第106話 『いつかやろう』を今日やめる

「……前と同じで、せーのでいきます」

「……ああ」



 俺と凪はソファで隣がけに座っていた。お互い顔を合わせ、一枚の紙を手に持っている。


 どことなく漂う緊張感。これも久しぶりな気がした。

 ……大体二ヶ月ぶりを久しぶりって言っていいんだろうか。微妙な期間だが、結構濃い二ヶ月を過ごしたから言っても良い気がする。



「準備は出来てますか?」

「出来てる。大丈夫だ」



 距離は相変わらず近い。テーブル越しに話した方が良いんじゃないかと話したが、こっちの方が良いらしかった。


 彼女の表情は緊張してこわばっている……という事もなく、唇はほんのり緩んでいた。


 ――信用されているんだろうな。悪い点数を取らなかったんだろうと。



「せーのっ!」



 彼女の言葉に合わせて紙をひっくり返す。その結果は――



「――ふふ、やっぱり一番でしたね」

「どうにか、な。凪もさすがだ」

「蒼太君達といっぱい頑張りましたから」



 お互い学年で一番であった。俺も平均点は九十点台後半はあり、凪に至ってはほぼ全ての教科……英語以外は満点であった。



「英語に関しては完全にケアレスミスですが……伸びしろがあるというこ事と、次は同じミスをしないと心に誓ったのでよしとします」



 ほんのりと悔しさの滲んだ表情を見せる凪。なんとなく頭に手を置くと、嬉しそうに目を細めた。


 前向きに考えられるのも凪の美点だと思う。これが慢心なら別だが、それは彼女とは無縁の言葉だと知っているから。



 それから凪が満足するまで頭を撫でて……。



「次は蒼太君の番です」

「俺は……いや、お願いします」

「はいっ! 任されました!」



 断る理由も俺が照れくさい事しかなかったので、大人しく撫でられる。


 凪の手は暖かく、優しかった。


 そして、お互い満足するまで撫でてから、俺達はまた席次と点数の書かれた紙を見つめた。



「なんとか二学期からは良い成績を取れたな」

「私の場合は継続ですが、蒼太君は本当に凄い事ですよ」

「いや、継続出来てる凪もめちゃくちゃ凄いと思う。……みんな凄いという事にしておこう」

「ふふ、それもそうですね。そういえば……瑛二さんはどうでした?」



 凪がまだ少し慣れていないように瑛二の名前を呼んだ。

 あれから――光との勉強会の後、瑛二達とも改めて勉強会をした。その時決めたのだ。みんな下の名前で呼ぶ、と。



「瑛二も少しずつ上がってきてるぞ。確か今回は学年で三十番台だったかな」

「良かったです。……最初の頃は赤点を取るかも、と蒼太君から聞いてましたが」

「物覚えは良いんだよ。やる気を出さない……というか、いつも霧香に振り回されるからというか。そんな感じだ。そういえば霧香も無事に赤点は回避したらしいな」

「勉強会の時に光ちゃんとみっちり教えましたからね」



 あの時の事を思い出して思わず苦笑が漏れる。霧香は……やろうと思ったらやれるが、腰が重いタイプだ。



「ちなみに光ちゃんは今回十番まで上がってましたね」

「光って器用というか、要領が良いよな。努力も人一倍してるからなんだろうが、なんでも出来る印象だ」

「文武両道且つ友人も多く、ファッションから家事も出来ますからね。裁縫とかも得意らしいですよ」

「……本当に凄いな」


 光のスペックが想像以上に高かった。瑛二達ももちろんそうなんだけど……俺の周りってみんなスペック高いよな。



 そこまで考えていると、凪が膝の上に置いていた俺の手を握ってきた。



「さて。ではみなさんのお話はこれくらいにして……本題に入りましょうか」



 本題という言葉を強調して凪が言う。その言葉に俺も察しがついていたので頷いた。



「ご褒美、だよな?」

「はい! 蒼太君も私もいっぱい頑張りましたから!」



 その笑顔は満開に咲いた花のように無邪気なものだ。時折見せる子供のような表情が凄く愛らしい。


 思わず抱きしめたくなるが、少し我慢だ。止まらなくて抜け出せなくなる。



「じゃあ早速、俺からいいか?」

「もちろんです! なんでもいいですよ!」



 その『なんでも』が言葉通りだという事は知っていた。

 だからこそ、前までは考えるのが大変だったが――今は違う。


 もう凪に対して遠慮はしない。特に、二人で楽しめる事に関しては。



「少し前にも話したし、まだ先の事なんだが――」



 そう前置いてから、彼女の瞳をまっすぐに見つめる。



「今年の夏休み、一緒に海に行こう」



 蒼い瞳が燦然と輝く。ずいっと顔が寄せられて……ぽむっと肩に顔が埋められた。



「行きましょう!」



 顔を埋めながら凪が声を強め、思わず笑ってしまう。


 多分、俺の意図にも気づいているのだろう。以前同じような話はしたけど、改めてちゃんと決めておきたかったのだ。


 いつか行きたいなで終わりたくなかったから。……凪とは色んなところに行きたいなで終わってるものが多すぎる。



「確かパパが沖縄に別荘を持ってます。そちらに行きましょう」

「お、おお……? いいのか?」



 久しぶりに……いや、俺の感覚が麻痺してきているだけで、凪もちゃんとお嬢様なのだ。お義父さんも、沖縄どころか全国各地に別荘を持っていてもおかしくない。


 思わず戸惑いながら彼女に聞いてしまったが、凪はとびきりの笑顔で大きく頷いてくれる。



「ホテルに泊まるよりお金の節約にもなりますし、パパなら許可してくれるはずです。夏休みですから一週間くらいお泊まりで……」

「最初の数日は二人で、途中から瑛二達も呼ぶとかはどうだ?」

「さすが蒼太君です。私の言いたい事を全部汲んでくれましたね。もちろん最初が二人きりでも最後が二人きりでも良いんですが。それは皆さんと改めて話す時に決めましょう」



 まだ瑛二達とは話もしてない段階だ。これも近いうち……凪がお義父さんに話してくれた後くらいに話そう。



「沖縄でやりたい事もたくさんあるんです。城跡もたくさんあるので見てまわりたいですし、琉球舞踊とかも見たいです。蒼太君、ご一緒にいかがでしょう?」



 凪は埋めた顔を上げ、ちらりと見つめてくる。



「……ご相判に預からせてください、姫様」

「ふふ。では参りましょう。琉球舞踊に関しては私も知識がありますし、図書館で一緒にお勉強するのも良いかもしれません」



 凪が楽しそうに声を弾ませた。その辺の知識もあったんだなと驚きつつ……勉強熱心な彼女ならと納得する。



「本当に楽しみです。それにしても――」



 凪が少し間を空ける。パチパチと彼女は何度か瞬きをし、ほんのりと頬を赤く染めた。



「……蒼太君にお姫様扱いされるのも悪くないですね」

「ん? そうなのか?」



 ちょっとしたおふざけのつもりだったのだが、思っていた以上に好感触だったらしい。


 凪はほんの少しだけ離れ、じっと俺を上から下まで見つめていた。



「……はい」

「凪?」

「いえ、その。蒼太君、執事服とか似合いそうだなと。話の流れからふと思いまして」

「執事服と来たか」

「もちろん褒め言葉ですよ。背筋も伸びて堂々としていますし。佇まいも上品ですから」



 褒め言葉がくすぐったくて笑うも、彼女の瞳は真剣であった。



「お世辞ではありませんよ。特に最近の蒼太君は堂々としていて凄くかっこいいです」

「……そっか」

「はい。思わずぎゅってしてしまいたくなるくらいにはかっこいいです。……もう一回してもいいですか?」

「もちろん」



 軽く腕を広げると凪が飛び込んでくる。言葉通り、ぎゅうっと強く抱きしめて。



「蒼太君はかっこいいです」

「そうあれるように頑張ってるよ」



 同じく抱きしめ返し、彼女から力が抜けたので俺もそうしてハグを終える。



「少し話が逸れたけど……凪はご褒美、どうする? 一日執事とかでも俺は全然いいけど」

「……元々決めていたんですが、そう言われると凄く揺らぎます」

「そこまでだったのか」

「執事服を着た蒼太君を外に出したくないくらいには、見てみたいです」



 それくらいならいいんだが……そうなると、どうやって執事服を調達するかの問題はありそうだ。瑛二辺りに相談してみればどうにかなりそうだけども。


 本格的に考えてしまいそうになり、頭を振って少しだけ彼女の言葉を巻き戻す。



「ちなみに元々考えていたっていうのは?」

「……そうですね。執事服は次のご褒美に回すとして。私も蒼太君と考え自体は似ています。『いつかやろう』で止まっているお話が結構あるので」



 凪はそう言って、ニコリと笑った。



「――明日、デートしましょう。蒼太君」

「デート?」

「はい、デートです」



 その言葉自体は凄く珍しいものではない。……しかし、続く言葉に俺は納得した。



「久しぶりに、お店で美味しいご飯が食べたくなりました。……ルンちゃんにも会いたくなったので」


 ◆◆◆


 ガタンゴトンと揺れる電車。いつもの駅に着けば、彼女が乗り込んできた。



「おはよう、凪」

「おはようございます、蒼太君」



 今日の凪はカーキ色のトレンチコートにキャスケット帽と、落ち着いた色合いであった。……しかし、地味かと聞かれると全くもってそんな事はない。

 雪のように白い髪や彼女の日本人離れした顔立ちと組み合わさって、とても大人っぽい綺麗さを生み出している。



「凪」



 名前を呼ぶと、彼女は小首を傾げる。その仕草も凄く可愛らしくて。



「凄く綺麗だ」

「……!」



 目を丸くして、緩んでいた頬が更に緩む。



「ありがとうございます。蒼太君も凄くかっこよくて素敵なお召し物ですよ」

「ああ、ありがとう」



 いつもの場所に移動するのも一苦労だった。今日は結構人が多い日だな。



「蒼太君」

「……ん」



 名前を呼ばれた意図を察して手を差し出せば、手を握られる。決して離れないように、指を絡めるような握り方で。


 ぎゅっぎゅっと感触を確かめるように握り、凪は満足した顔をする。



「最近は蒼太君と一緒に居るときは手を繋いでるので、こうしないと違和感があるんですよね」

「気持ちは分かる」



 例えるのなら……体育祭などで授業がない日、教科書が入っていないカバンを持っていくようなものだ。

 教科書を持ち帰っていた俺からすれば、忘れ物をしていないか、つい学校に向かいながら不安になる。


 凪と居る時は常に手を握る……という訳ではないが、大体は彼女の体温を感じる位置に居る。



「――最初の頃は指が触れるだけでビクビクしてたんだが」

「む。それは慣れてしまったという事ですか?」

「慣れるって言い方は多分正しくない。……生活必需品みたいな。いや、この言い方が正しいとも思ってないが」



 少しだけ恥ずかしくてそんな言い回しをしたら、凪が少しだけむっとした表情から笑顔へと変わっていった。



「ふふ。それなら良いんです。……いつかはキスもこれくらいの位置になるんでしょうか?」

「……さあ。少なくとも俺はまだ慣れる気配はないな」

「私もですよ」



 この数ヶ月、キスをした回数は数え切れないくらいとなった。だけど、慣れる気配は未だに見せてくれず……なんならキスを重ねる度に、幸福度は増していっているような気がする。


 この調子でいけば、いつか幸せで体が破裂するんじゃないかとも思うが。



「――ふふ」

「どうしました?」

「いや、ちょっとな。……いつか幸せで体が破裂するんじゃないかって、ガラにもない事を考えて」

「幸せで体が破裂、ですか。……そんなに簡単に人の体は破裂しませんよ」



 凪は弾むように言葉を紡いだ。



「私は毎日こんなに幸せなのに、破裂していませんから。たまに溢れちゃいそうになりますが」

「……そうか」



 それが嘘じゃない事は、彼女の表情と手を握る力……そして、普段の様子から分かった。


 心の中を暖かいもの――幸せが満たしていって、彼女と目を合わせて微笑む。



 今は外だからキスが出来ないが――そのもどかしさすらも楽しめそうな気がした。

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