第83話 非日常な日常

 世界史のノートを取っている時。ふと気づいた。


 あれ。今どこのページをやってるんだ?


「なあ、悪い。少しだけノート見せてくれないか?」

「ん? 良いけど」

「ありがとう」


 隣の席の男子生徒から少しだけノートを見せてもらう。

 同時に俺は気づいた。


 教科書一ページ分、俺はノートを取れていなかった。


「……悪い。助かった」

「ん? おお」


 それを見て、自分のノートと黒板を見返し。頭を抱える。



 ギシリ、と歯車が歪んだような気がした。


 ◆◆◆


「蒼太!」


 彼の言葉にやっと俺は反応し、とっさに体勢を崩す。


 ひゅん、と空を切る音が頭の上を通り抜けたのは、尻もちをついたのと同時の事だった。


 そのボールはサッカーボールである。

 今は体育の授業でサッカーをしていた、という事実がやっと脳へと入り込んできた。


 ぼうっとしてしまい、差し出された手のひらを見て意識が戻る。

 お礼を言いながらその手を掴んで立ち上がり、ボールを追いかけようと振り向いた。


「……悪い。今、取って」

「蒼太」


 しかし、肩を瑛二に掴まれた。

 そう、瑛二に。

 起こしてくれたのが瑛二なのだと、俺は気づいていなかったのだ。


「俺が行く」


 彼の言葉は優しく胸を抉った。


 肩が。拳が震えた。


「気にすんな。そんな日もある」

「すま、ない」


 瑛二がポン、と肩を叩いた。


「違うだろ? こういう時に返す言葉はよ」


 その言葉にふっ、と力が抜ける。石のように固く結ばれていた拳が解かれた。


「そうだな。ありがとう、瑛二」

「おうとも、親友。……謝るべきは俺の方なんだけどな」

「……?」


 瑛二がボールへと駆け足で向かう。その途中で何かを呟いたようだった。

 なんだろうと思っていると、また授業から意識が逸れてしまった事に気づいた。


 ハッ、と強く息を吐く。そして、勢いよく自分の頬を叩くのだった。


「集中しろ、俺」


 ◆◆◆


「次化学かぁ……あの先生得意じゃねえんだよな」

「話が脱線しがちな先生だよな。それでテスト範囲が終わらなくて急遽範囲見直しとかあったし」


 お昼を済ませ、化学の教室に向かっていた。

 瑛二と話しつつ、廊下を曲がり。階段を降りる。



 ずるりと、足元が滑った。


「ッ……!」

「蒼太」


 浮遊感を覚えたのは一瞬の事。後ろから瑛二に掴まれ、受け止められた。


「すまな「蒼太」」


 謝罪の言葉が口から零れ落ちそうになり、瑛二に言葉を挟まれて止まる。


 俯く俺を瑛二は覗き込んできた。それに気づいて俺は顔を上げる。

 じっと、瑛二の目が俺を射抜いた。


「今日は俺から離れんな。そんで思う存分気ぃ抜け。全身から力抜け」

「……え?」

「さっきから思い詰めすぎなんだよ。気も力も抜け。そんで俺の近くに居ろ」


 瑛二がニカッと、気持ちの良い笑みを浮かべた。


「何が起きても俺がどうにかしてやる。頼ってくれよ」

「瑛二」

「俺の目が黒いうちにゃお前に怪我はさせねえからな。安心してくれ」


 肩を組んでそう言われる。それが嬉しくて……



「ああ、ありがとなっっっっ」

「あいよっと」


 ずるん、とまた足を滑らせそうになり、瑛二に救われるのだった。


 ◆◆◆


「かっこ悪いな、俺」


 今日はお義父さんとの講義も休みである。瑛二に言われた後、お義父さんに電話をしたところ『しっかり休みなさい。また調子が良くなり次第連絡を入れてくれ』と言われた。


 今日は先に帰り、今はベッドに横になっている。凪が帰ってくるまでにはどうにかしなければならない。



「……ふー。落ち着け」


 目を瞑り、脳を諌める。嫌な事ばかり考えるな。


 そうだ。五分だけ眠っても良いかもしれない。眠れば気分も切り替えられる……はずだ。


 そのまま俺は目を瞑り、心を無にする。


 そうすると、程なくして俺は眠りについた。


 ――アラームもセットしないまま。



 ◆◇◆


「どしたの瑛二。珍しく凹んでさ」

「……過去一やらかしてるんだよ、俺」


 今日何度目かのため息が漏れた。自責と後悔の感情が渦巻き、心の中を陣取るようにとぐろを巻いた。


「ほんとに珍しいね」

「……良くない癖が裏目に出た。何が親友だよ。どの口でほざいてんだよ俺」

「ってーなるとみのりん関係? でもなぎりんいるから大丈夫じゃない?」

「ああ、大丈夫だろうよ。つか東雲しか無理だ。俺じゃ半端な事しか出来ねえ」


 今すぐにでも頭を掻きむしりたくなる。

 そんな事をすると目の前の彼女に止められるって事は分かってるが。


「ちょっと考えりゃ分かった話なんだよ。あいつの立場を考えたら、あんな話する必要はなかった」

「……聞くよ」

「わりぃな、霧香」


 またため息を吐きそうになって、すると霧香が手で口を塞いできた。


「ため息禁止。幸せ逃げるよ? その分私が補充するけどさ」

「……ああ、あんがとな」


 彼女が目の前に居る事に感謝しながら、蒼太に話した事を話し始めた。


 ◆◇◆◇◆


 目が覚めた。真っ暗な部屋。誰もいない部屋の中で。


「……?」


 どこかぼんやりとしたまま、違和感を覚える。


 しかしその違和感はすぐに消え去る。その代わり、強い義務感に襲われた。


「ああ、そうだ。学校行かなきゃ」


 今日は平日。学校に行く日だ。


 今日また、が始まる。


 ◆◆◆


 学校へと向かってる途中。更に違和感は強くなった。


「……?」


 先程から何度も手を伸ばしてしまい、それが空を切るのだ。


 なぜ自分が手を伸ばしてしまっているのか。そして、手が空を切ってしまう事になぜ酷い違和感を覚えているのか分からない。


 電車に乗って数学の参考書を開く。しばらく悩んでいたものの、よく分からない場所があった。


「なあ、ここって――」


 口にしながら、俺は誰に話しかけようとしたのかと口を閉ざした。



 ――たくん


「ッ……気のせいか」


 どこかから、聞き慣れた声が聞こえた気がした。振り返るも、そこには誰も居ない。


 ぽっかりと、何かが欠けているような気がした。

 大切な、とても大切な何かが。


 ◆◆◆


「……」


 帰りも一人だった。瑛二にカラオケに誘われたものの、今日は気分ではないので断ったのだ。


 帰りの電車を待ちながら勉強をしていて、ふと思う。


 俺、ここまで勉強が好きだったのかと。


 いや、別に勉強が好きな訳ではない。

 ならどうして俺はこんなに勉強をしているんだ?


 単語帳を閉じながらふと考え、その時電車が――



「ッ……」


 その電車に乗っていた白い影に、目を奪われた。


 姿形はぼんやりとしている。それでも分かった。


 この胸に空いた穴は、彼女の存在が関係していると。


 電車が開いて乗り込む。あの影があった車両まで向かう。


 そのはずなのに――向かっているはずなのに。


「どういう事だ?」


 一向に、彼女の所へ辿り着けない。外で見たよりもかなり多くの車両があって、近づく事が出来ない。


 もしかしてと思いながら今の車両を見ても、その前の車両を見に戻っても彼女の姿は無い。


 見つからない。



 どこまでも――どこまで行っても。


 走って、走って、走り続けても。彼女の姿はどこにも――



「蒼太君!」


 ◆◇◆◇◆


「……ぁっ、はぁ」


 呼吸が苦しい。

 長距離走でもしたかのように心臓が波打ち、顔が。全身が暑い。


 酸素が足りず、指先が痺れる。視界も滲んでいて前がよく見えない。


「蒼太君!」


 それでも、その声は――鈴のように澄んでいて、凛とした声は確かに届いた。


「蒼太君……!」


 意味もなくさまよっていた手が握られ、引き寄せられる。


 そのまま俺は強く――強く、抱きしめられた。


「私は居ます。ここに居ますよ」


 ドクンドクンと、何かに急かされているように早く。そして強く打ち付ける鼓動。

 それを包み込むように。とくんとくんと優しい音が伝わってくる。


「……な、ぎ」

「はい。私です」


 手を握られ、全身に彼女の熱が伝わってくる。


「……」


 荒くなっている呼吸を整える。酸素が欠乏し、痛む頭を無視して目を瞑る。


 少しだけ落ち着いてきた。


「すまない」

「何を謝ってるんですか」


 俺は返す言葉が見つからず、ただ押し黙る。


「何を謝ってるんですか。蒼太君は」


 二度、同じ事を聞かれた。握る手に力が入ってしまう。凪は応えるように握り返してくれた。


 ぽつりと、震えないように気をつけながら俺は呟く。


「今日、調子が悪かったんだ。風邪とかそういうのじゃなくて。どうしてなのか分からない。分からないけど、調子が出なかった」


 集中がすぐに途切れ、気がつけばボーッとしてしまう。初めての事だった。


「結局お義父さんの所にも行けなかった。今が一番大事な時期なのに。それで帰ってすぐ寝てしまって――夢を見た。嫌な夢だった」

「どんな夢を見たんですか」

「凪が居ない夢」


 それは同時に、とある事を意味する。


「凪と出会う前の日常だ」


 改めて俺はゾッとした。


「怖くなったんだ。今の日常を失えば――俺はおかしくなってしまうんじゃないかって」


 もしの話だ。


「凪が――」

「蒼太君」


 言葉を挟まれ、唇を塞がれた。こんな時だと言うのに、沈んでいた心にじわりじわりと幸福が染み込んでいく。


 十秒。三十秒。一分と、そのキスはこれまでの中でも長かった。

 やがて、凪が唇を離す。


「……蒼太君」


 軽く呼吸を整えながら、凪は俺をじっと見て。



「今、私は怒ってます。すっごく怒ってます」


 そう言ったのだった。

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