第71話 VS理性 前編

「お、重くないか?」

「重くなんてありませんよ。それよりもっと体重かけてください。首、疲れちゃいますよ?」


 耳から頬にかけて当たるのは、ふわふわでもこもこな感触。凪のパジャマである。


 凪がそっと頬を撫でてきて、俺は少し力を抜いた。

 しかし。凪は頬を撫で続けた。力を全て抜いてと言わんばかりに。


 大人しく俺は完全に力を抜き切った。

 すると、凪が満足そうに頷いて。その手を耳に伸ばしてきた。


「それじゃあお耳のお掃除、始めちゃいますね?」

「……ああ。頼む」


 正直めちゃくちゃ恥ずかしいが。楽しそうにしている凪を見ていると断る事も出来ない。

 と、理由を作ってみたものの。心の奥底に渦巻いているのは決して恥ずかしさだけではなかった。


 好きな人に膝枕をして貰っているのだから。

 嬉しくないはずがない。


 そっと、耳の縁に耳かきが押し当てられ。そこからゆっくりと中へ滑り込む。


「痛かったら言ってくださいね」

「分かった」


 凪の声が静かな部屋に響き。耳かきが耳へと侵入してきた。


「ッ……」


 自分でするのとは違う感触。

 くすぐったさとそれ以外の何かが混ざりあった何かに思わず、声が漏れそうになった。


「ふふ」


 もちろん凪も気づいていて。目だけを動かして見ると、薄く微笑んでいるようだった。


「良いんですよ? 声、我慢しなくても。私しか聞いていませんし」

「い、いや。さすがに恥ずかしいから」

「そうですか? 残念です」


 それでは続けますね、と言って。

 凪は手を動かした。


「んっ……」


 耳かきが耳の内側をくすぐる。

 一瞬だけ声が漏れてしまったものの、それからは少しずつ慣れ。そのくすぐったさは、次第に心地良さへと変わっていった。


 カリ……カリ、と。少しずつ、丁寧に耳を掃除される。

 手の側面を頬に置かれ。そこから凪の体温が伝わってきた。


「気持ちいい」

「良かったです」


 恥ずかしさはある。しかし、こうしたものは言葉にしないと伝わらない。

 凪が時折手を止めたかと思えば、その度に頬を撫でられた。


 脳が溶けてしまいそうなほど、心地よく。幸せな時間。


 そんな時間も長くは続かないようで。右耳が終わったようだった。


「では、蒼太君。反対を向いてください」

「ああ。……え?」


 思わず頷いてしまったが。反対、という事は。


 凪の方を向く? ここで?


 いや。それは色々と刺激が強すぎる。ちょっと手間ではあるが、体ごと移動させよう。


 そう思って起き上がろうとすると。凪に腕をそっと掴まれた。


「蒼太君?」

「……なんだ?」

「こっち、向いてくださいね?」


 凪はニコリと微笑み。俺を引き寄せる。またぽすりと、凪の太腿に頭が乗った。


「し、しかしだな」

「一緒に眠る仲なんですよ? これくらい今更です」

「それは、そう、なんだが」


 しかしこう。気恥しいというか。

 凪は俺のそんな思いを知ってか知らずか……いや。気づいているだろうな。凪の事だから。


 それでも凪はニコニコとした笑みを浮かべていた。


「わ、分かった。分かったから」


 なんとなく圧を感じ、俺は頷いた。

 満足そうにする凪を横目に俺は体勢を変え。凪の膝の方に頭を置いた。


 膝の方に、である。なるべく凪の体から離れるように、そこに寝転がった。

 膝枕、と言うのだから。これもセーフだ。

 セーフなのだと、自分に言い聞かせた。


「もう、仕方ありませんね」


 凪のその言葉に俺はホッとして。


 油断してしまった。


「そんな悪い子は、こうしてあげます」


 凪に体を捕まれ。凄い勢いで引き寄せられた。それはもう、勢い余って体に密着してしまうくらいに。


 鼻先に凪のお腹が当たる。

 ふわりと漂っていた甘い香りが強くなる。ボディソープと柔軟剤の香りが混ざった甘い匂い。


 頭がくらくらして、理性がじわじわと溶かされていく。


 しかし、それだけでは終わらなかった。



 むにゅりと。頬に柔らかく……ずっしりしたものが乗ったのだ。


「こ、これで逃げる事も出来ませんからね! わ、私もちゃんとお耳が見えますし!」


 凪の言葉が耳に入っても。俺は返事が出来ず。しかし何故か思考が止まる事はなかった。


 どこかで聞いた事があるような気がした。

 ……胸が大きい人は自分の足元が見えないと。


 かなり内側の方に来ているから。凪は見えにくいのかもしれない。


 とか、考えてしまってる間にも。頬にむにゅりと押し付けられた感触は消えない。……先程よりも強く押し付けられている気がする。


「まだ少し見えにくいですね」

「ちょっ」


 少しだけ顔が動かされる。

 頬と言っても、耳に近い部分しか当たっていなかったのに。左目に近い所まで柔らかいものが侵食してきた。


 暖かく、ふわふわでもこもこで。

 しかしその奥には、また違う柔らかさを感じ取る事が出来てしまう。

 先程とは違った甘い匂いが鼻腔を突き抜け、脳を。心を刺激した。


 理性の糸が切れかかり。

 思わず、左手を持ち上げそうになって。


 右手でその手首を押さえ込んだ。


「……わ、分かった。分かった、から。本当に。色々と、我慢出来なくなるから。それは勘弁してくれ」


 家に父さんや母さんが居るから、という理由はあるが。それ以上に。


「凪を、傷つけたくないから」


 理性が切れてしまうと。俺でもどうなってしまうのか分からない。


 そう言葉にすると。凪の力が弱まり。笑う声が耳に届いた。


「……ふふ。分かりました」


 それと同時の俺はやっと――やっと解放された。


 心臓がまだバクバクとうるさい。

 一度、仰向けになって。大きく息を吐いた。


「ごめんなさい、蒼太君。ちょっと意地悪したくなってしまって」

「……その、嫌とか。そういう訳ではなかったから」


 俺も比較的健全な高校生であり、当然欲はある。他人の事は知らないので、人並みかどうかは分からないが。


 凪が俺の顔を覗き込んで見てきた。

 その顔は真っ赤で……多分、俺も赤くなっている。


「蒼太君」


 凪の薄い唇が小さく動き、鈴のように軽やかな声で俺を呼ぶ。


「一つ言っておきたいんですが」

「なんだ?」


 恥ずかしさを誤魔化すように凪へ返事をする。なるべく視線を外の方にずらしながら。

 気がついたらそちらに視線が引き寄せられそうになってしまい。少し危なかったから。


「私。蒼太君に傷つけられる事なんてないですからね。どんな事をされたとしても」

「それは……」


 どういう意味だと聞こうとして。しかし、それは出来なかった。

 気がつけば、すぐ目の前に凪の顔があって。唇が重ねられたからだ。


 丁度息を吸おうとしていた瞬間であり、言葉を発しようとした瞬間でもあって。俺の口は半開きになっていた。


 一瞬。それは本当に一瞬の事だった。


 舌に柔らかいものが当たった。


 唇とは違う感触……唇は俺の唇に重ねられているので違うだろう。


 歯でもない。そんなに勢いよくされた訳ではないし、それ以前に硬くない。柔らかかった。


 それこそ、俺の舌と同じかそれ以上に――


「私は。蒼太君に何をされても嬉しくなってしまう自信があります。……あ。例外はあります。浮気とか、その辺りですね」

「す……するはずないだろ」

「はい、知ってます」


 今の事でまだ頭の中がごちゃごちゃしていて。

 それでもどうにか言葉を返し、凪は柔らかく笑った。


「知ってますよ。蒼太君が私を大切に思ってくれている事は」


 凪の指がそっと、俺の唇に置かれた。


「それも嬉しいんですが。私はそんなに脆くありませんからね」


 細く、綺麗な指がそっと唇をつついてくる。その爪も綺麗に整えられていて、皮膚に食い込む事はない。


「特に蒼太君の事なら。私、何でも受け止めますから。少しくらい痛くされたとしても」

「……少しで済まなかったら?」

「受け入れます。……と、言いたいところなんですが」


 凪の指が戻っていき。自身の柔らかな唇へと触れた。


 間接キス。今更、と言いたいが。どうしても心臓の鼓動がうるさく。早くなっていってしまう。


「それは蒼太君の精神衛生上良くなさそうなので。他に蒼太君が好きそうな方法はないかなと探る予定です」

「べ、別に。そういうのが好きな訳では」

「そうなんですか? 数日痣が残る程度なら私は構わないんですけどね」


 凪の真っ白な肌に痣を残すなど……したくない。というか、人が痛がるのを見て喜ぶ趣味はない。


「それでは、その時が来たら遠慮せず教えてくださいね。蒼太君が好きな事」

「……凪のもな」

「はい!」


 屈託のない、子供のように無邪気な笑顔で返事をされる。

 改めて今の会話の内容を思い出してしまい、落ち着いてきた熱が再燃するのを感じて。誤魔化すように横を向いた


「続き、お願いして良いか」

「もちろんです!」


 凪の言葉を聞きながら、俺は目を瞑る。


「終わったら今度こそ私の番ですからね」


 ……そういえば、耳かきは前座のような言い方をしていた。耳かきが終われば何をされるのか。


 思わず身震いをしてしまいそうになった。



 俺の理性は耐えられるのだろうか。

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