第70話 いじわる
「蒼太君はどちらが好きですか?」
凪が手に持って見せてきたのは、真っ白なダウンコートと茶色いカーディガンであった。
ダウンコートはフード付きで、その縁には白いファーが付いている。
「カーディガンの方が好きなら、こちらのニット帽を着けようかと」
そうして凪は黒いニット帽を見せてきた。
どちらにしようかと、凪は視線を動かした後に。俺へと固定した。
俺に決めて欲しいと、その目は告げていた。
どちらも似合う、と本音で言いたいのだが。今はその答えを求めていないだろう。
「……カーディガンとニット、試着して貰えるか?」
「はい! あ、コートだけお願いします」
「ああ。分かった」
凪の言葉に俺は頷き、コートを受け取る。その後、凪は試着室へ入っていった。
コートを戻して試着室の前で待つ。
人も多く、この辺はレディース用の服が売られている場所だ。少しだけ気まずくなりつつも、この時間も嫌ではなかった。
すると。一人の店員さんが近づいてきた。
「彼女さん、とてもお綺麗でいらっしゃいましたね」
「彼女……というか婚約者です。ありがとうございます」
別に訂正しなくても良いのだろうが、ついしてしまった。
俺の言葉を聞いて店員さんがずい、と近寄ってきた。
「婚約者さんですか? 肌も髪もお綺麗で……流暢な日本語を話されていましたが、外国の方でしょうか? 出会いはどこででしょう?」
「い、いえ、その。日本育ちですよ」
ぐいぐい来るな。この店員さん。
そういえば。瑛二がこんな事を言っていた気がする。
『女性ってのはいくつになっても恋バナが好きな生き物なんだ……』
と、正月の集まりで西沢の事を言ったら大変な事になったとも言っていた。
「ちなみに旦那様は奥様のどこがお好きになったので?」
「だ、旦那様って……」
いや。いずれはそうなる予定ではあるんだが。
接客のためのお世辞のようなものだと分かってはいるものの、実際に言われると……くすぐったいものがある。
どうしようかと迷っている間にも、店員さんは顔を輝かせて言葉を続けた。
「旦那様の好みに合いそうな服を持ってきますから! 是非! お話を!」
凄まじい圧である。思わず後退りをしてしまった。
……少しなら良いか。凪もまだ出てこないようだし。自分の話せる範囲でなら。
「えっと、色々とあるんですが。最初は一目惚れでしたね」
先程、少し話してはいたのだ。
俺もファッションに関しては素人であり、凪も自信はそれほどない。だから、店員さんからのおすすめも何着か買いたいと。
また二人でゆっくり選びたいのはあるが。店員さんから聞いてからでも遅くはないだろう。
そして、恐らく先程の俺達の様子も見ていたはずだ。だから探ってきたのだ。俺の趣味を。
なんだかんだ言って、向こうも仕事だ。少し話せば大丈夫だろう。
と、この時の俺は思っていた。
「蒼く、海を思わせる瞳と、真っ白な髪。そして肌はとても綺麗で、思わずずっと見てしまいましたね」
「ふむふむ。他には!?」
「そ、その、ですね。……実際接してみると、綺麗というか。可愛い所も多く」
「なるほどなるほど!?ギャップ萌えってやつですね!」
これくらい話せば大丈夫だろうと思っていた。
「他には! 他にはありませんか!」
しかし。店員さんは鼻息を荒くして近寄り。聞いてきたのだった。
◆◇◆
「それで、決して努力を欠かさないんです。そこにまた惚れ込んでしまって」
「素晴らしい事ですね! 奥様! 素敵です!」
……全部。
全部、聞こえてます。蒼太君。聞こえちゃってます。
頬が熱くなっているのは、決して暖房のせいではない。
蒼太君に褒められるのはすっごく嬉しい。
嬉しい、けど。
同じくらいの羞恥心が頭の中を渦巻いている。
蒼太君が話そうとした理由は察する事が出来る。蒼太君と先程話したのだ。店員さんにも何着か服を見繕って貰おうと。
蒼太君もちゃんと覚えててくれたからこそ、こうして話してくれているのだ。
プライバシーの関係で私の事は深掘りされないように、蒼太君は自分が感じた印象を話している。
でも……
「違うんです、蒼太君」
口の中で呟いた。声が外に聞こえないよう。
店員さんは多分、仕事という名目で話を聞きたいだけなのだ。私も学校でよく聞かれたから分かる。
男の子よりも女の子の方が話を聞きに来ていた。……男の子は私が言うより先に、羽山さんが追い払ってくれたのはあるけど。
それを差し引いても、女の子は恋愛の話を聞くのが好きなのだ。
もしかしたら、少しくらいは知っていたのかもしれないけど。分かっていない。
蒼太君は女の子に慣れていない。
――それは嬉しいんですが!
「ど、どうしましょう」
完全に出るタイミングを失ってしまった。
このままだと、ずっと褒められ続けるのを待つしかないのかもしれない。蒼太君が私の事を話せなくなるまで。それくらい話そうとするはずだ。多分。
そんなの耐えられない。顔だけじゃなくて全身が真っ赤になってしまう。
その時だった。
「こら! あんた、またお客様に迷惑かけて」
「きゃっ! ……ち、違いますよ。お客様の好みを把握してたんです! 店長!」
店長。
その言葉で全てを察した。
「店員がお客様を困らせてどうするんだい。……はぁ。もう好みは探っただろう? さっさとお客様に似合う洋服を用意する!」
「はい!」
きびきびと歩く足音が聞こえ、女性がため息を吐く音がした。
「申し訳ありません。あの子、カップルとか夫婦を見たらすぐ話を聞こうとしちゃって。……センスは確かですから、そこだけは信じてやってください」
「は、はい」
少しの静寂があって。
蒼太君が息を飲む音が聞こえた。
「……ひ、ひょっとして聞こえてたか? 凪」
カーテンを開く。すぐ目の前に蒼太君が居た。
蒼太君はすぐ頭を下げようとしたので、視線で制した。
分かっている。蒼太君は悪くない。
悪くない、けど。
「蒼太君のいじわる」
恥ずかしかった事を伝えるために、火照った顔を隠す事なく。私は告げたのだった。
◆◇◆
思考が止まった。
「蒼太君のいじわる」
うっすらとその瞳には膜が張っていて。頬は真っ赤で、口元がひくひくとしている。
今まで見た事がないくらいに、恥ずかしがっていた。
こんな感情、抱いてはいけない。分かっているのに――
可愛いと。そう思ってしまった。
「いじわるです、蒼太君」
「い、いや、その、だな」
改めて告げられた言葉に返そうとするも、頬が緩んでしまいそうで……頭も回らず、上手く喋る事が出来ない。
「もう、蒼太君ってば……」
その表情の中に、怒りを感じ取る事が出来ない事だけが救いだろう。
凪が俺を手招いた。一歩近寄ると、耳を出してと肩をつつかれた。
大人しく耳を預ける。凪は両手を筒にした後に俺の耳に当て、声の通り道を作った。
「帰ったら――」
ゾクリと、背筋が震える。
凪の声はとても綺麗だ。鈴の音のように涼やかで軽やかなのである。
耳心地が良く、いつまでも聞いていたくなる声。なのだが。
「覚悟、してくださいね。寝る時は私の番ですから」
吐息の混じった声が耳を通じ、脳をくすぐる。
ゾクゾクとした快楽が背筋を伝い、その影響で全身の毛が逆立った。
「な、凪。そ、そういうのは」
「……!」
どうにか紡いだ言葉を凪が聞いて、俺を見て。
小さく笑った。
その吐息が耳にかかり、身を震わせそうになる。
「蒼太君。お耳、弱いんですね?」
凪の手がそっと、俺の手の甲を撫でた。まだ快楽の余韻が残っており、そこは鳥肌が立っていた。
「ふふ。いい事知っちゃいました」
やっと凪は離れた。
凄く、凄く嫌な予感しかしない。……夜、俺は耐えられるのだろうか。
今からでも父さん達にどこか行ってくれとでも言っておいた方が良いのかもしれない。
「若いねぇ」
店長さんの言葉に凪がハッとなり。小さく咳払いをした。
「……し、失礼しました。蒼太君」
改めて凪は俺を見て。くるりと一回転をした。
「似合ってますか?」
「……ああ」
焦げ茶色のカーディガンは凪の落ち着いている感じが強調され、黒いニット帽は少し幼い雰囲気を醸し出す。
「……凪ってなんでも似合う気がする」
「ふふ。ありがとうございます」
お世辞でもなんでもない。本音である。
落ち着いた色のものを着れば、凪の大人らしさが強調され。より綺麗に見えるようになる、
反対に、可愛さに振られた厚手のワンピースなんかも似合うと思う。カジュアルファッションとかも……似合うだろうな。
「あ、ちなみにお金の心配はしなくて良いですからね。お父様が好きなだけ買ってきなさいと。カードを渡してくれたので」
「おお。珍しいな」
「今まであまり物欲はなかったので。……もちろん、無駄遣いをするつもりはありませんからね」
凪が無駄遣いをするとは俺も思わない。
凪は小さく口の端を持ち上げて、言葉を続けた。
「『学生は楽しむのが仕事だ。お父さんは仕事の為ならお金を惜しまないからね』と、言ってました」
どうでも良い事かもしれないが。宗一郎さん、凪の前だと一人称が『お父さん』になったんだな。
と思うのと同時に、宗一郎さんらしい言葉だなとも思った。
「信頼されてるんだな」
当たり前の事だが。つい言葉にしてしまう。
宗一郎さんは、凪が学業などをちゃんとしていて。お金を変に無駄遣いしないと分かっていたから。強い責任感を持ってる事が分かっているからこそ、渡したのだろう。
ちゃんと、凪の事は見ていたのだ。不器用ながらにも。
その事が分かって、嬉しくなった。
「はい!」
凪も笑顔で頷いた。
その後は凪に色んな服を試着してもらい……その後は、メンズ向けのコーナーで俺も色々な服を着て。
気がつけば、夕方になっていて。
また明日。色んなところに行こうと凪と約束をしてから、帰ったのだった。
◆◇◆
「どうでした?」
「『二度と関わらない』という事を約束させてきた。俺にも凪にもな」
風呂上がり。父さんに呼ばれた。
『蒼太宛に電話がかかってきている』と。
相手は――なんと、加藤だった。それだけでも驚きなのだが。
『今までの事を謝らせて欲しい』
震えた声でそう、言ってきた。
それから、今までの事を謝罪された。
それらかつてないほど、感情の込められた謝罪であった。
罪悪感と同じくらい、何かに怯えているようにも聞こえたが。
そしてどうやら、三人で電話をかけるのも迷惑だと思ったらしく、代表で加藤がかけたらしい。俺が良ければ残りの二人にもかけさせると言われたが丁重に断った。
――恐らく。宗一郎さんが何かをやったのだ。というか、思い当たる節はそれしかない。
「それと、改めて父さん達と話してきた。聞こえてこなかったか?」
「そうですね。聞こえてきましたね」
加藤達の事も父さん達に伝えた。隠す事はもう出来ないだろうと思ったから。
すると、父さんは――
めちゃくちゃ謝った。それはもう、めちゃくちゃに。部屋に居た凪にも聞こえるくらいの声で。
「まあ、色々と話して。どうにかなったよ」
『自分でも、父親らしい父親じゃなかったと思う。ちゃんと蒼太の話を聞いて、どうしたいのか一緒に考えられる父親になる。蒼太と――そして、凪ちゃんの為にも必ず矯正する。ちゃんと、二人の父で居られるように。血や戸籍の関係ではない。ちゃんと、父だと思われるよう』
そう言ったのだ。もちろん母さんも同じように謝ってきた。
「こうなるだろうと分かっていたから話せなかったんだが。……もう隠す事もないからな」
「ふふ。じゃあこれからは、ご家族ともっと仲良しになれますね」
「そうだな」
凪の言葉に頬が緩んだ。
宗一郎さんにもお世話になった。今度、お礼を言いに行かねばならない。
凪がぽんぽんと、ベッドの隣を優しく叩いた。俺は凪の隣に座る。
「お疲れ様でした、蒼太君」
「今日は凪達に色々助けて貰ったからな。ありがとう」
「はい! どういたしまして、ですね!」
凪が笑って俺の手に手を重ねた。
「蒼太君」
その蒼い瞳が俺を見つめた。海のように蒼い瞳。それは、見つめられているとどこまでも沈んでいきそうだ。
かといって、
どこまでも沈んでしまうのは……とても心地好い事だと分かっているから。
その目がうっすらと閉じかけ。凪はニコリと笑った。
「お昼の事、覚えてますよね?」
「……昼?」
「はい!」
頭の中には、あの店員さんの顔があった。
凄く話しかけてくる店員さんである。
「あー。ちなみに忘れてるって言ったら?」
「思い出させてあげます。……夜は長いですからね。時間はいっぱいありますし」
その笑顔は有無を言わさない。これは大人しく投了するしかなさそうである。
「ですが、その前に」
凪はそう言って俺の手から手を離した。
その手はぽんぽんと、自分の
「お耳の掃除、しちゃいましょうか」
その手には耳かきが握られていた。
「……え? いつの間に?」
「ふふ。実は前買ってたので持ってきたんですよ。蒼太君の耳かきしたいなと思って」
得意げに話す凪。いきなりの事に俺は思わず、首を振ってしまった。
凪はニコニコとした笑みを浮かべて。またぽんぽんと腿を叩いた。
「来てください、蒼太君。それとも、無理やりされる方がお好みですか?」
くすりとその柔らかな唇から笑みが零れ。
……勝てない事を悟る。
そうして俺は、凪の膝に頭を預け。
――長い。長い、理性との戦いが始まったのだった。
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