第72話 VS理性 後編
「おしまい……ですね。少し寂しいです」
こそばゆくも心地好い感覚が消える。
凪の手が持ち上げられ、ほんのりとかかっていた重みが消えた。
「終わり、か」
「ふふ。蒼太君も寂しいですか?」
「……少し」
自分で言いながらも苦笑が漏れてしまう。
凪に甘えすぎだと自分で分かっていながらも――やめられない。
やめたくないとすら思ってしまう。
「それでは、次からは私がやりましょうね」
「い、いや。それは悪い」
「私がやりたいんです。私がやりたくて、蒼太君もされたい。噛み合ってるんですよ」
しかし……さすがに凪から施しを受けすぎでは。と考え。そこで俺は、まだ凪の腿の上に居た事を思い出し。起き上がった。
それと同時に一つ。良い事を思いついた。
「それなら、俺が凪の耳かきをする」
凪は一瞬、驚いたように目を見開いた後。
その目を細めて笑った。
「はい、お願いします。ですが、私は蒼太君が来る前にしてしまったので。今度ですね」
「ああ。分かった」
さて――
本来ならもう寝る時間だ。
少し早い気はするが、最近だと凪に引っ張られて俺も十時頃には眠るようになっている。いや。これはお互い様だな。凪も前までは九時頃には寝ていたし。
「蒼太君」
凪に名前を呼ばれる。
それは最近だとごく普通の事で、毎日何度も呼ばれる事でもある。
だが。完全に慣れたかと聞かれれば、俺は素直に頷く事は出来ない。
その軽やかな鈴のような声で呼ばれる度に、動悸は少しだけ早くなる。
さすがに、最初に比べると慣れはしているが。
その呼ぶ声にも色々と種類がある。
今日のご飯は何にするのか聞く時。
今日あった事を話そうとする時。
やる事がなく、何か話したい時。
甘えたくなった時。
全て、微妙に声のトーンが違う。その時の凪の感情によっても変わるので、判別は少し難しい。
そして、今回。俺を呼んだ凪は――
「こっち、来てください」
今まで聞いた事がない呼び方だった。続く言葉もあまり聞かないトーンである。
甘える時のようでいて、少し違う。
凪は俺を呼んだ後、壁に沿うようにしてベッドの奥の方に座り。そう言った。
「ああ」
なんとなく嫌な予感かしつつも、従わない理由もない。
「あ、蒼太君はあっちの方向に寝てください」
「……? 分かった」
凪の言う通り、俺は壁とは反対の方を向いて寝た。
一体何をされるのか、と考えていると。
「蒼太君」
耳元でそう、囁かれた。
「あんまり動かないでください」
全身を色々なものが駆け巡り。身を捩ろうとして、続けて言われた凪の言葉に俺は落ち着――けない。
その言葉も耳元で囁かれていたのだから。落ち着けるはずがない。
それに加えて、凪の息遣いが耳をくすぐってくる。思わず声が漏れそうになって、口を手で押さえた。
しかし凪は止まらない。
「今日、蒼太君にいっぱいいじわるされたので。その仕返しです」
いつもの声ではない。限界まで声を抑えた
凪が小さく笑う度にその吐息がかかり。ゾワゾワと背筋をくすぐる。
「という事なので、私は今から蒼太君の好きなところをいっぱい言っていきます」
本気か? と聞こうとして。俺はやめた。
今声を上げると、変な声しか上げられなさそうだ。
そうしている間にも凪は、楽しそうに続けていた。
「覚悟、してくださいね? 蒼太君の好きなところ、いっぱいあるので」
その言葉を皮切りに――地獄のようであり、天国のようでもある。
嬉しさと恥ずかしさで死んでしまいそうな時間が始まったのだった。
◆◆◆
「蒼太君はとっても気遣いが出来ます。最初の頃、私を安全な位置へ移動させるためにずっと扉の近くに居た事とか。知ってるんですよ」
まずい。
「扉の前に居るから、毎回乗り降りする人のために降りないといけなくて。そんな細かな気遣いの出来る所が本当に心の底から尊敬していますし。……私、大好きです」
本当にまずい。
少し慣れてきたら口を挟もうかと思っていたのに。全然、全く慣れる気配がない。
「あ、でも、自分の事を疎かにしちゃうのは良くないです。ご飯の事とか。……これから、蒼太君に足りない所は私が補っていくので大丈夫なんですけどね」
舌の動く小さな音と、その囁き声が鼓膜をそろそろと撫で上げ。
吐息がかかり、脳がスパークするかのような感覚に襲われる。
それだけではなく――肩に柔らかいものが当たってしまっている。
その柔らかいものが何なのかは言うまでもない。
そして、その柔らかいものの奥から。とくん、とくんと鼓動が伝わってきた。
「大好きですよ、蒼太君」
かなりの頻度で言われるその言葉に、また心臓が飛び跳ね。幸福物質が全身を駆け巡る。そのせいで、手が痺れてきたような気さえしてしまう。
「ふふ。そうして悶えてる蒼太君も可愛くて好きですよ」
「ッ……」
耳たぶに柔らかいものが触れた。
そっとキスをされたのだと、そう理解するまでに数秒も時間は要さなかった。
本当に――色々と、まずい。
何がまずいって。まさか、俺もここまでとは思っていなかったのだ。
頼むから、そこには気づかないでくれと願いながら。俺は目を瞑る。
「ずっと、努力し続ける蒼太君も大好きです。見ているとかっこよくて、私も頑張ろうって気持ちになるんです」
しかし。目を瞑るのは悪手だった。
視界を塞いでしまった分、耳にかかる吐息が。そして声が、より鮮明になってしまう。当然、肩に当たる感触もだ。
「……はぁ」
小さく凪がため息を吐いた。呆れとか、そういうマイナスなものではない。
まるで、大きく膨れた感情を吐き出すかのようだった。
そして。息を吐くという事は当然、俺の耳にかかるという事である。
「あ、ごめんなさい」
思わず身を震わせてしまい。凪も意図しないものだったのか、謝ってきた。
「蒼太君の好きなところ、まだまだあって……。つい、気持ちが溢れ出しちゃいました」
その言葉と同時に。肩に当たる感触と鼓動が消え、耳元にあった気配が離れた。
「蒼太君。こっち、向いてください」
いつもの声。その事に安堵しながら振り向くと。
「ぎゅって、してください。蒼太君」
手を広げて俺を待つ、凪の姿があった。
その顔は拒まれる事はないと確信しているようで……俺は少し。迷ってしまった。
「蒼太君?」
「その、だな。今は色々とまずいというか」
そう。まずいのである。……どうにか膝を曲げて誤魔化しているものの。ハグなんてしようものなら、ほぼ確実にバレてしまうだろう。
「ダメ、でしょうか」
凪の手がすとんと落ち。その目が寂しそうに伏せられた。
少しの沈黙の後。
俺は手を伸ばした。
「凪」
「……! はい!」
凪は俺の手を取り。自分の元へと引き寄せた。
どうにかそこを当てないよう、俺は腰を引き気味にしていたのだが。凪が強く……強く、抱きついてきて。それも意味が無いようだった。
「えへへ」
凪が俺を強く抱きしめて、笑う。
――そのまま。俺の肩に顎を置いて。
「気づいてますよ。蒼太君」
ドクン、と。心臓が跳ねた。
「……もう。我慢しなくて良いって言ったのは私なんですからね?」
凪の手が俺の背から離れ。目をそこに向ける事なく俺の手を探り出し、手を握られた。
「蒼太君のしたいようにして良いんです」
凪が肩から顔を引いて。俺と額を合わせた。
その顔は真っ赤であった。
俺の手を握った手が、その胸に抱かれ――
凪の手がスッと解かれる。そして、俺の手を上から押し付けてきた。
「なっ……ぎ……?」
「遠慮。しなくて良いんです」
手のひらの中。そこに暖かく、柔らかい感触があった。
「もっと、強く触れて良いんですよ。私が許可します」
くすりと笑い、凪の顔が更に近づき。
――唇を、重ねられた。
甘い香りに包まれて。思考が揺れる。
「だ、が……」
「ふふ。そんなに怖がらないでください。大丈夫ですよ」
また、凪の唇が唇へと触れる。瑞々しく、柔らかい唇が。
それから何度も、何度も唇を重ねられた。
その度に理性の糸がぐずぐずに溶かされそうになり、頭が沸騰したかのように熱くなる。
「んっ……だい、すきです」
キスの合間に呟かれるその言葉がゾクゾクと背筋をくすぐってきた。
もう、色々と。限界を迎えかけてきていた。
このまま自分の欲望に身を任せたい。
しかし、それはダメだと脳が警鐘を鳴らしていた。
いや。このまま凪に理性を溶かされるのも良いのだろう。
もう。遮るものはないのだから。
「俺も……大好きだよ。凪」
返すようにそう言えば、凪の
「ん。……だいすき。だいすきなんです。蒼太君のことが」
唇を重ねられる度に、甘い香りが脳天を突き刺し。心が幸せで満たされる。
「もっと、蒼太君と。しあわせになりたい……」
その言葉がじんわりと、心に響いて。
俺は――
「凪」
一度、名前を呼んで。再び唇を重ねる。
俺の雰囲気が変わった事を悟ってか。凪の目は少ししっかりしたものとなった。
一度、深く息を吸って、吐いてから。俺はゆっくりと口を開いた。
「あの、だな」
「はい」
「俺は、凪と幸せになりたいと思ってる。このままするのも、悪くない。本音を言えば、したいとも思う。だけど――」
一度手を離そうとして。しかし、凪の手に挟まれて出来なかった。
「ここは……このままで、お願いします。蒼太君の手があると安心するので」
「……わ、わかった」
正直、そちらに意識を持っていかれそうになるが。どうにかそこから意識を外して。凪へと続けた。
「多分。ここだと俺は、色々凪に負担を掛ける事になる。……ベッドも狭いし、その。親もいるから。うるさくは出来ない。凪はそれでも良いと言ってくれるかもしれないが」
「はい。私はどんな状況でも……良いですよ?」
凪はニコリと笑い、手を更に強く押し付けた。……柔らかい、という感想をどうにか。どうにか思考の隅に追いやった。
「でも、どうせなら。……凪とはちゃんとしたい。特に不自由のない場所で」
色々。凪も覚悟してくれている事は分かっている。
この言葉が……その覚悟を踏みにじる事になるかもしれないとも、分かっている。
それでも俺は――お互い、人生で初めての事だから。妥協したくなかった。
「ふふ。知ってます」
凪は笑っていた。
「ごめんなさい。ちょっといじわるしちゃいましたね」
「い、いじわるって……」
「もちろん本気でしたよ。全て」
凪がそっと、口付けをしてきた。
「もしされなくても、蒼太君が私の事を本当に好きなんだと分かりますし。されたらされたで、ちゃんと蒼太君の瞳に映る私は魅力的だと分かりますから」
凪の手がそっと、俺の頬に置かれた。
「本当に……可愛いです。そして、かっこいいです。蒼太君」
「……しかし」
「ふふ。そんな顔しないでください。私からしてみれば、一番良い結果だったと言えるんです」
ほら、と凪が。言ってそこを見ると。
俺の手は凪の胸に置かれたままだった。
「蒼太君。手、離してません」
「――ッ、わ、悪い」
「謝る必要は全くありませんよ。もっと触っても良いんです」
凪が手を広げ。そこへと誘ってくる。少し、俺は躊躇ってしまい。
しかし、待ち続ける凪を見て。俺はゆっくり、手を伸ばした。
むにゅり、と。
当然の事だが、誰にも遮られる事なく。そこが手のひらで覆われた。
「……ん」
「い、痛かったか?」
「いえ。……ただ、自分で押し付けたり触るのとは違うなと――」
凪がそこで言葉を止め。自分で口を塞いだ。
「い、今のは忘れてください」
「あ、ああ」
忘れる……出来るだろうか。いや、忘れなければ。そう言われたのだから。
それにしても――
「か、感想とかあれば。言っていただけると嬉しいです」
「……大きい。思っていたより」
自分の手のひらに収まりきらない。それと。
「柔らかい」
「ふふ。蒼太君好みでしたか?」
「……ああ。いや、俺好みというか。凪だからこそ全部好きなんだが」
顔から火を吹きそうである。
しかし――それでも嬉しくなってしまうのは、男としての
「直に触っちゃいます?」
「そ、それは。さっきまでの発言を全部撤回してしまいそうだから。遠慮しておく」
「わかりました」
手のひらにはモコモコの感触と、その中に……柔らかさを感じられて。
とりあえず俺は手を離した。
「蒼太君」
「なんだ?」
「その時を楽しみにしてますね」
その言葉に俺は、少し言葉が詰まってしまいながらも。
「……ああ。頑張るよ」
そう、返して。その時はそう遠くないと、心の準備を済ませるよう自分に言い聞かせた。
長い――長い夜は終わりを迎えようとしていたのだった。
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