせになるよう立ち上がる。


「あけましておめでとうございます、蒼太君」

「ああ。あけましておめでとうございます、凪」


 お互いに一礼をして。顔を見合わせると、凪は柔らかく笑った。


「去年は蒼太君のお陰で、今まで生きてきた中で一番幸せな一年を迎える事が出来ました」

「俺も。凪のお陰で楽しくて、一番幸せな一年だったよ」


 凪はそっと顔を近づけてきた。俺はその背中を抱いて――


 口づけをした。

 凪の甘く、落ち着く匂いが脳を満たしていく。


「去年は九月からしか蒼太君と出会えませんでしたが。それでも、こんなに幸せになれたんです」

「まだ、三ヶ月しか経ってないのか」

「ふふ。もう三年くらい一緒に居る気分ですね」


 この三ヶ月で交際し、婚約者とまでなった。人生、何が起きるか分からないものだ。

 まだまだ長い道のりではあるだろうが。その分幸せが待っていると思えば、楽しみになる。大変な事もあるだろうが。


「今年はもっと幸せにしますからね? 覚悟してください」

「……ああ。俺も、もっと凪の事を幸せにする」


 凪と一緒なら。乗り越えられる。必ず。


 俺の言葉の後、凪が頬に頬を当ててきた。

 もちもちでやわらかいそれが、すりすりと頬を擦る。


「大好きです、蒼太君。もう絶対に。何があっても離れませんからね」

「ああ、俺だって離れたりしない。凪は俺が幸せにする」

「私もです。他の誰でもない、私が蒼太君の事を幸せにします。必ず」


 何せ、縁談をぶち壊した前科があるのだ。

 凪の事を幸せにする自信がないなんて、言えるはずもないし――そもそも思ってもいない。


「大好きだよ、凪」

「はい!」


 絶対に――この笑顔を曇らせたりしない。


 凪がまた唇を重ね。そのままぎゅっと、抱きしめられた。


 気がつけば、その唇は耳たぶに当てられていて。


「愛しています」


 そう、囁かれて。全身を震わせそうになった。


 凪が離れ。何事もなかったかのように笑う。


「ふふ。それじゃあお義母さんとお義父さんにも新年の挨拶、してきましょうか」

「そう、だな」


 これは……もうしばらくは勝てそうにない。そんな気がした。


 ◆◆◆


『あけましておめでとう、凪。蒼太君』

『あけましておめでとうございます。凪。蒼太君』

「あけましておめでとうございます。宗一郎さん、千恵さん」

「あけましておめでとうございます。パパ、ママ」


 父さん達に新年の挨拶をして、瑛二達と挨拶をするために少しだけ電話をした後。


 宗一郎さん達とビデオ通話をする事になった。千恵さんからの提案らしい。


 勉強机の前に、椅子を並べて座る。少しだけ狭い気もするが、そう長い時間通話をするつもりもないから大丈夫だろう。


 机の上に立てかけているスマートフォンから、宗一郎さんと千恵さんが見える。画角からして向こうはPCのようだった。


 まず初めに宗一郎さんに伝えねばと、俺は頭を下げた。


「宗一郎さん。裏で色々やっていただけたようで。本当にありがとうございます」

『気にしなくて良い。君はもう私達の息子同然なんだ。……お義父さんと呼んでも良いんだぞ?』


 その言葉に俺は苦笑しそうになって……やめた。



「そうですね。もしお二人が宜しければ、お義父さん、お義母さんとお呼びしたいです」



 これから仲良くしていかなければいけない。

 それなら、距離を縮めるのは早い方が良い。


 俺としても。二人とは仲良くなりたかったから。


 すると――宗一郎さんがいきなり目を瞑り。目頭を押さえた。


『すまない。最近歳のせいか、やけに涙脆くなってしまったんだ』

『ふふ。宗一郎さんったら。蒼太君にお義父さん、と呼んで貰える日を楽しみにしてたんですよ? もちろん私もなんですけど』

「そう……だったんですか」


 それならもっと早く言えば良かったな。

 そう思いながらも、俺は二人を見て頭を下げた。


「それでは、改めて。よろしくお願いします、お義父さん。お義母さん」

『ああ。よろしく頼む。蒼太君』

『ふふ。よろしくお願いします。仲良くしてくださいね』


 ……千恵さん。ではなく、お義母さん。笑顔が増えているような気がする。

 いや、お義母さんだけではないな。お義父さんも、幾分が空気が和らいでる。そんな気がした。


『さて。夜も遅いし、あまり長話をする訳にはいかないな』

『いつも通りだと凪が眠くなる頃ですからね』


 お義母さんの言う通り、凪の目は少しとろんとし始めてきていた。年末は年明けまで頑張って起きるらしいのだが、もう限界のようだ。


『こちらに来るのを楽しみに待っている』

「はい。近々お伺いします」

『そんなに畏まらなくても良いんですよ』

「は、はい」


 ……少しずつ。普通に応対出来るようにしなければならない。


 もう、家族なのだから。


『それでは二人とも、おやすみ』

『おやすみなさい』

「はい。おやすみなさい」

「……おやすみなさい」


 凪は本格的に眠くなってきたらしく。うまく呂律も回っていなかった。

 二人に挨拶し、電話を切る。すると、凪は糸が切れた人形のようにしなだれかかってきた。


「凪。もう寝るか?」

「……ん」


 凪がゆるゆると首を振る。その姿は小さな子供のようだ。


「せっかく、ですから。まだ、おきます」

「……そうか?」

「はい」


 そう言いながらも、その目は半分閉じかかっている。

 苦笑し、その体を抱きとめた。


「初詣。今日行こうと思ってるんだが行くか?」

「いきます……」


 ……これは。返事も起きた頃には覚えてないかもしれないな。


 その膝裏と背中に手を回した。ベッドはすぐそこなので大丈夫だろう。


「持ち上げるぞ。一応掴んでくれ」

「は、い」


 凪の手がそっと俺の服に添えられた。その力はかなり弱いが……まあ。大丈夫だろう。


 椅子から持ち上げる時に少し体勢を崩しかけたが、どうにか凪をベッドへ運び終えた。


 そのまま電気を消し、隣に寝転がる。凪は半分眠りながらも、手を広げてきた。


「……ぎゅー」


 眠たくとろんとしていて、甘えるような声。しかし、その声色にあざとさは無い。

 子供が親に甘えるようでいて……しかし、それとも少し違う。


 甘えるのと同時に、甘えて欲しいとでも言うように。その瞳にはうっすらと慈愛の光がともっていた。


 それに応えるように、凪の背中に腕を回す。もう片方の腕を肩の下から後頭部へと回し、その髪を梳くように撫でた。

 そのサラサラな髪の毛には引っかかりもなく、撫でるのと同時に凪の頬がゆるゆるになった。


「いい匂いがします」


 満足そうに声を漏らす凪に苦笑して。その細く……しかし、柔らかい体を抱きしめた。


 とくん、とくんと。凪の心臓の音が聞こえてきて。その暖かさが伝わってきて、安心する。


 凪とハグをすると、安らぎを覚える。……これが場合によっては、正反対に位置づけられるものを刺激するのだから不思議だ。


 凪の体から体を少しだけ離した。

 すぐ目の前に綺麗な顔があり、凪は小さく唇を突き出していた。本当に小さくである。


 その頬を撫で、唇を重ねる。

 毎度の事だがその柔らかさに驚いた。

 いつまでも、したいと思う。

 それくらい、幸せが溢れていた。


 しかし、眠そうにしている凪をそこまで付き合わせる訳にはいかない。


 一秒という短い時間だったものの、心は十二分に幸せで満たされていたから。


「おやすみ、凪」

「……おやすみなさい。蒼太君」


 そうして俺達は――新年を迎える事が出来たのだった。


 楽しくて、嬉しくて。幸せな始まりだった。


 ◆◆◆


「人、いっぱいですね」

「一日だからな。予想はしていたが……日を改めるか?」

「いえ、大丈夫ですよ。蒼太君と一緒なら」


 その言葉にふと。思う事があった。

 今更。それはもう、めちゃくちゃ今更なのだが。


「あー。長らく聞くのを忘れてたんだが。凪。一つ良いか?」

「はい、なんでしょう?」


 歩こうとした凪が立ち止まり、振り向く。それと同時に、編み込まれてポニーテールにされていた髪もくるんと揺れた。今日はいつもと少し髪型が違うのだ。

 きょとんとした顔をする凪へと。俺は口を開く。


「もう男の人は大丈夫なのか?」

「ああ。その事ですか」


 凪は俺の腕を軽く抱きしめて小さく笑い。


 背伸びをして、耳に口を近づけてきた。


「貴方を誰にも渡したくないと、思わず一人で電車に乗って迎えに行ってしまうくらいには。もう大丈夫なんですよ」

「――ッ」


 その言葉を聞いて。

 脳内では二つの記憶が想起されていた。


 この前、俺を迎えに来てくれた時。学校で婚約者だと周りに伝えた時の記憶だ。

 そして、あと一つは――



 あの雨の日。俺が傘を忘れて、凪が迎えに来てくれた時の事。


「凪は――」


 聞こうとして、しかし。それを聞くのは野暮だと俺は口を噤んだ。


 だが、凪は気づいていたようだった。口の端を持ち上げて笑い……人差し指を一本、唇の前に立てた。


「内緒です」


 それにウインクを添えられる。

 ……ああ、もう。


 何でこんなに可愛いんだよ。



 熱を持つ顔を隠すように、手で覆う。

 凪はそんな俺を楽しそうに見ていたのだった。


 ◆◆◆


 目を閉じ、祈りを捧げる。


 ――去年は今までで一番大きく人生が変わった一年でした。

 ――どうか、今年もトラブルや不幸な事が起きず。凪と、そして友人や家族と平和に暮らせますように。


 そう願って、祈りを解く。

 横を見ると、凪はまだ目を瞑っているようだった。


 その睫毛は長く、目を瞑っているとそれがより顕著に見える。


 普段の、感情が顕にされている表情ももちろん好きだ。

 ただ、こうして目を瞑り。祈っている姿は――


 ――綺麗、だな。とても。


 その時、凪の瞼が開いた。蒼い瞳が顔を覗かせてきた。


 その海のように蒼い瞳は俺を見つけ、淡く優しい光が点っていた。


「人もいっぱい待ってますので。とりあえず離れますか」

「そうだな」


 凪とはぐれないように手を繋ぎ、その場から離れる。


「神様にありがとうございますと。お伝えしていたんです。蒼太君と同じ車両に乗せていただけた事に、ですね」


 凪の呟きは小さかったが、この賑わう人々の中に居てもしっかりと聞こえた。


「蒼太君は勇気を出して、私を助けてくれました。そこは神様ではなく蒼太君に感謝するところなんですが。蒼太君と同じ車両に乗せてくれた事への感謝ですね」

「そう、だな」


 神様には、凪と出会わせてくれた事にも感謝しなければならない。


「もちろん祈願もしました」


 凪の言葉になんだろうと見つめ返す。

 凪はもう片方の手を自身の胸に重ね、小さく口を動かした。


「家族やお友達も当然なんですが。特に蒼太君の健康を祈願しました」

「……まあ、怪我や病気はしないに越したことはないもんな」

「それもありますが。一番はですね」


 凪の瞳が俺を撃ち抜いた。柔らかく、淡い光は心をドクドクと暖めてくる。


「蒼太君を幸せにするのは神様ではなく、私なんです」


 どこか得意げに言われたその言葉。

 とても、凪らしい言葉に俺の頬は緩んだ。


「蒼太君が健康なら。……いいえ、例え健康でなかったとしても。私が支え、必ず幸せにしますよ。健康なのが一番なので、そう願いましたが」

「……ああ。そうだな」


 心の底から、強く思う。


「凪が恋人で……婚約者で良かった」

「ふふ。私も蒼太君が婚約者で良かったです」


 改めて。背中を押してくれた瑛二達に礼をしなければならないな。


 そのまま歩き、境内から出ると。凪が小さく身震いをした。


「人が一気に減るからか冷えますね」

「ああ。凪」


 人の通る道なので隅の方に寄って、凪を呼ぶ。そして鞄の中からマフラーを取り出した。


「……! 持っててくれたんですね!」

「凪から貰った物とはいえ、ちゃんと使わないとな。毎日持ち歩いてるよ」


 手袋も持ってはいる。いるのだが。


「その。手袋を付けると凪の体温が感じにくくなってしまうから。……悪い。めちゃくちゃ気持ち悪い事言った自覚はある」

「ふふ。全然気持ち悪くありませんし、嬉しいですよ」


 凪の両手が俺の手を包み込む。その蒼い瞳は柔らかく、俺の目を見据えていた。


「私も蒼太君の体温が感じられないと、少し寂しいですし」


 その言葉に思わず変な声を漏らしそうになり。一つ、咳払いをして誤魔化した。


「それなら良かった。じゃあ巻くぞ。少し近づいてくれ」

「はい!」


 凪は笑顔で頷き、俺の隣に近づく。そのままマフラーを二人で巻いた。手袋は一人で外に居る時にしよう。


「あったかいです」

「ああ、俺もだよ」


 隣を見れば――すぐそこに、凪の顔があった。さすがにここでキスをする訳にはいかないが。


 キスをしなくても、すぐ傍に凪が居る。それだけで俺の心は満たされていったのだった。



 冬休みは――もうすぐ終わりを迎えようとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る