4章 蒼太君の里帰り

第59話 蒼太両親

「……うた君」



 真っ暗に沈んだ思考の中。そよ風のように優しい声が耳をくすぐる。


 続いて、暖かいものがするりと頬を撫でてきた。



「蒼太君。……もう」


 小さく笑う声が耳に心地良い。そう考えた次の瞬間。



「早く起きないと……イタズラしちゃいますよ?」


 耳元でそう囁かれ。俺の意識は一気に覚醒した。


 瞼を開くと、すぐ目の前に綺麗な顔があった。



 海の底のような、宝石のような。いつまでも見ていたくなる綺麗な蒼い瞳。

 薄い桃色をしていて瑞々しく、思わず指で触れたくなる唇。

 シミひとつない、もちもちでスベスベとしている頬。


 その顔は西欧を思わせるようなもので、誰もが目を奪われる美貌を持っていた。


 真っ白でサラサラとしている髪が肩から滑り落ち、頬に掛かった。少しくすぐったい。


 凪はその髪を指でそっと掬い、耳に掛けた。


「おはようございます、蒼太君」


 凪はそう言って顔を近づけ――唇を落とした。


 ふわりと甘い香りがするのと同時に、肩に柔らかい感触があった。


 それがなんなのか。見なくても分かるが、なるべく気にしないよう努める。


「……おはよう、凪」


 そう返すと、凪は柔らかく微笑んだ。その笑顔は思わず見惚れてしまうようなものだ。



 その笑顔は日常的に向けられてくる。……そのはずなのに、一向に慣れない。


「さ、蒼太君。準備が出来たら一緒に朝ごはん食べましょう。お味噌汁、出来てますから」

「あ、ああ。ありがとう」


 凪は早起きだ。……目覚ましで起きると言ったのだが、自分が起こしたいと言ってくれたのだ。


 凪はそのまま戻ろうとして。あっと声を上げて立ち止まった。


「蒼太君」


 振り返り、また俺の名を呼ぶ凪。なんだろうと首を傾げていると凪は近寄ってきて。



「蒼太君成分の補充です」


 体が柔らかく、暖かいものに包まれた。ハグをされているのだと気づき……俺はその背中に手を回した。


 この手の中にいる凪が愛おしく。強く、強く抱きしめてしまう。

 凪は応えるようにその手の力を強くした。


「もうあの取り決めもやめます。したくなった時にキスもハグも……おねだりします」

「ああ。いつでも。……俺もしたくなった時に言う」


 凪のくすりと笑う声が聞こえ。「大好きです」と耳元で囁かれた。



 彼女が俺の恋人であり――婚約者の、東雲凪しののめなぎである。


 ◆◆◆


 蒼太君は本当に、かっこよくて優しくて……可愛い。


 思わず寝顔をじーっと見てしまい、気がつけば五分も経ってしまったのは内緒だ。


 つい欲が出てしまって、キスとハグもしてしまったから今更な気もするけれど。


「ん、美味しい。体が温まってホッとする感じだ」

「ふふ。良かったです」



 蒼太君は本当に美味しそうに食べてくれる。思わず自分のご飯を食べ忘れてずっと見てしまいそうになるくらいだ。


 蒼太君は食べ方も綺麗だ。恐らくはご両親の育て方が良かったんだと思う。


 そうして食べながら雑談を挟む。羽山さん達が冬休みをどう過ごすのか、巻坂さん達がどう過ごすのかを話したり聞いたりして。


「そういえば昨日、珍しくパパもママも外出してたんですよ」

「外出って……夜までか?」

「はい。須坂さん達は泊まり込みで働いていただいているのでお留守番をしてもらってましたが。帰ってきたのは今朝らしいです」


 須坂さんは昔ママがお世話になった人らしい。


 とある事があって職を失ってしまった須坂さんをお手伝いとして雇ったそうだ。今でもママと仲が良く、雇用条件も良いらしいので泊まり込みで働いてると聞いた。休日もあるのだけど、ほとんどを家で過ごしている。

 昔はよく遊び相手になって貰ったし、今でも料理などを教わっている。良い人だ。


「珍しい……んだな」

「はい。特に最近は、必ずと言っても良いくらい夕ご飯は一緒だったので。前も夕ご飯はパパ達が忙しくない限り一緒でしたが」


 そう言うと、蒼太君は柔らかく笑った。そうか、と呟いて。


「仲良く出来てるんだな」

「はい!」


 パパやママと。最近はかなり話す回数が増えた。二人とも仕事の合間に連絡を入れてくれるようになったし、夕ご飯を食べながら学校での事や蒼太君達の事を聞いたりしてくれる。反対に、仕事の事などを聞く事も増えた。



 ――それも、全部。蒼太君のお陰だ。


「ありがとうございます」

「……ん? 悪い、聞こえなかった」


 小さく。本当に小さく呟いたので、蒼太君には聞こえなかったらしい。


「『大好きです』って言ったんですよ」


 そう言うと、蒼太君の目が丸くなり。その頬がどんどん朱色に染まっていった。


 それが可愛らしく、思わず微笑んでしまった。蒼太君は一度サッと目を逸らしたが。その視線を私に合わせて。


「俺も、大好きだ」


 と、そう返してくれた。


 ……ああ。おかしい。


 いっぱい……いっぱい、言われたはずなのに。慣れる気がしない。

 頬の筋肉が緩くなり、だらしない口を見せそうになって。思わず手で隠した。



『嬉しい』という気持ちと『好き』という気持ちがいっぱいになって、溢れそうになる。


 溢れたところで蒼太君が受け止めてくれるという事は分かってるけれど。それでも、ダメだ。


 きっと、いつでも蒼太君を求めるようになってしまうから。家でも外でもお構いなしに。


 それは良くないとどうにか自制し、ご飯を食べる。


「……美味しい」

 蒼太君はまたお味噌汁を飲んで小さく呟いた。その言葉でもっと嬉しくなる。


 彼はこうしてちょっとした気持ちもちゃんと伝えてくれる。


 蒼太君が――海以蒼太みのりそうた君が私の恋人で、婚約者なんだ。


「ふふ」


 そう考えると思わず口の端から笑みが零れてしまい、蒼太君は私を見て小さく笑う。とても優しい笑い方だった。


 そうしている間にも幸せな時間が過ぎていき――蒼太君の故郷に戻る時間が近づいてきた。


 ◆◆◆


 新幹線で二時間ほど過ごし。駅に着く。ここまで遠出をするのは初めての事だ。


 本当ならば、また電車で三十分ほどかかるらしいけど。


 蒼太君が駅の入口を見てため息を吐いた。そこには――


 蒼太君のお母様。……そして、私のお義母様になる海以和美みのりかずみ様が居り、その隣に屈強な男性が立っていた。



「蒼太あああぁ! 愛しの我が息子よおぉぉ!」


「父さん。頼むから大声だけはやめてくれ」


 その屈強な男性……ええと、蒼太君のお父様……という事は、私のお義父様になる人が近づいてきて。蒼太君を抱きしめた。


「何年ぶりだ……こうして顔を合わせるのは」

「四ヶ月ぶりだよ。夏休み帰ってきたよな」

「馬鹿野郎。体感時間は四年くらいだ」

「はいはい」


 蒼太君はどこか受け流すような言い方で……でも、少しだけ嬉しそうに見えた。


「もう、お父さんってば。凪ちゃんが圧倒されてるでしょ?」

「お、おお。すまない」


 蒼太君のお父様が蒼太君を離して。私を見た。


 ……大きい。蒼太君より一回り。


 蒼太君でも背は決して低くないはずなのに、かなり差がある。190cmとかあるかもしれない。


 決して、蒼太君も細い訳ではない。体格は恵まれた方だと思う。手も大きいし。


 でも、その蒼太君より大きく。周りの人よりも目立つ容姿をしていた。


 思わずたじろいでしまい。お義母さんが私を見てくすりと笑った。


「緊張しなくて良いのよ。この人小心者だから。家でも加齢臭を気にして消臭剤を部屋に掛けまくったり、なんなら自分にも掛けようとしてたのよ?」

「何やってんだよ父さん……」


 二人の言葉に蒼太君のお父様がはははと小さく笑った。照れているようにも見える。



 人を見かけで判断してはいけない。うん、大丈夫。


「お、お初にお目にかかります。蒼太君とは懇意にさせていただいてます。恋人……いえ。婚約者の東雲凪しののめなぎです」


 どうにか噛む事なく言えた。ホッとしながらも表情は緩めないように。


「よろしくお願いします」


 そうして、頭を下げると……少しの静寂の後に。


「う、うおおおおおおん」

「ちょ、とうさ……」


 蒼太君とお父様のそんなやり取りが聞こえた。何があったのだろうかと顔を上げると。


 またお父様が蒼太君に抱きついていた。


「よがっだああぁぁ。よがっだなあああ。ぞうだのいいどごろをわがっでぐれるごがいでええぇ」

「わ、分かった。分かったから離れて、父さん。鼻水出てるから! 汚い!」


 しかもお義父様は泣いていた。蒼太君が引き剥がそうとするもビクともしない。


 すると、お義母様がため息を吐いて。


 ズビシッ!


 とお義父様の頭に手刀を入れた。かなり勢いよく。


「いっっっ……」

「まったく……蒼太からも外ではベタベタしないって言われてたでしょ。でもそんな事より」

「そんな事って……死活問題なんだが」

「それは後でね。それよりお父さん。自己紹介」

「は、はい! 海以大吾みのりだいごです! 蒼太のお父さんやってます! 夢は孫に「じいじ」と呼ばれる事と蒼太に「大好きだよパパ」と言われる事です!」

「言わないからな」


 お義母様に言われてお義父様はビシッと背筋を正し、綺麗なお辞儀をした。



「ふふ」


 そのやり取りを見て、思い返して。思わず私は笑ってしまった。



 ――蒼太君が蒼太君である理由が分かった気がした。


 優しさがあって、しっかりしていて。思いやりがあって。



 少しだけ甘えんぼで、人を甘えさせるのが上手なのは自分がよく知っていたからなのだろう。


「これからも、愛しの息子の事をよろしくお願いします。凪ちゃん」

「はい。必ず幸せにします。――幸せになります。二人で」


 一度、その言葉を受け入れて。自分の意思を伝える。


 ――蒼太君があの事を話しているのかいないのか、分からないけど。


 どちらにせよ、こうして受け入れられるだけの状況には甘えられない。


 蒼太君がこれだけ愛されているのだと知れば尚更だ。


 でも、今ではない。


 どのタイミングで切り出すか、とかはまだ考えてないけど。


 今は切り替えて楽しもう。蒼太君の故郷を。

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