第52話 忘れてはいけない過去

『やり直したい』


 そう告げてきた凪は少し怯えた様子を見せていた。しかし、確かにその瞳は俺を射抜いていた。


「私は」


 その声は震えていた。一度、凪が咳払いをする。


「私は、蒼太君との思い出は全てかけがえのないものだと思っています。これから先、もちろん喧嘩をする事もあるはずです。……ですが、それもいつかは笑い話になります。しかし、です」


 凪が俺の手をきゅっと握る。


「……あの日は。あの日だけは別なんです。私が蒼太君を傷つけてしまったあの日は。絶対に笑い話にしてはいけません。私がお墓に入るまで心に刻んでおくべき事です」

「……俺は」


 気にしてない。と言おうとして、止めた。


 あの時、俺が傷ついた事は確かだ。

 瑛二が来てくれなければ、今も不貞腐れて……高校にも行けなかったかもしれない。


「過去は消せません。それは理解しています。でも。これから先、遊園地に行く度に蒼太君に嫌な事を思い出させたくありません。私は絶対に忘れませんが、蒼太君には楽しい思い出を残して欲しいんです」

「……凪」

「好きな人にはずっと幸せで、笑顔でいて欲しいんです。もう、悲しい顔はさせたくないから、やり直したいんです。あの日を」


 俺は思わず――凪を抱きしめていた。


「ありがとう」


 その体を強く抱きしめる。この思いが伝わるように。


「俺からも頼みたい。……やり直そう。あの日を。二人の楽しい思い出を作ろう」

「……! はい!」


 凪が嬉しそうに頷いた。抱きしめたままその頭に手を置き、撫でるとくすぐったそうに笑った。


「……それと。一応、もう一つ理由がありまして」

「なんだ?」


 凪がほんのりと頬を赤くして……さっと目を逸らした。


「将来。わ、私達に子供が出来て。その子と遊園地に行った時、色々と思い出して……その子まで楽しめなかったら、嫌じゃないですか」


 思わず、撫でる手を止めてしまった。凪が恐る恐る、俺を見てきて……


「わふっ」

 俺は、顔が見られないよう凪を強く抱きしめた。


 今はとても見せられる顔ではなかったから。


「そ、蒼太君……?」

「……嬉しかったんだ」


 顔が熱くなる。でも、感謝の気持ちは伝えたかったから。


「凪のその心遣いが嬉しかったんだ。まさか、そこまで考えてくれてるとは思わなかったから」


 そのまま俺は下を向き、手の力を抜くと。凪が目を合わせてきた。


「ありがとう、凪」

「私からお願いする事なので別にお礼は……」

「それでも。嬉しかったから言わせてくれ」


 そう言うと、凪は数秒迷った後に……微笑んだ。


「分かりました。どういたしまして、です」


 そうして、また数分ほどお互いを抱きしめ合っていたのだった。


 ◆◆◆


「そういえば。もう一つ聞きたい事があるって言ってませんでしたか?」

「ああ、そうだった。凪。……この前渡した鍵って今はどうしてる?」


 俺がそう聞くと、凪の耳がぴくりと動いた。


「……いえ、その、ですね。なんといいますか」


 少し言いにくそうに。しかし、凪は続きを話してくれた。


「無くしてはいけないと、小箱に入れて大切に保管しています」


 予想外の言葉だった。その言葉の意味をちゃんと理解して、俺は笑ってしまった。


「そうか……凪らしいな」

「わ、分かってはいるんですよ? 鍵は大切に眺めるものじゃなく使う物だと……。で、ですが。無くしたらと思うと怖くて」


 保管だけではなく眺めているのか……ではなく。


「それなら、キーケースとか。まだ買ってないか?」

「あ……そういえばそうですね。まだ買ってません」

 ずっと置いていたからだろう。その言葉に俺は少しだけ安堵しながら口を開いた。


「キーケース、俺がプレゼントしても良いか?」


 鍵をプレゼントした時からずっと考えていた事だ。言う機会を逃しており、既に買ったかもしれないと考えていたのだ。


「良いんですか!?」

「あ、ああ。……すぐに思いつくものはこれぐらいしかないが。他に欲しい物とかないか?」


 想像以上の食いつきに笑いながらもそう聞く。しかし、凪はぶんぶんと首を振った。


「い、いえ。蒼太君から貰える時点ですっごい嬉しいですし。……逆に、その。そんなに貰ったら嬉しさが溢れちゃって大変な事になるので」

「そ、そうか……」


 一つ一つの言葉が心を揺れ動かす。ドクドクと高鳴る心臓も……凪にバレているんだろうなと思っていると。

 凪がじっと俺を見ている事に気づいた。


「蒼太君は……その、欲しい物とかあったりしますか?」

「俺か? 凪から貰えるならなんでも嬉しいんだが……」

「そ、そうですか。一応、私も色々用意してまして。楽しみにして頂けたらなと思っているんですが」


 その言葉に俺は少し驚きながらも、少しホッとした。変な事を言わなくて良かったと。いや、何を貰っても嬉しいというのは本音なのだが。


「ああ。楽しみにしてる」

「はい!」


 そして、凪が離れる。……とても名残惜しそうに、そっと胸に手を置きながら。


「それでは。本当ならもっと居たいのですが、運転手さんにも連絡しちゃったので。そろそろ帰りますね」

「ああ。悪いな、時間を取らせて」

「いえ。私もクリスマスの事は早く言いたいと思っていましたから」


 凪がにこりと微笑み、帰り支度を始めた。


「よし、こんな所ですね。忘れ物も大丈夫でしょうし」

「ああ、多分大丈夫だと思う」

 凪はカバンを持って、俺の手をきゅっと握った。


「……あと少しでお別れだと思ったら、少し寂しくなったので」

「また明日も会えるぞ。気持ちは分かるが」


 凪が居なくなるとこの部屋は随分と寂しくなる。……俺も、凪と一緒に居て変わったな。


 そのままゆっくり。俺は凪と玄関に向かう。

 靴を履いて、扉を開けると冷たい風が入り込んできた。凪の手がぎゅっと更に強く握ってきて。その温もりが手を通じて体に、そして心に流れ込んでくる。


「さて。体が冷えちゃいますから、ここまでで大丈夫ですよ」

「ああ。分かった」


 凪の手がそっと離れる。凪は俺を見て、ニコリと笑った。


「蒼太君」


 凪が名前を呼んできた。そして、少し上を向いて顔を突き出した。


「二回目は蒼太君からお願いします」


 小さな呟きは、確かに俺の心臓に響いた。落ち着き始めていた心臓がまたドクドクと脈打ち始める。


「……分かった」


 二回目。それが何を表しているのか分からないはずがない。

 そっと、凪の前髪を耳にかける。凪はくすぐったいのか、口元を少し緩ませた。


 凪はとても綺麗だ。


 その真っ白な肌、そして髪の毛は雪のように真っ白で、どこか幻想的である。

 今は目を閉じているが、その蒼い瞳は海の底のように静かで、引き込まれるような魅力があった。


 当然、顔のパーツの一つ一つがとても綺麗で……それが組み合わさると、いつまでも見たいと思える美しさがあるのだ。


 ……実際、凪の魅力はそれだけじゃないのだが。


「んっ」


 その頬に手のひらを優しく当てると、凪の唇から小さな声が漏れた。そのまま優しく撫でると、気持ちよさそうに微笑む。


 しかし、いつまでもこうして誤魔化す訳にはいかない。


 俺は手をどけて、顔を近づけた。ふわりと甘い匂いが鼻をくすぐる。

 いつも、近くに居るのにまだ慣れない。慣れる日が来るのだろうか。……慣れたいという思いと、慣れた時が少し怖いという思いが渦巻きつつも、俺はすぐにそんな事を忘れた。


 その柔らかく瑞々しい唇に触れたから。


 甘い香りが脳天を突き刺し、痺れさせる。


 凪の腕が俺の背中へまわり、ぎゅっと抱きしめてきた。


 数秒で終わるはずだったのに……凪は俺を離そうとしてくれない。


 呼吸すらも忘れるような多幸感。口の中が甘くなるような錯覚すらも覚える。


 凪の瞼がうっすらと開き、蒼くとろんとした瞳が覗いてきた。

 まるで理性を失ったように、その瞳……そして、唇が求めてくる。


 当然、唇を重ね合わせるだけの軽いものだ。深いものではない。

 しかし、凪の瞼から除く瞳が、腕が。体の温もりが俺を欲しているのだと分かり、嬉しくなってしまう。


 しかし、どうしても呼吸の限界が来て――数十秒の後にやっと、凪が離してくれた。


「……ごめんなさい。私、蒼太君との。き、キスがどうしても嬉しくて……何回かすれば慣れるって、そう思ってたのに。全然そんな事なくて……」


 離れたと言っても距離は近い。潤んだ瞳を向けられながらそう言われると、心の中の何かがグラグラと揺れ始める。


 落ち着け……。


「一緒だ、凪。不安にならないでくれ」


 大きな音を立てる心臓を無視しながら、俺は凪の頭を撫でた。


「俺も……その。凪とするのは好きだし、慣れるどころか……どんどん心臓がうるさくなるんだよ」


 ああもう、顔が熱い。でも、凪が不安にならないなら……と伝えた。


 凪は、一瞬。一瞬俺を見て、


「……どれだけ」


 小さく、呟く。


「どれだけ、私を好きにさせたら気が済むんですか。蒼太君は」


 その言葉に俺の呼吸が自然と止まってしまう。しかし、凪の言葉は意図して出たものではなかったのか、凪はハッとした表情になり。顔を手で覆い隠した。


「こ、これ以上は色々と……限界を迎えそうなので。今度こそ帰りますね」

「あ、ああ」


 凪がくるりと振り向いて、すたすたと歩き始める。その間に俺は呼吸を整え。


「また、明日な。凪」


 そう言うと。凪はエレベーターの前で立ち止まり。振り返った。


「……また、明日ね。蒼太君」


 その言葉と同時にエレベーターの扉が開いて、凪は小さく手を振りながら中に入っていった。


 俺も手を振り返し……凪が入ったのを確認して、ふうと。


 長く、息を吐いて。扉に背を預けた。



「……かわい、すぎるだろ」


 時折出る凪の言葉。……敬語では無いそれは、的確に俺の心臓に。理性に揺さぶりを掛けたのだった。


「クリスマス、耐えられるかな」


 頬を撫でる冷たい風が、今は少し心地良かった。

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