第79話 将来の夢
お義父さんの所で用事を終わらせ、またマンションへと送って貰う。
「ちょっと肩が凝ってるな」
ぐりぐりと肩を回しつつ、ふうと息を吐く。
最近は少し勉強しすぎてるのかもしれない。今日はゆっくり休もう。
「ただいま」
その言葉は癖のようなもの。一人暮らしをしてた時からつい言ってしまっていた。
でも、もう一人ではない。
とんとんと跳ねるような足音がそれを証明してくれた。
そして、玄関へと来た彼女は――
「おかえりなさい、旦那様」
「ッ……」
開口一番にそう言った。
白く長い髪は一つにまとめられている。ポニーテール、というやつだ。
そして。凪は制服の上からエプロンを着けていた。
帰宅したら制服姿の恋人に出迎えられる。これ、めちゃくちゃ貴重な経験なのではないだろうか。
「……? 蒼太君、どうかしましたか?」
「ああ、いや、なんでもない」
凪へと首を振り、どうにか煩悩を打ち消した。
「あ、蒼太君。頭に埃が付いてますよ」
「ん? 悪い、たすか――」
凪が一歩前に出て、俺が軽くしゃがんだ瞬間。
唇を重ねられた。
「――ふふ。なんて、冗談です」
イタズラが成功した子供のように。しかし、その微笑まれた唇は無邪気とは呼べないほど艶やかに端を吊り上げていた。
頬や肌に比べて際立つ紅い唇に目を奪われる。どこかで、男性は女性を見る時に唇を見ることが多いと聞く。
今までは、そんな事本当にあるのかとか思っていた。俺は凪の瞳が好きだったから。
――だけど、今なら分かるかもしれない。
「ふふ」
凪は俺を見て、鈴のように軽やかな声で笑う。
「気になりますか?」
一度気になってしまえば、目を離す事も出来なくなる。その紅く、ふっくらとした瑞々しい唇が小さく開き、言葉が紡がれる。
その一つ一つの動きですらも息を飲むような美しさがあった。
「触ってみてください」
凪がその細い白魚のような指を俺の手に絡め、自分の顔へと近づけていく。
温かく、甘い吐息が指へとかかった。
その唇に指が触れる。とても柔らかい。頬とはまた違う柔らかさである。
そして――それと同時に、その顔を眺めてしまう。
「ん」
小さく声を漏らした凪は、目を瞑っていた。
とても無防備な姿を晒している。
「……」
何か話そうと思っても、上手く言葉は出てこない。
大人しく凪の唇をふにふにと触る。
それと同時に。やけに目が惹かれた理由もなんとなく分かった気がする。
「口紅、変えたのか?」
「……ん、よく分かりましたね」
「それと、メイクも少し変えたか?」
「本当に。よく見てくれてるんですね」
凪が小さく目を開けた後に、頬をほんのりと赤く染めた。
「口紅は物を変えたんですが、メイクはやり方を少し変えてみたんです。より自然に見えるように」
「なるほど」
その頬に手を置こうとして、しかしメイクがされてるのならあまり触らない方が良いのだろうと思い直す。
それにしても――
「綺麗、だな」
「ッ……」
その肌は透き通るような透明感がある。しかし、その中でも蒼い瞳と真っ赤な唇は強い存在感を放っている。
どんどんと赤くなっていく肌も、普段より少しだけ白めで透明感は失われない。
その蒼い瞳が一瞬だけ揺らぐ。唇を震わせながら目を伏せ、しかしすぐに俺の顔へと戻してきた。
「蒼太君は」
その指がちょん、と服の裾を摘んできた。
「ど、どれだけ私を喜ばせたら気が済むんですか」
気がつけば指から唇が離れ――次の瞬間には、凪が胸の中に居た。
「全くもう、困った旦那様ですね」
その言葉に目を瞑り、生唾ごと色々なものを飲み込む。
「凪も人の事、全然言えないんだけどな」
その背中に右手を回して。左手を頭に置く。
「悪い、凪。……一瞬、強く抱きしめて良いか」
「はい! 大丈夫ですよ。そんなに簡単に私は壊れたりしまふぎゅ!」
凪の言葉を待つ事も出来なくて。抱きしめると、可愛らしい鳴き声が口から漏れていた。
「えへへ」
いきなりの事で驚いた様子を見せる凪であったが、すぐに胸に頬を擦り付けてきた。
その様子がまた胸の内を揺さぶってきて。
心の奥にあるものを全て吐き出すように、俺は息を吐いた。
それでもまだ、この気持ちが収まる事はなく。ただ凪をぎゅっと、抱きしめ続けたのだった。
◆◆◆
「そういえば。蒼太君はパパに何の用事があったんですか?」
「ん? あー、そうだな」
確かに気になるだろう。しかし……いや。いつかは話さなければいけない事だ。
「その、だな。凪」
「話したくなければ別に構いませんよ?」
「いや。話したくないとかではないんだ」
少し頭の整理をしようと目を瞑る。
しかし、あまり深く考える事でもないかとすぐに目を開けた。
キッチンに立っていた凪はじっと俺を見つめている。
「アルバイト、しようと思ってるんだ」
「……! そうだったんですか」
「ああ。元々、一月に入ったら始めようと思っててな。探してはいたんだが」
「あ……なる、ほど」
とてもではないが、今の状況でアルバイトが許されるとは思えない。
「凪、そんな顔しないでくれ。その辺は色々解決してきてるから」
「そう、なんですか?」
「あの日、お義父さんと色々話してな」
あの日。
それは、凪と俺に二人暮しをして欲しいと言われた日だ。凪に一旦出て貰って、お義父さんと話した時。
「さすがにアルバイトは厳しいって言われた。『必ず一ヶ月以内に解決するつもりだ。しかし、他にも悪意を持つ者が居ないとは限らない。出来れば数ヶ月は見て欲しい』と言われてな」
凪は俺の言葉に少し目を伏せそうになり。しかし、すぐにぶんぶんと頭を振って顔を上げ、話の続きを待ってくれた。
「お義父さんは俺の事もしっかり考えてくれてた」
彼女が安心出来るよう、手を握る。
「少し条件を付けられたけど、許可は貰えたよ」
「条件ですか?」
「お義父さん。宗一郎さんの会社の手伝いをする事。というか、そこでアルバイトをする、だな」
凪は目を見開き、反射的に俺の手を強く握った。
「とは言っても雑務くらいらしい。そんなに難しい事はやらせないって言ってたよ」
「ええと、ですね。蒼太君」
その蒼い瞳を少しだけ泳がせ、凪は小さく呟くように話した。
「それ、外堀を埋められてるような気がします」
「……まさか」
俺も一瞬だけ考えたが、さすがにないだろう。
「いえ。全然ありえる話だと思います。パパの信条の一つに『上に立つ者は下の者の事を知らねばならない』とありますので。ちなみに下と言っても見下してる訳ではありませんよ?」
「それは察しがつくが。……いや、本当にまさか」
凪ならば分かる。今までそういった教育もされてきてるだろうし。
しかし、俺は何の知識もない高校生である。ビジネスとか、その辺りの知識は皆無と言っても良い。
「では、今日はパパの所へはどうしてですか? もしかしてもう本社の方に?」
「いや、まだだ。最低限の知識は持っておいた方が良いと言われたんだよ。PCのスキルとか、ちょっとした専門用語なんかをな」
「ふむ……パパ直々に、ですか」
「そうだな」
凪は俺の言葉を聞いて、何かを考え込むようにした。
「蒼太君は将来就きたい職業とかないんですか?」
「将来就きたい職業、か」
唐突に聞かれたその質問に、懐かしい事を思い出した。
「職業はないな。ただ、将来の目標は居た」
そこで言葉を止めるも、凪は当然気になったらしい。続きの言葉を待っていた。
「……父さんだよ。だいぶ癖の強い人だが」
少しだけ照れくさい。でも、確かに本心だ。
「大切な人。家族にまっすぐと『大好き』と伝えられて、家族を養える。家族を守れる力がある。今ならこうやって言語化出来るけど、あの頃は総じて『すごい』くらいしか言えなかった」
あの頃は、全然気づいていなかった。
「今なら分かるよ。どれだけ家族に恵まれていたのか」
誰かと比べてとかそういう話ではない。
「少なくとも、俺はそう思ったよ。だから、あの人みたいになりたい」
それが俺の目標だ。
「とっても良い夢だと思います」
凪はとても。とても良い笑顔で頷いてくれた。
「まあ、そんな所だ。だから別に、どの職業に点いても目指す所は同じだな」
「そうですか。……それなら大丈夫ですね」
「ん? 何がだ?」
「いえ。でも、もし何かあれば言ってくださいね。その時は全力でサポートしますので」
「ああ、ありがとう」
将来の夢、か。
改めて考えても良いかもしれないが――
柔らかく微笑む凪を見て。深く頷いた。
凪と一緒に居られれば、それで良いかな。
彼女と一緒なら、何をしても楽しいだろうから。
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