第84話 初めての喧嘩
凪は俺に覆い被さるようにしていた。三つ編みが垂れ下がり、揺れて頬をくすぐってくる。
「珍しいですよ。私が蒼太君に怒るのは」
「……そうだな。初めて見たかもしれない」
いつものように頬を膨らませた時や、あの【氷姫】の時とは違う。
その蒼い瞳はうっすらと怒気を孕んでいた。
「私自身に対しても怒ってます。が、とりあえずそれは後で」
凪がふー、と。様々な感情が込められた息を吐いて。
唐突に唇を重ねてきた。一瞬だけ。
自然と目の前に凪の瞳が来る。
「蒼太君は勘違いしてます」
その言葉は力強いものだった。
「私はもう、何があっても蒼太君から離れません。絶対にそんな未来は訪れません。例え来世であろうと、私は必ず蒼太君を見つけ出して、一緒になります」
その手が頬を撫でる。指が目の端を、涙を拭うようにくすぐってきた。
「だから、貴方の前から居なくなるなんて事は絶対にありえません」
ふっとその顔が緩み、瞳には淡い光が宿る。いつもの笑顔が戻ってきた。
「例え貴方が突き放そうとしても離れませんよ、私は」
「……凪」
「今日は不覚を取りましたが! 今度からは夢にもいっぱい私が出てきますからね!」
「いっぱい出てきたら大変な事になりそうだな」
「大変になるくらいが丁度良いんです」
また凪の顔が近づき、キスを落とされた。じんわりと、痛んでいた頭が癒されていく。
凪の瞳がまた俺をじっと見ていて、俺はゆるゆると首を振った。
そして、俺はそのまま起き上がり、凪の隣に座った。
「それじゃあ……お話に移っても良いですか?」
「ああ、大丈夫だ。もう」
凪がこくりと頷き、体を密着させるように座った。
「今の蒼太君に見覚えがあります」
「本当か?」
「はい。凄く、凄く見覚えがあるんです。……いいえ」
その目が天井を――違う。どこかを見ているようで、どこも見ていない。
懐かしむように、遠くを眺めていた。
「私、ですよ。蒼太君に出会うまでの」
「ッ……!」
「あの時の私は、お父様とお母様に恩を返したい。それと同時に、こうも思っていました」
その視線が遠くから、俺へと移る。
「期待を裏切りたくない、と」
「……」
「改めて聞きます」
凪がまた顔を近づけてきた。感情の揺らぎを見逃さないように。
「蒼太君。貴方はどうして頑張ってるんですか」
歯を食いしばる。強く、奥歯が割れそうなくらい。
しかし、これ以上隠し通すのはは無理だと。ふっと力を抜いた。
何より、彼女に嘘をつきたくなかったから。
「怖かったんだ。『理想の俺』からかけ離れる事が」
「それは『夢から覚める』事と関係してますか?」
「瑛二から聞いたのか?」
「お昼頃に少しやり取りがありまして。『今の蒼太は東雲にしか任せられない。悪い』とあったので」
「……なるほど。いや、あいつは何も悪くない」
「分かってます。色々と良くない噛み合い方をしてしまったのが原因です。その一端は私にもありますから」
違うと首を振ろうとするも、凪の手にやんわりと押し止められた。
「巻坂さんの話と、アルバイトの件でパパと共に過ごして。そして私が『外堀を埋めているのでは』と話して。期待がかかっていない、という事自体がおかしな話です」
「それは……でも、俺が頑張れば良いだけの話で」
「ずっと、頑張り続けていませんか。蒼太君」
凪の言葉に目を見開く。
そんな事ない、と返せば良いだけの話。
しかし、俺の口から言葉は出てこなかった。
「二人で初めてお勉強会をした時の事、覚えてますか。二日目の方です」
「二日目……あ」
「はい。あの時。また【氷姫】と呼ばれる私に戻ろうとした時。貴方はこう言いました」
『もちろん、常に努力を続ける姿勢は凄い事だし。大事な事だと思う。だけどな。……いつか、疲れる時が来ると思うんだ。そうなると、何に対してもパフォーマンスが落ちてしまう』
「一言一句、覚えてます。そのお陰で私は変われたんですから」
そうだ。確かにあの時俺はそう言った。
俺は、今……
「似てるんです。頑張りすぎてた時の私に」
「そう、か」
「はい。今なら分かります。あの時の私は頑張りすぎていました。両親の期待を上回ろうとするばかりに。周りを――いえ。自分を見ていませんでした」
うっ、と喉が詰まりそうになる。凪も分かっていたからか、深く頷いた。
「蒼太君は頑張り『すぎて』います。許容量を超えた努力はいずれ、器を壊します」
「……分かってはいる。それでも」
「一度壊れた器は決して元には戻りません」
強く、肩を掴まれた。痛いぐらいに。
「蒼太君に蒼太君は壊させません。絶対」
その手は震えていた。力の入れすぎ、だけではないのだろう。
「ベッドに縛り付けてでも休ませますからね?」
小さく笑う凪ではあるが、その目は笑っていない。本気の目をしている。
「逃げないか一日中見張っちゃいます。すぐ隣でいっぱいお世話します」
「な、凪……? それは色々と困るというか」
「蒼太君を困らせちゃうのも一興ですね」
思わず頬がひくついてしまい、凪は「冗談ですよ」と笑う。目は笑っていない。
「とにかく、私は決めました。蒼太君が拒んだとしても、私は貴方の『宿り木』となります」
「……『宿り木』か」
「はい。貴方が飛び疲れた時に休みに来られるような。肩肘を張らなくても良い場所になります」
あー、と声が漏れそうになった。バレていた、のか。
「……ええ。気づきましたよ。今になってやっと。なんとなく違和感は覚えていましたが、その正体がこれだったとは」
凪の表情が一転して変わる。ギリ、と音が聞こえそうなくらい歯を食いしばっていた。
「気づけなかった私はばかです。おおばかものです。……本当に、腹が立ちます」
「な、ぎ?」
凪が目を伏せる。しかしそれは一瞬の事で、瞬きと同時に俺を見つめた。
「どうして、なんですか」
その声も震えていて、目が滲み始めた。
「どうして全部、背負おうとしたんですか。どうして、隣に居る私に寄りかかってくれなかったんですか」
その顔が近づく。額がぶつかりそうなくらいに。
「私が信じられないから、ですか」
「……ッ、違う!」
「じゃあ! 私が蒼太君が寄りかかれないほど弱いと思ってるんですか!」
「違う。……違うから」
そこまで言って、ああ。と納得してしまう。
納得してしまった。
「
……馬鹿、の一言では済ませられない。
「あれがあったから、私は……私は、馬鹿で、貴方にもたくさん迷惑を「凪」」
彼女の名前を呼ぶ。その瞳は薄暗く、深海のように濁っていた。
その言葉を切り取るように、俺は唇を重ねた。
卑怯だと分かっている。
でも、それでも。唇を重ねずにはいられなかった。
凪がぎゅっと手を握ってくる。その体温が伝わってくる。
本当に馬鹿だ。俺は。あの頃の俺が見たら……いや、今すぐにでもぶん殴りたくなる。
凪を幸せにする?
どの口で言ってたんだ、俺は。
どうして彼女は泣いている?
俺が不安にさせたからだろ。
考えうる限り、一番悪い……最悪の方法で過去を思い出させてしまったから。
それならもう、俺にやるべき事は一つしかない。
「……すまなかった。ごめん、凪」
「……」
「本当に馬鹿な事をしてたと思う。周りを――自分を、そして凪を見ていなかった」
「……はい」
「凪には俺のかっこいい所だけを見て欲しかった」
それが俺のわがままだ。
「かっこよくて、この人なら自分は幸せになれる。そんな風に思われる人間になりたかった」
「……」
「それと同時に、怖くなったんだ。かっこよくない所を見せたら幻滅されるんじゃないかって」
そう。『夢から覚めてしまう』んじゃないかって。怖かった。
「凪が居なくなるのが、何よりも怖かった」
「……本当に、何を言ってるんですか、蒼太君は」
今度は――また、と言うべきなのかもしれないが。
凪から唇をかさねられた。酷く甘い味がした。
「幻滅? かっこよくないところ? ドンと来いです。全部愛します。だって、蒼太君だから」
その瞳から濁ったものは全て取り除かれていた。
「かっこいい蒼太君が好きな訳じゃありません。かっこいい蒼太君も大好きなんです。かっこ悪い蒼太君? いいですよ、いっぱい見せてください。大好きになってみせます。普通の蒼太君だって大好きなんですから」
まっすぐ。その言葉は目を通じ、脳へ。同時に心へと送り届けられる。
「私はもう、心の底から貴方の事を愛してるんです。だから、ね」
その手が伸びて、俺は優しく抱き止められた。
「全部、さらけ出してください。……お、お互い、もう服の裏側まで見た仲なんですから」
言葉尻になるにつれ、頬にくっつけられたほっぺたが熱くなった。
でも、それはお互い様であるので何も言えない。
「頑張るのも、一気に頑張らなくて良いんです。少しずつで良いんですよ。私が支えますから」
「……ああ。ありがとう、凪」
「どういたしまして、です。今度からは蒼太君が頑張ったと思ったら、いっぱい甘やかしますからね。覚悟していてください」
その言葉に頷くと、凪はニコリと微笑む。
まだ、言わなければいけない事がある。
「これからは凪の事もいっぱい頼るよ。それと、あの時の事は一切関係ないから。……ごめんな、不安にさせて」
「はい、分かりました。いっぱい頼ってください。私も頼りにしますから」
そこまで話して、凪は俺から離れた。
「さて、じゃあお話はこれくらいにしますか」
凪は凄くニコニコとしていた。凄く良い笑みで。なんとなく嫌な予感がした。
凪が起き上がり、俺も起き上がる。てっきりリビングへ行くと思ったのだが……凪は座り直した。凄くニコニコとしたまま。
「蒼太君」
「……なんだ?」
「ふふ、とぼけようとしてもダメですよ。今回頑張った分、まだ休んでません」
そう言って凪が腕を広げた。いつもより低い位置に。まるで、胸に飛び込んでこいとでも告げるように。
「いや、その、だな」
「やっぱり蒼太君は甘えるよりも甘えさせられる方が好きなんですか?」
俺には選択肢はないようで。先程の事を考えればそれも当然の事なのかもしれない。
「それに。仲直りのちゅーもまだですから、ね?」
「……そう、だったな」
昨日のものに比べれば余程『喧嘩していた』と言えるだろう。
その言葉に従って、俺は彼女に甘える事にした。
「そのついでに。蒼太君のかっこ悪いところ、いっぱい見せてくださいね」
その言葉に少し後ずさりしそうになって、凪に捕まえられたのは言うまでもない。
◆◆◆
「おはよー、蒼太。お、吹っ切れたか?」
「お陰様でな」
校門の前で瑛二と会った。いきなり肩を組んでくるが、それも昨日言った事の延長にあるのだろうと一人で納得する。
「本当に大丈夫そうか? 無理してねえか?」
「ああ、もう大丈夫だ。頑張りすぎないことにしたよ」
そう言って歩きながら。ちらりと瑛二を見る。
「瑛二も自分を責めるなよ」
「……あー。バレてたか」
「さすがに分かる。言っとくが、瑛二が責任を感じる必要は無いからな。遅かれ早かれ起こった事だ」
色々積み重なって起きた事だ。瑛二があの時言わなかったら良かったのか、と聞かれると俺は首を傾げるだろう。
「というか、お前に助けられた立場でもあるからな。プラスマイナスでプラスだとでも考えておいてくれ」
「……おー、あんがとな」
それでも瑛二の顔は晴れなかった。
「それと、俺もまだ本調子ではないから。何かあった時は頼むな」
「……おう! 任せろ!」
どうやらこれが正解だったようだ。瑛二の目に光が戻ってきた。
いや、それとも俺の前でくらいはいつも通りに居ようと……昨日までの俺と変わらないか、それは。
瑛二も元に戻ったと信じておこう。
それに、瑛二には西沢も居る事だしな。俺が心配するまでもないだろう。
「学校では俺が見張っとくからな。万が一にでも無理はしないように」
「大丈夫だ。もうしない。絶対」
「ん?」
思わず強く返してしまい、瑛二が首を傾げた。俺は目を逸らす。
「なんかされたのか?」
「……かっこ悪いところをたくさん見られた。それ以上は詮索しないでくれ」
「あー。なんとなく察しついたわ」
瑛二の言葉に頷き、心に誓う。
もう絶対に無理も無茶もしない。絶対に。
……じゃないと、癖になってしまいそうだから。
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