第80話 日に日に可愛くなっていく

 ぱらり、ぱらりと本を捲る音が部屋に響いていた。


 それと同時に、その蒼く海を思わせるような瞳が上から下へ動く。

 時折、彼女は考える様に動きを止め。じっと、文字を睨みながら顎に手を当てていた。


『そういえば、最近買っただけで読んでない本が増えてるんですよね』


 その言葉がキッカケであった。


 二人で居る時間はもちろん好きだ。嬉しい事に、凪もそう思ってくれている。

 それはそれとして、一人の時間や趣味は大切である。俺の事は気にせず読んで欲しいと言ったのだ。


 部屋で一人で読むと思ったのだが、凪はリビングで読み始めていた。

 俺としてはどこで読んでもらっても構わない。

 凪が読んでる間に軽く家の事をやって、戻ってきたら隣をぽんぽんと手で叩かれたのでこうして隣に居る。


「……」


 無言で読み続ける凪。ただ、少し髪が伸びてきてるのか前髪が邪魔をしているようだ。何度か体勢を変えながら髪を後ろに流そうとしていた。


 少し考え、机の上を眺める……あった。黒いヘアピン。


 こちらに来てから使われる場面はほとんど見た事がなかったのだが、家ではよく使ってたらしい。特に本を読む時は。


 恐らく今日は忘れていて、読み進めているうちに本から目も手も離せなくなったのだと思う。


 声を掛けようとして、今良い場面だったら水を差す事になるなと考え直す。



 このヘアピンを見せて貰った時、一度だけ付ける所を見た。

 ……出来るか? いや、調べながらやってみるか。


 スマホで調べつつ、ヘアピンを持つ。


 凪の前髪。その中央の方にそっと指を重ねる。反応はない。それだけ集中しているのだろう。


 えっと。ここから髪をねじって。なるほど。髪の流れに合わせて後ろの方に持っていくのか。


 これで後ろの方から留めれば……行けた。後は前髪のサイドの方を耳に掛ける感じで。



 出来た。多分大じょ――


「……」


 凪は変わらず、本を読んでいた。読んでいたのだが。


 前髪を上げた彼女はまた、大きく。それはもうかなり大きく印象が変わっていた。


 普段隠れている額が顕になる。別にやましい事をしている訳じゃない。凪が本を読みやすくなるようにやっただけなのだ。


 それなのに。なんだ。なんだろう、この気持ちは。


 ザワつく胸を押さえながら、凪をじっと見続ける。じっと。


 何分経っただろうか。時計の針が動く音と、凪がページを捲る音。そして心臓の音がしばらくの間交差していた。


「……ふぅ」


 凪が小さく息を吐いて、顔を上げた。


「ありがとうございます。すっごく良い所でして、助かりまし……? 蒼太君?」


 気がつけば、凪から目を逸らしていた。


 落ち着け、俺。落ち着け。


「ど、どうかしました? もしかして、ずっと無視した感じになっちゃってたのが良くありませんでしたか?」

「ち、違う。本に集中してるのは分かってた。分かってたんだが」


 少しだけ迷ってから。観念して小さく、喉から声を絞り出した。


「その、前髪上げると雰囲気が変わるから。それが可愛くて」

「……!」


 いつも、凪は可愛いし綺麗だと思う。出来る限り言葉にもしている。

 しかし、雰囲気が変わればまたこんなに言いにくくなるのか。


 やけに顔が熱い。暖房を効かせすぎた……という言い訳はやめておこう。


 凪は俺を見て小さく笑みを零した。


「そうでしたか」

「な、凪? 本は」

「区切りの良いところまで行けましたから。大丈夫ですよ」



 凪か栞を挟んで、本を机の上に置いた。白く綺麗な手のひらをそっと、俺の頬に重ねた。


 目を合わせられる。凪の顔がすぐ目の前にあって――


「ふふ」


 凄く、凄く嬉しそうにしていた。


「嬉しいですよ」


 自分でもそう口にして、俺の頬に当てていた手を自分の頬へと当てた。


「偶然とは言え、蒼太君の手で、蒼太君に可愛いと思われる髪型にされて。嬉しくない訳がないんですよ」


 凪の瞳に暖かく優しい光が灯る。緩んでいく頬を隠すように、その手がもにゅもにゅと頬を揉んだ。


 その時、凪がピクリと眉を動かした。


「あ、いい事思いつきました」


 その手が自分のポケットの中へと入り、とあるものを取り出す。


 凪の瞳と同じ、蒼いヘアゴムである。


「ちょっと髪、触りますね」

「あ、ああ」


 凪に前髪を触られ――ほんの少しだけ、引っばられるような感覚があって。


「はい、出来ました」


 凪が満足そうに頷く。

 スマホを取り出し、パシャリと写真を撮ってきた。


「お揃いです!」


 そこに映っていた俺は――前髪を、ヘアゴムで束ねられていた。


「折角なので、一緒に写真も撮っちゃいましょう! 光ちゃんから撮り方も教えて貰ったんです!」


 どうですか? と聞いてくる瞳に俺は頷き、されるがままに二人で写真を撮る。


「ほら、蒼太君、お揃いです!」


 嬉しそうに。本当に嬉しそうに微笑む凪。


 心臓がバクバクと強く脈打っている。顔がどんどん熱くなっている。


 しかも、いつもと違って顔は一切隠されていない。額まで赤くなっているのではないだろうか。



 凪はまた、俺を見て小さく笑った。


、なんですよ。蒼太君」


 彼女の顔が近づいてくる。暖かく、柔らかな感触に身が包まれた。


 しかし、それは一瞬の事。


「あ、このままじゃ少し聞こえにくい……感じにくいですよね」


 何の事か分からず首を傾げると。凪は両手を後ろに回した。



 ぷちり、と何かが外されるような音がした。


「な、凪?」

「こうした方がちゃんと分かりますから、ね」


 呟くような凪の言葉。それはしっかりと俺の耳に届いていた。


 そこから目を背け――しかし、心の奥底では邪な感情が芽生えていて。俺は無理やり目を瞑った。


 何を今更、とその感情が叫んでいるが。それとこれとは話が別である。


 やけに衣擦れの音が耳に響き、その時間はとても長く感じた。


 そして、唐突にその時間は終わりを告げた。


「ッ……」


 背に手を回され、引き寄せられる。


「蒼太君」


 名前を呼ばれるまま、目を開けると。目の前に端正な顔立ちがあった。


 そして――強く、早く鳴っている鼓動が伝わってきた。柔らかさの奥から。


「お揃いですよ。私もいっぱいドキドキしてます。実は蒼太君に髪を触られた時からです」

「ご、ごめん」

「良いんです。嫌でも邪魔でもなかったですし」


 こつん、と額が合わせられる。普段は髪も当たるのだが、今はお互い上げているので当たったりしない。


「それに、良い事も思いつきましたからね」

「良い事?」

「はい」


 凪がやっと離れてくれた――と言うと彼女に対して失礼なのかもしれない。決して嫌とかそういう感情はない。ただ、凄く精神が磨り減っていたから。


 その膝の上に乗っている白いものからは目を背けつつ、上げられた手に集中する。


「蒼太君にお願いがあるんです」


 背中まで伸びた長い髪を一纏めにしつつ、凪がそう言ってきた。その瞳はじっと俺を見たまま。


「私の髪、蒼太君にセットして欲しい」


 唐突に伝えられた言葉。

 敬語が忘れられていて、ただ息を飲む事しか出来なかった。


「か、髪を?」

「――うん。色んな髪型を試して、蒼太君の好きな髪型を見つけて欲しい」


 ニコリと、凪は優しく微笑んだ。


「で、でも。その、俺はそういうの全くやった事ないから」

「ふふ。これをやったのは蒼太君なのに?」


 凪の瞳が上を向く。それが前髪を止めているピンだという事は明らかだ。


「蒼太君に触られるの――嬉しかったから」

「……」


 ぐわんぐわんと心が揺さぶられる。どうにかなってしまいそうだった。


 深呼吸をして――しかし、その度に花のように甘い香りが鼻腔を、脳をくすぐってくる。


 呼吸のし過ぎか、それとも酸素が欠乏しているのかも分からず、くらくらとしてきた。


 凪の手が俺の額に押し当てられた。


 その暖かさに少しずつ、呼吸の仕方を思い出してきた。


「……凪」


 その目は心配そうに俺を見つめながらも、その中には少しだけ嬉しさを孕んでいる。


「その、それ、まだ俺には少ししんどい。幸せすぎて」

「ふふ、そうでしたか。私もちょっとやってみたんですが、違和感が凄かったです。意図的にやろうとすると」


 ニコニコと決して笑顔を崩さない凪を見て。俺は一瞬考え、思いついた言葉を口にした。


「凪、日に日に可愛くなってないか」

「……ふぇ?」

「なんと言えば良いのかは分からない。でもそう思う」


 気のせいではない。

 だって、今までこんな事はなかったから。


 凪の可愛さに呼吸の仕方を忘れる。それも比喩的なものではなく、数秒。いや、数十秒も忘れてしまったのだ。


「そ、そうですか?」


 頬をリンゴのように赤く染める凪。この表情は誰にも見せたくない。独り占めしたいとすら思ってしまう。


「す、少し話を戻すぞ」


 このままでは、膨れ上がる感情に飲み込まれかねない。

 本人にはその意図はないだろうし、この心の奥から湧き上がってくるものに飲み込まれてしまえば……凪なら全て受け止めてくれそうな気もするが。いや、とりあえずそれは置いておこう。


「髪の事だが。凪が良いなら、やってみたい」

「……!」

「俺が凪の髪に触れるのが好き、という事もある。でも、それ以上に」


 手を伸ばし、その止められた前髪に触れる。崩れないよう優しく。


「楽しそうだって思った。凪の髪型を変えられるのも。色んな凪が見られるなら、見てみたい」

「はい!」


 もちろん、いつもの凪も好きなのだが。


「じゃあ早速、明日からやってみましょう!」

「ああ」


 これも二人暮らしの利点なのかなと思い、俺の頬は緩んでいくのだった。

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