第81話 小さな傷
陽が差し込む部屋の中、彼女は機嫌が良さそうに鼻歌を歌っていた。
「えっと。こうして……こう、か」
それを聞きつつ、俺はスマホとにらめっこをしながら彼女の髪を弄っていた。
「よし、完成……で良いのか?」
「はい! 完璧です!」
横から上半分、二つに束ねて
要はハーフアップである。
「とはいえ、編み込みとかはまだ俺には難しかったな」
「良いんです。これからいっぱい練習する機会はありますからね。そうですね。ハーフアップだけでもいっぱい種類はありますし。とりあえず次は三つ編みをやってみましょう!」
「ああ。」
時間の都合上、そこまで手は回らなかった。帰ってからならまだしも、今は登校前なのだ。……もし不恰好なまま凪が学校に行ったら、と思うとめちゃくちゃ怖い。
「しばらく家でも練習させて貰えるか?」
「はい! もちろんです!」
その返事を嬉しく思いつつ、その笑顔に顔が綻んでしまう。
「似合ってますか?」
「ああ。似合ってるよ、凪」
「……じー」
そう返すも、凪は違うと言わんばかりに鏡越しに俺を見てくる。
迷ったのは一瞬の事である。
「か、可愛いと思う」
「はい! ありがとうございます!」
改めて聞かれると恥ずかしくなってしまうのは何故だろうか。普段からなるべく言葉にはしているはずなのに。
改めて、鏡越しに凪を見る。
ハーフアップにした凪はまた大きく印象が変わる。綺麗というよりは妖精のような可愛らしさが強調された感じだ。
これは色々と試したくなるが……時間がないので帰ってから。また明日からのお楽しみだ。
「そろそろ行くか」
「はい! 荷物は大丈夫ですか?」
「ああ。昨日の夜確認したよ。凪と一緒に」
くすりと笑う凪へとそう返す。これもまた、ここに来ての決め事の一つであった。
お互い、前日の夜に荷物は確認する。それでお互いの忘れ物は防げるという算段だ。
また、何か持っていく事を思い出したら即座に口にする。そうする事で、もし自分が忘れても相手が覚えていたら事故を防げる可能性が増えるからだ。もちろん忘れていても責めたりはしない。
……さすがにそれはお互いに過保護なのでは、と思ったりもした。しかし結局の所、ルール決めをしなくてもこれくらいならお互いやりそうな事である。問題ないとした。
「それじゃあ行きましょう! 蒼太君!」
「ああ。行こう」
凪は気分が高揚しているようで、声は軽く弾むように歩いていた。その理由も分かっている。
玄関まで一緒に来て、凪はくるりと振り返った。
「蒼太君」
その拍子に髪がふわりと揺れ、凪は髪を耳にかける。そして目を瞑った。
じっと。しかし、少しだけそわそわしている彼女は見ているだけで思わず抱きしめたくなってしまう。
今だけはその気持ちを留め――顔を近づける。
学校という事もあり、メイクはしていない。だけどその肌は真っ白で、唇は目を惹くような薄い桃色だ。
その頬に手を押し当てる。すべすべであり、吸い付いてくるような瑞々しさがある。
この肌を保つためにどれだけ努力しているのか、俺はここに来て改めて知った。
凪は舞踊をする都合上、肌に塗り物が多く荒れやすい。多少荒れたとしてもメイクで少しなら隠せるのかもしれないが、凪はそれを望まない。
一番の対策は早く寝る事だ。彼女は――最近はそうでない時もあるのだが、基本的には夜十時までに眠る。以前は九時までに寝ていた。
次に食生活。彼女が料理を担当する理由にもなったのだが、栄養バランスがとても良い。
ただバランスが良いだけでなく、美味しいのだ。彼女曰く『美味しいものを食べないとストレスが溜まります。ストレスもお肌の天敵ですからね』との事だった。
それらに加え、化粧水や乳液なんかも欠かさない。それら全ては毎日のルーティンとなってるらしいが、俺からしてみれば『努力の賜物』でしかない。
そんな肌に気軽に触れて良いのか、と悩んだ事もある。
「……?」
今目の前で頭の上にクエスチョンマークを浮かべている凪。それすらも絵になるほど綺麗で可愛らしいと思ってしまう。
以前、彼女はこう言っていた。
『お肌は舞の為でもありますが、蒼太君の為でもあるんです。蒼太君が触ってくれないなら私から触らせに行きます』
そう言って手に頬を擦り付けてくる彼女に勝てる訳がなかった。
さて、いつまでも凪を待たせる訳にはいかない。
その頬を軽く親指で撫で――触れるだけのキスをする。
それだけでも、多幸感で脳が甘く痺れてしまう。思わず手が空をさまよってしまい、すぐに凪に握られた。
くすりと笑って指を絡め、手を握ってくる凪。その顔はニコニコとしていてとても嬉しそうだ。
手を離さないまま。凪はとん、とんと弾むような足取りで俺の後ろに回った。
そのままぐい、と手を引かれた。
今度は凪の方から唇を重ねられる。
思わず手をぐっと握ってしまい、凪から同じくらい力強く手を握られた。
五秒、十秒と。先程に反して時間は長かった。
「……ぁ」
凄く、凄く名残惜しそうにその唇が離れた。じっとその蒼い瞳が俺を見て。そっと手を離し、凪は腕を広げた。
「えへへ」
その細い体を抱くと、凪は嬉しそうな声を漏らす。
「大好きです。私、蒼太君の事が大好きなんです」
「ああ。俺も大好きだよ、凪」
ぎゅうっと、力強く抱きしめる凪。余りにも力強く、少し苦しい。
でも、この苦しさが良い。凪の気持ちが全部伝わってくる気がしたから。
「蒼太君が居るから今日も頑張れます。明日からも頑張れるんです」
その顔が胸に擦り付けられる。その姿は、猫が主人の手に頭を擦り付けるものに似ていた。
「蒼太君の匂いがします」
嬉しそうに、彼女は顔を埋める。
「蒼太君の暖かさがあります」
全身を密着させて、凪は笑う。
「蒼太君が居ます。今、ここに」
そこまで言って、凪がパッと力を抜いた。こちらも力を抜くと、凪が半歩下がる。
その顔はとても満足そうだった。
「これで蒼太君成分を補充出来ました。行きましょう!」
その言葉に頷き、手を繋いだ瞬間。ぽつりと凪は呟いた。
「蒼太君」
「ん?」
「気をつけてくださいね」
「ああ。凪も気をつけてな」
「はい!」
凪の言葉に頷いて、今日も頑張ろうと改めて思ったのだった。
◆◆◆
「おはよ、蒼太。くそねみぃ」
「おはよう瑛二。珍しいな。瑛二が眠そうにするなんて」
欠伸混じりに声を掛けてきた瑛二。これはかなり珍しい光景である。
瑛二は元気が取り柄の一つだ。常にテンションが高いので、周りを引っ張って楽しませるムードメーカー的な役割もあったりする。
瑛二は欠伸を噛み殺し、伸びをした。
「ん? おお、今日英単語テストあるじゃんか。それを昨日の夜思い出してな。一夜漬けしてきたんだよ」
「……」
「一応寝れはしたんだけど、睡眠時間三時間はきちいんだ。ん? どした?」
瑛二の言葉を耳に入れつつ、引き出しの中から英語のファイルを取り出す。
それを開き――大きく息を吐いた。
「……勉強してない」
「……まじ?」
「まじ」
「まじかよ。めちゃくちゃ珍しいな。というか初めてじゃないか? お前がそういうの忘れるの」
完全に忘れていた。記憶の中を掘り起こし、思わず伏せてしまいそうになる頭を手で支えた。
「あー、まあ告知冬休み前で、その後先生一回も授業で触れてねえもんなぁ。蒼太にも連絡入れときゃ良かったな」
「いや、完全に俺の落ち度だ。瑛二は悪くない」
冬休み前の事を思い出しながら単語帳を開く。確かにそこには日付と覚える範囲が示された付箋が貼られていた。
冬休みは帰省し、その後も色々あったからと言い訳を並べる事は出来る。しかし所詮言い訳にしかならない。
「はぁ……久々にやったな。こういうの」
「ドンマイドンマイ。そんな日もあるさ」
瑛二が苦笑しつつも前の席に座った。
「んじゃ、覚えようぜ。一限だし時間もねえだろ」
「……良いのか?」
「もちよ。俺は最低限覚えたしな。こういう時の為の俺だろ?」
ニヤリと笑う瑛二。その言葉が嬉しくて……またほう、と息を吐く。
「ああ、ありがとう。瑛二」
「おうとも、親友。任せろ」
そして、それからテストの時間になるまで勉強は続いたのだった。
◆◆◆
「……ぐ」
「しゃーないしゃーない。よー頑張ったと思うぜ」
テストは回答後、近くの席の人と交換しお互いに答え合わせをするというもの。
これから先生へと提出するのだが、それを見て声が漏れてしまった。こっそり隣に来ていた瑛二が背中を叩いて慰めてくれる。
英単語は百問。うち半分は今まで習った範囲から出るのだ。そこはほとんど大丈夫だったのだが。
「八十点。低くないって分かってるんだが」
「お前いつも九十は余裕で越してたもんな。特に九月以降はほぼ百点だったし」
瑛二の言葉に頷きつつ、もう一度テスト用紙を見る。
「来月にはテストも控えてるし、それに向けて頑張るよ」
「おうとも。俺も混ぜてな」
「ああ。それに今日はありがとうな、手伝ってくれて」
「気にすんな。困った時の俺だぞ」
瑛二の言葉が嬉しく、しかしより一層気を引き締めなければいけない。
そう思い、俺は頬をぴしゃりと叩いたのだった。
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