第77話 旦那様
私達は、電車の中で出会った。
真っ黒な髪の毛は私のものとは少し違う。でも、触り心地はすっごく良い。
サラサラとしていて、撫でるとその顔が優しくなって。嬉しくなってしまう。
誰よりも頑張り屋で、努力家で。向上心のある男の子だ。
蒼太君はすっごく優しい顔をしている。
私がして欲しい時に、して欲しい事をしてくれる。
手を繋ぐとしっかり握り返してくれるし、ぎゅってするとぎゅっと、力強く抱きしめ返しててくれる。
……ちゅーをすると。頭を撫でてくれる。
蒼太君は優しい。優しくて、強い。
芯がある所が大好きだ。
私が取り返しのつかない事をしてしまって。それでも、私を愛してくれた。
だからこそ、私は彼を幸せにしたい。彼と幸せになりたい。
でも、幸せがいっぱいになりすぎると溢れてしまうから。適度に幸せになるのが一番だ。
色々な事があって、色々と決意をして。
後はもう、二人でゆっくりと進んでいくと思っていた矢先の事。
「一ヶ月ほど、とあるマンションで二人で暮らして欲しいんだ」
お父様の言葉が頭に反響する。
……二人で暮らして欲しい?
そ、それは。二人暮しをする、という事?
「詳しく説明しよう」
「お願いします」
お父様と蒼太君の言葉にハッとなって。意識を切り替える。
ちょっと。ちょっとだけ良くない妄想をしそうになってしまった。
こんな真面目な場所でするのは変態さんだけだ。
「最初は蒼太君に、この家へ避難してもらう、という事も考えた。しかし、ここよりもっと安全な場所がある」
「……お家より、ですか?」
「ああ」
このお家はかなり警備が厳重だ。
防犯カメラは当然、警備員の人も常駐している。何かあればすぐに駆けつけてくれる手筈になっている。と聞いた。
ここより安全となると。
「凪には昔話した事があるかもしれないな。要人警護の為のマンションだ」
「……! あそこですか」
パパの言葉にピンとくるものがあった。
「要人警護の為のマンション?」
「パパ。私から説明しても?」
「ああ、頼もう」
パパから許可を貰って。蒼太君を見る。
「我が家……というかパパの経営する会社はとある警備会社と契約を結んでいます」
こくりと頷く蒼太君に話を続けた。そんなに難しい話ではない。
「そこの警備会社の近くに、とあるマンションがあります。一部の階層のみしか入居者が居ない、という作りになってまして。その階層以外には警備会社の社員が住んでるんです」
「……なるほど」
蒼太君が相槌を打ちながら、頭の整理をするように何度か頷いた。
「要人。パパのように偉い人がもし殺害予告などを受けた場合の避難所、と行っても良いですね。そのマンションに住んでいる人は全員が顔見知り。指定された人物以外の者が現れたら即刻拘束。という作りになってるんです。もちろん警護は日本の中でもトップレベルです」
「……凄いな」
もちろん、それなりに……いや。相当なお金がかかる。
でも、そこまでは話さなくて良いと思う。
「凪の話してくれた事で合ってるな。マンションもそんなに遠い場所ではない。学校に関しても車で行けば良いし、蒼太君にも警護人は付けよう」
「えっ……と。そ、それだけ大変な状況なんですか?」
「念の為、だ。油断はしたくない。絶対に二人に危害は加えさせない。万が一すらも許したくないんだ」
パパの言葉を聞いて。蒼太君が何かを考え込むような表情をした。
「もちろん蒼太君の両親には私から説明しよう」
「ああ、いえ。住む理由は分かりましたし、俺としては構わないんですが。少し……その」
珍しく蒼太君が言い淀んだ。どうしたのだろう。
「……悪い。凪、少しだけ席を外して貰えないか?」
「え? 別に良いですけど」
蒼太君に言われて部屋を出る。どうしたのだろう。本当に。
◆◆◆
部屋を出て、十分程経った頃。蒼太君が来てくれた。話は終わったらしく、私は蒼太君と一緒に部屋に入った。
すると、パパが私を見て。尋ねてきた。
「聞くのが遅くなったが、凪は大丈夫か? 蒼太君と一緒に暮らしても」
「あ、はい。私は大丈夫ですよ。パパとママ達から離れるのは少し寂しいですが。蒼太君と一緒なので」
それに、もう会えなくなる訳ではない。寂しくなったら電話をすれば良いのだから。
「分かった。蒼太君からも無事許可を貰えたよ。蒼太君の両親からも許可を貰わないといけないが。許可を貰い次第、すぐに移って貰う事になる」
「わかりました」
「はい!」
お洋服など準備をしておかねばならない。
それにしても、蒼太君と二人暮らし……。
前向きな理由かと聞かれれば頷く事は出来ないけど。
少しだけ楽しみに思ってしまった。
◆◆◆
カチャリ、と。鍵を開ける音がして。
私は少し急ぎ気味に玄関へと向かった。
「蒼太君!」
「ああ、凪。待たせたな」
「……違います。そうじゃありません」
そこにはキャリーバッグを持った蒼太君がいた。蒼太君が小さく笑って。こほん、と咳払いをした。
「ただいま、凪」
「はい! おかえりなさい、蒼太君」
玄関は段差になっていて、蒼太君と顔の距離は近い。
顔を近づけると。蒼太君は察してくれて、唇を重ねてくれた。
少しだけ長い口付け。蒼太君の手が伸びてきて、頭を優しく撫でてくれた。
幸せな気持ちが流れ込んできて。心がふわふわとして、心がどんどん軽くなっていく。
少しして。蒼太君が唇を離した。……少しだけ寂しい。
「……なんか。凄くいい匂いがするな」
「はい! ホットケーキ焼いてたんです! 蒼太君と一緒に食べようと思いまして!」
蒼太君の目がきらんと輝く。美味しいご飯に関して、蒼太君は目がない。
つまりは、それだけ期待してくれているという事で。また嬉しくなる。
「上手く焼けました! 先にどうですか?」
「ああ、貰おうかな。先に手、洗ってくる」
「はい! 待ってますね!」
ホットケーキ。初めて焼いたにしてはかなり上手くいった。
喜んでくれるかな。喜んでくれると良いな。
◆◆◆
リビングはかなり広い。
テーブルも大きくて、十人くらいで囲んでも余裕がありそうだった。
大きなテレビの反対側に。私は蒼太君と並んで座る。
「美味しい。とても。とても美味しい」
「ふふ。良かったです」
ホットケーキを一口含み。蒼太君は目を輝かせた。
味見をしたから、酷い出来になっていない事は分かっていた。
それでも、美味しそうに食べてくれると嬉しい。すっごく嬉しい。
ハチミツとシロップを用意していて、蒼太君はその両方を食べ比べて楽しんでいた。
小さく笑いが零れて。また美味しいよと伝えてくる蒼太君に顔を寄せる。
少しだけはしたない事は分かっていた。
でも、心の中に生まれた悪戯心は鎌首をもたげげていて。
その唇の端に付いていたシロップを、舌で舐めとった。
蒼太君の頬がぴくり、として。少しずつ紅潮していく。
「ふふ、あまいです」
舌の上に乗ったシロップを転がそうとしていると――
「んっ」
唇を、重ねられた。
数秒にも満たない、短い時間。
ふわりと、甘い匂いと味が口の中を突き抜ける。
「……ぁ」
その口が離れると。途端に寂しさが襲ってくる。
蒼太君が少し困ったように笑った。
この顔も大好き。
頭に手を置かれて、髪を梳くように撫でられる。
これも大好き。
全部、全部大好きで。
たまらなく、愛おしい。
「一回だけ。ぎゅってしたいです」
「いいよ、そんな言葉にしなくても。いつだってぎゅってしてくれ」
ふわりと、蒼太君の匂いに包み込まれた。
蒼太君の匂い。大好きな匂い。
ぎゅっと、力強く抱きしめると。蒼太君も力強く抱きしめてくれる。
たくましくて、暖かくて。大好き。
「大好きです、蒼太君」
「俺も大好きだよ、凪」
これから一緒に住める。その理由は前向きなものではなかったけど。
でも、楽しみだった。
◆◇◆
「よし。じゃあこれで良いですかね?」
「ああ。また何かあれば話し合おう」
ホットケーキを食べて、荷物を片して。夕食を食べ終えた後。
俺達は話し合いをしていた。
生活をしていく上での価値観のすり合わせや、家事の担当分配などの話し合い
凪がホワイトボードを改めて見せてきた。
「私は料理。蒼太君がごみ捨てと洗濯。お掃除は週末に一度で、交代ずつですね」
「ああ。風邪や忙しい時は前もって言って、代わってもらう。もだな」
初日に担当は決めるべき、と母さん達からも言われていた。そして、価値観のすり合わせも。
同棲をする上でお互いを尊重し、楽しく暮らすために。
「お買い物は基本二人で。……と言ってもボディガードの方は付くでしょうが」
「そうだな。まあ、それは置いておこう」
話してみてやはり、こうした場を設けるのは大切だと感じた。
お金の事も大切だ。宗一郎さんに全て出して貰う事になってしまったから。
『今回は全て私が原因だ。私の立場からして支援をしない訳にもいかない。理解して欲しい』
そう言われてしまっては断れない。基本は凪が管理する事になっていたが、もし足りなくなればすぐ言って欲しいとも言われている。
まだ他にもお互い、気になる事が出てくるだろう。その為、一日に一度は話し合いの機会も設ける事にした。
「お互い無理をしないように。少しでも気になったこと。不安や不満があったら伝える」
「はい。お互い、きちんと話し合えば伝わるという事は分かりましたからね」
凪が決まった事をホワイトボードに書き記していく。既に四枚目に突入していた。
改めて凪が見直し。四枚目……まだ空白の多い箇所を見つめた。
「さ、最後に一つ。いえ、二つ。決まり事を増やして良いですか?」
「ん? なんだ?」
凪の蒼い瞳が小さく揺らぐ。しかし、決心したのか。俺をまっすぐ見据えた。
「一つ目は。……お、おはようと行ってきます、そしてお帰りなさい。そして、おやすみなさいと仲直りのちゅーをする事、です」
「ひ、一つにまとめるにはかなり多いのが出てきたな?」
しかし言っている意味は大体分かったし、問題ない。ただ一つ、気になる事があった。
「仲直りのちゅー、って」
「もし、喧嘩をしたら。同じ家に住むので、気まずくなるかもしれません。だからこそ、そういう時にちゅーをして仲を深めるべきかと」
「なるほど。良い考えだ。……良い考えだよな」
少し気まずくなりかけた時、凪と強くハグをしていた。あれと同じような事だろう。
少し俺も感覚が麻痺してるような気がするが。まあ、悪い事ではない。
その他、喧嘩をした時のため。また、一人になりたい時もあるだろうと、寝室以外にお互いの自室を設けていた。……部屋は多いのだ。
考えている間も、凪はじっと俺を見据えていた。
「仲直り以外。後は私が蒼太君とちゅーをしたいからです」
「お、おお……正直だな」
「今更取り繕う事もありませんし。……蒼太君とのちゅーは幸せすぎるので。もう少し慣れて……いいえ。日常の一コマにしたいなと」
ふむ、と考え。俺は頷いた。
「分かった。そうしよう」
「……! はい!」
ニコニコと笑いながらホワイトボードに書き足していく凪。思わずこちらまで頬が緩んでしまう。
キュッ、キュッ、とペンを走らせ。凪がまた俺を見る。
「あ、あと一つはですね」
「ああ。なんだ?」
「大丈夫だとは思うんですが。一日に一度は……その。大好きだと伝えたいんです」
ほんのり頬を赤くそめて。凪ははにかむように笑った。
「パパが言ってたんです。一番大切な事。それは、お互いに好きだとちゃんと伝える事だと」
「……そういえば昔、父さんも同じ事を言ってたな」
最近は熟年離婚も増えてきている。そうでなくとも、結婚して数年後には離婚する夫婦は増えているとテレビで見た。その時父さんが言っていたのだ。
『一緒に暮らす上で一番大切な事は、自分の気持ちを素直に伝える事。特に好きって言葉は言った方がお互い気持ちいい。だろ?』
その後、母さんに限度はあると言われていたが。
「確かに大切だな」
「はい! という事なので、入れたいなと!」
「ああ、そうだな。入れておきたい」
はい!と元気よく返事をして。凪がまたきゅっ、きゅっ、とホワイトボードに書き記していく。
「……じゃあ、早速。良いですか?」
「もちろん。良いよ」
凪がホワイトボードとペンを置いて。じっと、俺を見る。
その顔がそっと。近づいてくる。
甘い匂いが鼻腔をくすぐる。凪の手がそっと胸へと置かれた。
暖かい。その手に手を重ねると、凪は手をひっくり返して。手をぎゅっと握ってきた。
その顔がすぐ目の前に来ていて。もう片方の手を背中に回された。
こつん、と額がぶつかる。視界いっぱいに凪の綺麗な顔立ちが広がって。
その蒼い瞳が本当に綺麗で。じっと、見つめてしまう。
その蒼い瞳には仄かな明かりが点っている。陽の差す海中のように、冷たくも暖かい。
「大好きです、蒼太君」
一瞬だけ額が離れて。顔が斜めになり、唇を重ねられる。
何度行われても、慣れる事はない。
心臓がバクバクとうるさくなって。
幸せな気持ちが流れ込んできて。
嬉しくなって。
愛おしくなって。
その唇が離れるも。その瞬間には、俺から唇を押し当てていた。
今は目の前の彼女が余りにも愛おしくて。心の底から――思う。
「大好きだよ、凪」
そう返して離れると、凪の頬がゆるゆるになる。
その姿はとても可愛らしくて。そのほっぺたに手を置くと、凪が目を瞑った。
凪のほっぺたはもちもちで柔らかく、すべすべだ。いつまでも触っていたくなる。
ぷにぷにと頬をつついたり、撫でていると時間が過ぎていく。
「蒼太君」
凪の手が俺の頬に触れた。陽の光のように暖かい。
「これから頑張りましょうね。色々、大変な事もあると思いますが。蒼太君となら、全部乗り越えられます」
「ああ。二人で頑張ろう」
いきなり始まった事だが。凪と一緒なら問題ない。心配など、一切ない。
それどころか――
「楽しみだよ」
「ふふ。私もです」
凪と二人で暮らせるのだから。楽しみじゃない訳がない。
「本当に――蒼太君の奥さんに慣れたような気がして。嬉しいです」
凪がそう言って。また小さく笑う。
じっと。その蒼く。その中に柔らかい光が点った瞳が俺を見据え――
「――旦那様」
ゾクリ、と背中を何かが伝い。腹の底から何かが込み上げてくる。
「ふふ。パパ、はまだ早すぎますね。……あなた、という呼び方も私は好きだったりしますが。蒼太君はどれが好きですか?」
「お、俺は……別に」
「旦那様」
喉から変な音が漏れそうになった。凪が小さくくすりと笑う。
「蒼太君はこちらが好きなんですね」
「……」
顔がどんどん熱くなっていき。顔を逸らそうとするも、出来ない。
凪が俺の手を取り。指を絡め、繋げる。片手ではなく両手。
「それでは改めて。不束者ですが、よろしくお願いしますね。――旦那様」
とても良い笑顔でそう言われて。
「……こ、こちらこそ。よろしく頼む」
そう返す事しか出来なかった。
果たして俺は耐えられるのだろうか。……いや。もう耐える事などほとんどないのだが。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます