第108話 悪い事

 俺が通っている高校の最寄り駅。そこの近くにあるカフェは、季節ごとにフェアもあって値段もお手ごろと学生に人気だった。


 そして、ここは――俺が瑛二達と初めて勉強会をした後、霧香にお礼として連れてこられた場所でもある。



「このカフェにもずっと来たかったんです」



 カフェに入り、注文を済ませた後。凪はニコリと楽しそうな笑みを浮かべてそう言った。


「……俺、凪にここで霧香と食べたって言ったか?」

「ああ、そういえば言ってませんでしたね」


 凪には霧香とカフェに行く事は話したが、場所までは話した事はない……はずだ。


 ふとした時に話したのかもと思って聞いてみると、凪は水を一口含んで話してくれた。


「実はですね。見たんです」

「…………来てたのか?」


 少しの間思考が止まったものの、その結論に達する。

 そう考えれば色々と合点がいく。


「もしかして、あの後元気をなくしてたのも……」

「はい、霧香ちゃんと仲良くしてる蒼太君を見たからですね」


 自然と彼女から視線を外してしまいそうになった。

 霧香と行く事は凪に話していたが……だけど、それでも。反対の立場であればもやもやしていたであろう事も確かだ。



「そんな顔しないでください。あの頃の私も、蒼太君と霧香ちゃんの間には友愛以上の感情はないと分かってましたから。……というか、そのお陰で光ちゃんとも仲良くなれましたし、蒼太君とも仲良くなれたんです」

「テストの日の事か?」

「はい。ふふ、懐かしいですね。思えばあの日、やっと蒼太君への恋心を自覚したんですから」


 凪がグラスの側面を撫でた後、俺の手を握った。


「でも、ほんのちょっぴりだけ……心に引っ掛かりがあったので、今日来たいと思っていたんです」

「……そういう事だったのか」

「ええ。そういう事でした」


 家にいる時よりも気分が高揚しているのか、少しだけおどけた口調だ。楽しそうな彼女についこちらも微笑んでしまう。


「もちろん、ストロベリーフェアだったので来たかったという事もあります。いつか行こうはやめる、と決めましたから。良い機会だなと思ってたんですよ」


 凪の言葉に頷き、手を握り返す。

 気になった事はすぐにこうして話してくれて、行動して解決へ向かう。


 ……。


「凪って本当に凄いな」


 言うは易し、行うは難しというものだ。

 ずっと溜め込んでいたらいつか爆発する。しかしそれでも、心の中にブレーキは残ってしまうものだ。


 これから先、一緒に居る……暮らし続けるためにはとても大事な事だ。


 思わず感嘆が漏れ出た言葉だったが、凪はクスリと笑っていた。


「そんな凄い私が好きになったのが蒼太君ですよ。蒼太君も本当に凄い人なんです」

「そうか……いや、そうだな。それならもっと凄い人にならないとな」

「ふふ。お互いもっと凄い人になりましょうね」


 自分で言うのもなんだが、最近は凪のお陰で自己肯定感も高くなってきている。慢心しないようにとは思いつつも、それ自体は良い兆候だ。


 とはいえそれも、彼女が傍に居てくれたら大丈夫だ。

 人って一年でここまで変われるもんなんだな。



 そんな思考は彼女の咳払いによって止められた。見ると、隣で凪が唇を尖らせている。


「それはそれとして、もっと楽しいお話をしましょう。折角のデートなんですから」

「……そうだな。ごめん」


 少し意識が切り替わりそうになっていたので、ふうと一度息を吐いて気分をリセットする。


 ……よし、もう大丈夫だ。



「それでは……そうですね。これからも今日みたいに、いっぱい色んなところに行きましょう。霧香ちゃんや光ちゃんから聞いて行きたいと思ったカフェ。パン屋さんとかもあります」

「ああ。俺も瑛二達から話を聞いて、行きたいところがいっぱいあるんだ。プラネタリウムとか」

「いいですね! お家に帰ったら予定を立てましょう! 遠出をする場合は今日みたいに、何かしらのご褒美の形ででも」


 凪となら予定を合わせ、かなり自由にどこへでも行く事は多分出来る……が、今のうちから金銭感覚が狂ってしまうのはな。

 彼女の言う通り、特に遠出をする際は何かしらのご褒美という形の方が良いだろう。



 ニコニコと微笑みながら手をぎゅっと握られる。それを握り返し――彼女の目をじっと見つめた。



 蒼い瞳は陽射しを反射する海面のようにキラキラしている。

 本当に綺麗で、楽しそうに話す彼女の姿を見ていると……内に籠っていたものがどんどん膨れ上がってくる。


 大好きな人が隣で笑ってくれる。

 ずっと隣に居たいと思ってくれる。

 大好きだって言ってくれる。


 一度考えてしまえば止まらなくなってしまって――ああ、ダメだな。



「凪」

「なんですか?」

「大好きだよ」


 外だというのに、彼女に対する想いが溢れ出てしまう。


 それはたまにある事だった。家だと彼女を強く抱きしめていれば良いが、外だとそうはいかない。


 普段なら我慢をしていた。……我慢が出来ていた。



 彼女から視線を外し、周りを見た。今は人が少なく、こちらを見る人は居ない。


「……ど、どうしました?」


 きょとんと蒼い瞳で見つめてくる凪。小首を傾げる姿は本当に――本当に愛らしく思えて。



「……っ!」



 一瞬だけ唇を重ねた。


 瞬きをして終えるくらいには元の距離に戻る。それくらい短い時間。



 だけど――やってしまった。絶対に外ではしないと決めていた事を。



「……ごめん、本当にごめん。我慢、出来なかった」



 羞恥と後悔、この二つが混ざった感情が心を満たしていく。

 咄嗟に自分の手で顔を隠し、彼女から顔を背けた。


 けれど、彼女が俺を逃がしてくれるはずもなく……


「蒼太君」


 ちょんと腕をつつかれる。それでもまだ顔の熱は引かず、合わせる顔がなかった。



「蒼太君? 蒼太くーん?」

「……ごめんなさい」

「もう、謝らなくていいんですよ。とりあえずこっち向いてください」



 目を瞑り、一瞬思考が止まる……が、ずっと顔を背ける訳にもいかない。


 数秒だけ覚悟を決める時間を置いて、凪の居る方向へ目を向けると――



「私も大好きですよ、蒼太君」



 その言葉と共に――彼女の体温が唇を通じて伝わってきた。


 思わず固まってしまって……凪の赤く染まった肌と、それと対象的な蒼い瞳が目に映った。



「ふふ。これで共犯ですね」

「……な、ぎ?」

「初めてです。蒼太君が許可を求めずにキスしてきたの。……しかも、お外で」

「ご、ごめん」

「別に怒ってませんよ。それに、私も同じ事をしたんですから」


 ふっと凪が空気を吐き出すように笑う。それからそっと、手の甲を撫でてきた。


「蒼太君っていつも私の想像を超えてきますね」

「それは貶されてる……訳じゃないんだよな?」

「もちろんですよ。蒼太君の可愛いところ、また一つ発見です」

「そう言われると物凄く恥ずかしいんだが……」



 凪にはかっこいい姿を見せたい。

 ……彼女に頼るのが日常的である事を差し引いても、そういう思いはもちろんある。


 普段はある程度自分の感情を制御出来ていたからこそ顔が熱くなっていた。


「ところで蒼太君」


 目だけを動かして凪の方を見る。端整な顔立ちがそっと耳元に近づいてきた。



「キスだけで我慢出来そうですか?」

「……」



 彼女の言葉は小さくとも、しっかり聞き取れる。

 それを彼女自身も理解しているのだろう。何も返せない俺を見て微笑んできた。


 目を薄く閉じて、凄く楽しそうな笑みで。


「それじゃあ今日は予定変更という事で。準備しておきますね」

「……ありがとう」

「ふふ。どういたしまして」


 と、そこまで話した頃にやっとストロベリーパフェが来たのだった。



 ◆◆◆


 ゆらゆらと海の上を揺蕩うような感覚。それが眠っている時の感覚だ。


 しかし、本当に疲れていた時は別だ。瞬きをしたら時間が過ぎていたような、そんな感覚となる。


 そして今日は、その感覚の日だった。



「おはようございます、蒼太君」

「……おはようございます」



 視界いっぱいに広がるのは白い肌。それよりも更に白い綺麗な髪に、日の差し込んだ海のような瞳。


「……えっと。凪?」

「はい、蒼太君の凪ですよ」

「な、凪。それは……」


 彼女の言葉に思い出してしまうのは昨夜の事。全身の血液が全部顔に集まったんじゃないかと思うくらい熱くなって、顔を背け――


「ふふ、逃がしません」


 それは叶わなかった。凪の手が脇に差し込んできて、背中をぐっと引き寄せられる。

 彼女の体温が直接体に伝わってくる。……体温だけじゃなく、柔らかさも。


 こつんと額が合わさった。凪は楽しそうに笑って、今度は頬を擦り合わせてきた。



「蒼太君、大好きだよ」

「……俺も大好き、です」



 普段とは言葉遣いが逆のやり取り。だが、当然ながら距離が離れたとかそんな事はない。


 ないんだが……


「……なんか今、すっごい顔が熱い」

「ふふ、本当です。私はすっごく嬉しいんですけどね。昨日はあんな――」

「い、言わないでくれ。昨日は少し……色々我慢が効かなかった」



 起きたばかりなのに汗をかきそうだ。……というか、風呂にも入らなければ。


「そ、それより凪。起こしてくれてありがとう」

「どういたしまして、です。まだ時間はありますしお風呂の準備もしましたから、ゆっくりどうぞ」


 今日は凪が霧香達と遊ぶ日だ。俺も瑛二と少し出かける用事がある。


 準備をしようと思って立ち上がろうとするも、凪が離してくれない。


 蒼い瞳が一瞬下を向いて――凪は薄く微笑んだ。



「お手伝い、必要ですか?」

「……放っておけばそのうち治るから」

「それだと時間に余裕、なくなっちゃいますよ? お風呂場も汚れちゃうかもしれません」


 彼女の言葉がぼそぼそと鼓膜をくすぐる。


 どうやらもうしばらく、体に残る熱は引かないようだ。



 ◆◆◆


「おっはー! なぎりんみのりん!」

「おはよ。お姫様の護衛ご苦労さん」

「おはようございます。霧香ちゃん、光ちゃん」

「二人ともおはよう」


 凪と一緒に駅へ行くと、既に霧香と光が来ていた。


「瑛二は来てないんだな?」

「さっき財布忘れたって戻ってったよ。あれ? 連絡入ってなかった?」

「……まじだ。確認漏れしてる。すまん」


 霧香に言われてスマホを見ると、確かに瑛二からの連絡が入っていた。全速力で取ってくるらしい。『気にするな』とだけ返しておいた。



 今日凪は霧香と光と女子会をする予定であり、俺は瑛二が靴を買いに行くのでその付き合いだ。


 しかし、この三人が集まっていると変な男に声をかけられかねないという理由があった。それで、駅までとはいえ一旦集合する形となったのである。



「それにしてもなぎりん、なんか今日テンション高い?」

「あ、分かる。なんか楽しそーだよね。蒼太と何かあったん?」


 二人の言葉にビクリと肩が跳ねる。凪の視線が一瞬だけ俺を向いた。



 蒼い瞳に官能の色が混じる。目尻が下がり、真っ白な肌にほんのりと赤みが差し――



「ひみつです」



 桃色の唇の前に指を一本立てて、凪は薄く微笑んだのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る