第82話 特別なちゅー

「何かありましたよね」


 帰って早々、凪にそう言われた。同時に詰め寄られ、ハーフアップにされた後ろ髪が揺れる。


「別に――」


 なんでもない。そう言おうとして、俺は首を振った。


「いや、あった。ちょっとな」

「聞きます。こっちに来てください」

「そんなに大変な事があった訳ではないぞ」

「程度の差は関係ありません。『何かがあった』、それだけで十分です」


 凪に手を引かれて。俺は着替える暇もなく寝室へと連れ込まれた。


 凪がベッドに座り、ぽんぽんと隣を叩く。大人しく隣に座ると、頬を手で掴まれた。爪はよく手入れがされているため、肌に食いこんだりはしない。


「お話、してくれますよね」

「……ほんとに大した事じゃないぞ?」


 そう前置いて、俺は話し始めた。


「今日英単語のテストがあったんだよ」

「テスト、ですか」

「ああ。完全に存在を忘れてた。冬休み前に伝えられてたんだけどな」

「それは……」

「悪いのは俺だ。実際存在を忘れてたのが大半だったが、それを理由にしてはいけない」


 みんなが忘れていたから大丈夫。そんな思考は成長を阻害するものでしかない。


「実際瑛二は覚えてたからな。……ああ、普段は立場が逆なんだ。俺が瑛二に『明日テストだぞ』って伝える事が多かったからな。覚えてると思ってたらしい」

「……そうでしたか。実際私も珍しいと思ってますし、彼を責めるのがお門違いという事も分かってます。大丈夫ですよ」


 凪の言葉にああ、と頷いて。小さく息を吐いた。


「それだけだよ。別に大した事はない」

「ふむ。大した事はない、ですか」


 凪がじっと俺を見てきて。俺は思わず目を逸らしてしまった。


「……蒼太君」

「……はい」

「来てください」


 凪が腕を広げ、俺が来るのを待っていた。


 俺は――


 一瞬、腕を広げそうになって。やめた。


「蒼太、くん?」


 その瞳が揺らぎ、動揺が見て取れてしまう。

 初めて見る表情。その瞳の奥に影がちらついていた。


 慌てて俺は首を振る。


「ち、違う。そういう意味では、なくて。拒否とかそういうのじゃない」


 言葉が足りていなかった。これは良くない。非常に。とても良くない。


「プライドというか、意地というか。いや、違う。……俺のわがままみたいなものだ」


 咄嗟に出てきた言葉を二つ否定し、そう告げる。


「俺は凪に慰められるよりも応援されたい」

「慰める、という言葉は不適切です。私がやろうとしてた事は少し意味合いが異なります」


 凪の言葉は力強く、そしてまっすぐと俺に向けられたものだった。


「……ですが、蒼太君がそう言うのなら仕方ありません」


 そして、再度凪が腕を広げる。


「これは『頑張って』のハグです。これなら問題ありませんよね?」

「……ありがとう」


 今度は大人しく凪に手を伸ばし、その体を強く抱きしめる。


 すると、凪は機嫌が良さそうにゆらゆらと揺れた。


 やがて、その揺れが大きくなり――


「えいっ!」

「うおっ!?」


 俺はベッドに押し倒された。

 すぐ目の前で、凪がにんまりと笑っている。


「さて。ここで蒼太君に問題です」


 得意げに言う彼女は可愛らしく、初めて知った事を親に話す子供のようだ。

 しかし、その瞳の奥に光る物は無垢な子供にはないもの。


「二人で決めた事の中に、今の状況に関する事が一つあります。なんでしょうか?」

「今の……?」


 凪に言われて記憶の中を掘り返す。今の状況に合うものなんて何かあったか?


 ・寝る時はどちらかが抱き枕にされる

 これはもう既にされているのだが、この『寝る時』は眠る時の事。今ではない。


 ・健康に悪いから腕枕は寝る時にはしない

 これも違う。腕枕はしてない。


 ・眠る時のキスは多くても三度まで(おかわりも三度まで)

 同じくこれも眠る時の事。違う。


「時間切れです、蒼太君」

「ま、待ってくれ。今思い出すから」

「ふふ。往生際が悪いですよ。そんな蒼太君には――」


 すぐにその顔が近づいてきて――


「こうしちゃいます」


 唇が重ねられた。

 同時に、その柔らかな唇が小さく開き、。驚きつつも、それを受け入れた。


 じわじわと幸せで染められていく心の中で、鎌首をもたげてくるものがあった。

 それは奥底で『もっと』と叫んでくるものの、どうにか押し込む事が出来た。

 今日あんな事があったというのに勉強を放置する訳にもいかない。


「……ん、ぁ」


 凪の瞳に宿っていた、宝石のように妖しい光が理性の光に打ち消される。

 それと同時に唇が離され、間に透明な橋が架かる。凪の頬が真っ赤になっていく。


 いつもとは違うキスをした、という事実を告げてくるようで……実際にそうなのだが、形にされると気恥ずかしくなる。


 すると、その橋が縮んでいく。

 違う。凪が再び顔を近づけてきていた。


「んむ」


 柔らかく、暖かく……少しだけ湿った感触に下唇を挟まれる。ついばまれたのだ。


 橋を切るように、凪は唇を啄んだ。また離れると、今度は橋が架からない。凪が満足そうに頷いた。


 先程から凪の表情がころころと変わっている。どれが本当の凪、という事でもないのだが。


 その時やっと、先程の事を思い出した。今の状況に当てはまるもの。


「仲直りのちゅー、ですよ。蒼太君」

「あ」

「ふふ、やっと思い出しましたね」


 思い出した、というより。確かに覚えてはいたのだが。


「あれって喧嘩なのか?」

「どうなんですかね? 今までにあんなやり取りはしてこなかったですし。……思えば私、蒼太君の言葉に割り込んで自分の意見を言ってましたね。ごめんなさい」

「いや……分かった。俺こそごめん。言葉が色々足りなかった」

「はい、分かりました」


 凪がまだうっすらと赤みがかった顔で頷き、ふと目を逸らした。


「ちなみに今のはですね。その、蒼太君と仲直りする機会自体が少ないので。特別なちゅーにした方が良いのかな、という建前です」

「建前」

「本音を言うと、ちょっと蒼太君にいたずらがしたくなっちゃって……えへへ」


 ちょっと可愛すぎてどうにかなってしまいそうである。


「仲直りのちゅーは特別なちゅー、という事にしたいです」

「ッ……」


 一瞬のうちに頭の中を様々な言葉が駆け巡った。しかし、その言葉を端々から否定し、自分の中の本音を引き出していく。


「俺も、したい」

「……! しましょう!」

「ちょ、ちょっと待て、今という訳ではなく……止められなくなるから」

「むぅ、仕方ありません」


 また唇を近づけてくる凪を止め、ホッとする。正直、理性ゲージはもうゼロに近かった。


「蒼太君」


 その瞳には淡い光が宿っている。言葉はまっすぐと俺に向けられていた。


「無理はしないでくださいね」

「大丈夫だよ。無理はしない」


 これからは今までより少しだけ頑張る。ただそれだけの事だ。


 最後にもう一度だけ凪とハグをしてから、改めて奮起するのだった。


 ◆◇◆


 次の日。

 今日は蒼太君が三つ編みのお下げにしてくれたので、それを指で弄りながらとある事を考えていた。


「……」

「珍しいね、難しい顔なんて。いつもは幸せたっぷりでもうどうにかなっちゃいます、みたいな顔してるのに」

「いえ、難しい顔というか……え!? 私そんな顔してたんですか!?」

「気づいてなかったんだ。あ、あとお下げ可愛いね。今日も彼にやって貰ったの?」

「あ、ありがとうございます。今日もそうですね。蒼太君にやってもらいました」


 学校ではなるべく顔を引き締めていたはずなのに。もっと蒼太君の事を考える時間を減らさないといけないかも。ううん、多分無理だ。諦めよう。


「それでどしたの? なんか悩んでるなら聞くけど」

「……そう、ですね。光ちゃんなら」


 ずっと考えていた事。それは。


「誰かに、似てる気がするんです」

「似てるって。海以君が?」

「はい。その、最近蒼太君が誰かに似ているような気がして。でも、誰なのか分からなくて」

「ふーむ? それって顔が、という訳じゃないよね」

「顔、というか表情と言いますか。雰囲気と言いますか」


 誰かに似ている。でも分からない。

 心がザワザワする。

 直感がそれは『良くない事』だと告げている。


「芸能人的なもの?」

「……いえ、恐らく違います。もっと身近に居たような気がして」


 首を振って、改めて考えても全然出てこない。


「うーむ、難しい。ちなみに最近の海以君はどんな感じなの?」

「最近、ちょっと色々ありまして。また頑張ろうってなってる所です」


 無断で蒼太君の失敗談を話す訳にもいかなくて、かなり抽象的な言い方になってしまった。


「……頑張る? 二人ともめちゃくちゃ頑張ってんじゃないの? 成績とか学年トップでしょ」

「それは、そうなんですが」

「だいじょぶなの? あんま頑張りすぎたら体壊しちゃわない?」


 その言葉にハッとなった。


 そして、分かった。誰に似ているのか。



 そうだ。そうなんだ。



「私に似てるんだ」


 あの時の。数ヶ月前の、蒼太君に出会うまでの私に。


 そう呟くと同時に、全身に鳥肌が立った。


 凄く、嫌な予感がした。

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