第88話 海以蒼太の初仕事
「そういえば今日からなんだっけ?」
「はい、そうですね」
学校で光ちゃんとご飯を食べていると、ふと思い出したようにそう聞かれた。何を、と聞かなくとも分かる。
「蒼太君のアルバイトが本格的に始まりますね」
「しかもアルバイト、って言いながら結構ガチの仕事なんでしょ?」
「そうですね……お父様からは本当に多くの事を教えられたようですし。恐らく経理や総務などを中心にやるのかなと。あ、それとマーケティングに関する事もですね」
お父様からは特にPCの扱い方を中心に教わったようだった。
データや書類の作成なら出来るようになったようだし、その辺りなら多分大丈夫だと思う。
プログラミングはお父様の専門外で教えられていないし、営業をするには余りにも若すぎる。どちらも不向きだ。だからそこには行かないと思う。
そして、マーケティングの知識はお父様から教えられたはず。
お父様の仕事の性質上、若い人からの意見は貴重だ。多分そちらにも引っ張り出されるんじゃないのかなと思う。
「あれ? でもさ。普通部署って一箇所でずっと働くもんじゃないの?」
「時と場合にもよりますし、得手不得手によって異動などもあるでしょうが。そうでしょうね。……まあ、その辺はお父様の権限という事で」
「あー。まずは適性を、みたいな感じね」
「それもあると思います。ですが恐らく、他にも理由はあります」
首を傾げる光ちゃん。頭にクエスチョンマークが浮かんでいるようで、非常に可愛らしい。
これは私の邪推も含まれる。だから話そうか迷ったけど、結局話す事にした。
「仕事を知って貰うためですね」
「ほほう? それは何のために?」
「将来、彼をトップへと就かせる為だと思います」
色んな部署へと向かわせ、仕事の内容を知って貰う。そして、彼の顔を知って貰う。
「……やっぱそれガチなんだ」
「頭の片隅に、というレベルは既に越していると思います。その為に必要な事はたくさんありますから、その一環でしょうね。蒼太君は知識も経験もまだ足りていませんから」
彼がトップに立つとしても、まだ必要な物は多い。しかし、それはこれから身につけられる事だ。
十年、二十年掛けて。それを蒼太君に身につかせる気だと思う。
「や、それは良いと思うんだけどさ。実際それって反発とかやばそーじゃない?」
「それも含めてだと思いますよ。皆に蒼太君の人柄を知って貰う事が大事ですから。十年後への布石を今打っている訳です」
なるほど、とうんうん頷く光ちゃんへを見ながら私は考えた。
「もちろん、全員から好かれる事は不可能です。でも、それを限りなく減らすためにお父様が動いているという事ですね」
「だからあれなんだね。最初は着物のお店でアルバイト、とかでもなかったんだ」
「……状況が違えば、そこからだったとは思いますよ」
本当ならお父様も、蒼太君を本社ではなく販売店の方に行かせたかったと思う。接客から得られる事はとても多いはずだから。
でも今、私と蒼太君の置かれている状況からしてそれは難しいのだ。
「私の推測になってしまいますが、一通り落ち着いたらお父様の企業と契約している販売店にも行くのかなと」
「なーるほど。……や、これ一高校生がやっていい事じゃないよね」
「ですね。だからこそ、私も頑張らなければいけません」
環境の変化もあって、蒼太君にはかなりのストレスが掛かっていた。最近どうにか取り除けるようになってきたけど……。
「あれ? そういや凪ちゃんもなんかやるんだっけ」
「はい。茶道と華道の習い事の回数を減らし、お母様に色々教えて貰おうかなと。まだ先の事ですが」
「あ、習い事の回数減らすんだ」
「ええ。今までは週に一度でしたが、月に一度くらいの頻度に減らして貰う予定です」
元々、日本舞踊に比べるとこの二つは趣味の範疇に収まっていた。
最近はあまり習い事も行けていなかったけど、来週からは再開する予定だ。
「蒼太君一人に頑張って貰う私ではありませんからね」
「凪ちゃんらしいね。でも無理はしないでよ?」
「はい、もちろんです!」
自分の限界は知っている。
これ以上はキャパシティがオーバーする。そして限界が近いと分かれば少しお休みを貰う予定だ。
「お母様もお父様も、そこまで無理はさせないです。というか許してくれませんよ。……蒼太君の事がありましたからね」
「あれもびっくりしたねー。解決したっぽいから良かったけどさ」
「はい。二度と彼には無理も無茶もさせません」
その為に私も色々動かないといけない。
「息抜きもいっぱいする予定なので。またどこかに遊びに行きましょうね」
「おー! みんなでどっか行こー」
今度はみんなで彼の実家に行くのも良いかも、と思いながら。私はお昼に手を付け始めたのだった。
◆◇◆
「初めまして。
幾つもの視線がこちらへと向かう。やけに口の中が乾き、手汗が滲む。
噛まないように気をつけながら、辺りを見渡した。
「東雲宗一郎様から紹介され、しばらくはここでアルバイトをする事になりました。アルバイトという事で、皆様より立場はかなり低いです。どうかお気を遣わないで頂きたいです」
そこで言葉を区切りつつも、表情筋が固くならないように笑顔を維持する。
「皆様の足を引っ張らないよう精一杯頑張ります。どうかよろしくお願いします!」
そこまで言って礼をする。同時にぱちぱちと拍手が起こった。
それを耳で聴きながら、ホッと息を吐く。
「えー。という事で、皆に既に通達は行っていると思うが、彼は海以蒼太君だ。東雲様のご令嬢の婚約者ではあるが……本人や宗一郎様もおっしゃっていた通り、気は使いすぎるなとの事だ。しかし、若いからと言って無礼は働かないようにな」
頭を上げると、隣に居た
「それでは……そうだな。
「はいっす!」
彼の言葉に一人の社員が立ち上がった。茶色の髪で、歳はかなり若そうに見える。
「海以君。彼は
「お褒めに預かり光栄っす!」
「……口調が少しアレだが、立派な社員だ。この中だと歳も近いし、色々教えて貰うと良い。伊東も良いか?」
「お任せくださいっす!」
伊東さんはビシッと敬礼し、ニコニコと親しみのある笑みをこちらに向けた。
「もう定時も近いし、今日は軽く業務の確認をするだけで大丈夫だ。もし分からない事があれば彼に聞くと良い。もちろん、他の社員でも快く教えてくれるだろう」
「は、はい! ありがとうございます!」
早速気を使われてしまった……かと思ったが、これは俺じゃなくて普通の新入社員もやっている事なのかもしれない。
「それではみんな、時間を取ってくれてありがとう。業務に戻ってくれ」
その部長の言葉を皮切りに、皆は仕事へと意識を向けたのだった。
「海以君、まずは自分に着いてきてくださいっす」
「は、はい。……あの。私に対しては別に敬語は使わなくて大丈夫です」
「あー、気にしないでくださいっす。これ、昔からの癖なんで! 就活に向けて頑張って直したんすけど、気がついたら戻ってたんすよね」
ちょっと特殊な丁寧語? のようなものだと思っていたのだが、どうやらこれが普通らしい。
「ちなみに海以君はPCは扱えるっすか? 無理なら色々教えるっすけど」
「基本的な操作は行えます」
「表管理とかも出来るっすか?」
「はい。出来ます」
一番最初に教えられた事だ。ふむふむ、と伊東さんは頷いて。あっと声を漏らした。
「そういえばちゃんとした自己紹介がまだでしたね。俺は伊東裕太っす! 趣味はカラオケっす! みんなからは親しみを込めて伊東っちって呼ばれるっす! 好きに呼んでくださいっす!」
「え、ええと、それでは伊東さんでお願いします。私の事も海以でも蒼太でも、好きな呼び方でお願いします」
改めての自己紹介をして、伊東さんはニッと笑いかけてくれた。
「じゃあ海以っちで」
その面影に――とある、二人の友人の事を思い浮かべてしまう。ほんの少しだけ頬が緩んでしまいそうになりながら、俺はお辞儀をした。
「はい。よろしくお願いします、伊東さん」
「よろしくっす!」
そして。俺のアルバイト生活は始まったのだった。
◆◆◆
「特に海以っちにやって欲しい事は売上のまとめっすね。この企業は色んな事に手出してるから……めちゃくちゃ表が多いんすよ」
「あー。海外にも展開してるんでしたっけ」
「っすね。というか海外がメインっす」
宗一郎さんは大きくまとめると、二つの事に手を出している。
着物の販売。そして、レンタルである。国内はもちろん、海外に大きく展開していると聞いた。
そして、伊東さんと話していると……この話し方で色々大丈夫なのかと思いつつも、周りを見たところこれが平常運転らしく問題ないようだった。
アットホームな企業……と言うとブラックを想像しがちだが、ここはかなり自由な社風をしているようだった。
いや。彼にそれ相応の実力があるから、という理由もあるのだろう。
新卒でありながら、俺を任せられるくらいしっかりしているという事なのだから。
「あ、でもここはあんまり英語は必要ないっすからね。営業とかその辺は必要になるらしいっすけど」
英語も多少は自信はあったが、さすがにネイティブな外国人と仕事について話す自身はなかった。ありがたい。
「とりあえずは仕事が割り振られるんで。各店舗から渡された売上を地域ごとに表にまとめて、俺に送ってくれれば大丈夫っす。大丈夫そうなら上司に送って最終確認して貰うんで」
そこまで言って。ふと伊東さんが何かを考え込むようにPCを見た。
「百聞は一見にしかず、っすね。一旦一つ表まとめて送ってみるんで、そこ座って見てくださいっす。あ、そこが海以っちの席とPCっすからね」
「あ、ありがとうございます」
それから、伊東さんから実際に見せて貰いながら仕事の流れを教えて貰った。
◆◆◆
「そういえば海以っちは土曜も来るんすよね」
仕事を教えて貰いつつ、ふと伊藤さんに聞かれる。はいと俺は頷いた。
「多分聞かされたと思うっすけど、この会社は週休二日で祝祭日は別で休みっす。んでも、二日間何曜日に休むかは自分で決められるんすよね」
それは宗一郎さんからも聞かされた事だった。
『残業や休日出勤はなるべく減らしている。仕事のパフォーマンスに関わるからだ。量より質が大事なんだよ』
俺は平日だと一時間か良くて二時間しか働けない。
その事を相談した所、言われたのだ。土曜に働く社員も多いから大丈夫だと。
「ちなみに俺も土曜は居るっすから。あー、でもそうっすね。有給で居ない事もあるかもしれないし……仕事終わったら二、三人くらい紹介するっすね。俺が居なかったらそっち頼ってくださいっす」
「わざわざありがとうございます」
「いや、いいんすよ。俺もこんな風に教えられたんすから」
宗一郎さんの関係者だから……という事もない訳ではないのかもしれない。
だけど、彼の言動はそれらを滲ませないものだった。
「後はそっすね。なんか聞きたい事とかないっすか? なんでもいいっすよ」
「そうですね……あ。メールの文面について聞いても良いですか?」
「あー! 良いっすよ。こういうの迷うっすよねー。俺も大学の時めちゃくちゃ迷ってたんすよ。実際に何個か作ってみるんで、実際に見てくださいっす!」
そうして、伊東さんは懇切丁寧に教えてくれた。
その日は特に問題もなく、終わったのだった。
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